フランシス・ゴールトンの優生学の系譜と生命倫理学のSOLとQOLの対立


ダーウィンを起源とする進化論によれば、自然界の生物達は、自然選択と突然変異を通して、新たな形質を獲得し異なる種へと進化していきます。
自然選択(自然淘汰)は、他の個体との食料の争奪戦や繁殖の為の異性獲得の闘争といった生存競争を勝ち抜いた個体がより多くの子孫を残すという意味だけではなく、急激な気候の変動や地形の変化、伝染病の蔓延、地震・火山活動・氷河期の到来といった自然の猛威に耐え抜いた個体がより高い確率で子孫を残すという意味もあります。
進化生物学について、無数の生物種が生きる自然界の摂理が“適者生存”であるというのは正しいですが、“優勝劣敗・弱肉強食”というのは正確ではありません。

環境へより上手く適応した種や個体が生き残るという『適者生存の法則』は、自然界において成り立ちますが、種単位・個体単位でより強力で優等な種や個体が生き残ると言う意味での『優勝劣敗や弱肉強食の法則』は、自然界において成り立ちません。
例えば、食物連鎖のピラミッド型の階層構造の中で、他の生物種から捕食される危険性が少ない大型肉食獣は、種・個体単位では他の生物種よりも攻撃力があり強力な種・個体ですが、他の生物よりも強いからといって必ずしも絶滅する危険性が低いわけではありません。また、攻撃力が弱くて、鳥や動物などから多くの個体が捕食される昆虫が、弱いからといって必ずしも絶滅する危険性が高いわけではないことからも明らかです。

それらのことから、同種の個体や他の生物種との生存競争を含む広義の環境により良く適応した個体が、より多くの子孫(遺伝子)を残していく可能性が高いというのが自然選択ですが、この自然選択には『より優秀で高等な生物が勝ち残る』といった発想は含まれていません。
しかし、自然界の一般法則を人間社会の一般法則とのアナロジー(類似性)で捉えようとする自然主義の誤謬に基づいた学問分野として発達した優生学(Eugenics)』という分野があります。
優生学は、ヒトラーが主導するナチス政権下において、機械的に遂行されたユダヤ人、ロマ(ジプシー:漂白流浪の民族)、心身障害者などを対象とした非人道的な大量虐殺の理論的根拠ともなっており、別名、悪魔の学問とも言われます。

優生学とはどのような学問なのかを簡単に説明すると、『社会内の優等な遺伝子を有する生命(個人)を増やし、劣等な遺伝子を有する生命(個人)を減らす事を目的とした遺伝学的・社会学的な要因特定の研究分野』という事が出来るでしょう。
優生学の根底にあるのは、生命誕生の統御や生命の質の選別といった生得的な人権を否定する“知性優位主義”であり、科学理論や科学技術によって人間の生命の質の優劣を判別できるとする“科学万能主義”です。

優生学の始祖として知られるイギリスの遺伝学者フランシス・ゴールトン卿(1822-1911)は、『人間能力の研究』という優生学のバイブル的な書物を著し、人間の個人的な能力の差異と優劣の研究を統計学的に推進することが可能であり、優等な形質を有する遺伝子を選別することでより理想的な社会が構築できると考えました。
フランシス・ゴールトンの研究動機は、イギリスのアングロサクソン民族の遺伝的改良であり、人種としての優位性の明示的証明であったと言われますが、彼はその研究の為に自分が強い興味を抱いていた統計学の技法を駆使して膨大な能力の個人差に関するデータを解析していました。
しかし、現代の思慮深い人が少し真剣に考えてみるとわかるように、厳密には、人間の能力や特徴の優劣を客観的な基準で測定することは不可能であるという結論に行き着きます。

人間の知的水準・技芸能力・身体的特徴・身体的能力を、統計学で取り扱い易いように数値化して相対的に比較評価することには所詮限界があり、何に高い価値を置くか、どういった基準や問題で比較するかによって優劣は容易に入れ替わります。
特に、どういった遺伝形質が最終的に種の存続に有利に働くのかといった究極的な遺伝子の質の選別は、人間の主観的な知性によって事前に完全に予測し判別することは不可能であるといえるでしょう。

このように、進化生物学が示唆する自然界の自然選択による個体選別を、人間社会の優勝劣敗に基づく自然淘汰へと歪曲して同一視する思想や考え方を『社会ダーウィニズムといい、優生学や社会ダーウィニズム自然主義の誤謬の一典型として認識することが出来ます。

このように優生学の歴史を堅苦しく振り返ってみると、現代ではそのような遺伝的優劣を測定するような差別的思想や非人道的対処は許されないから優生学は過去の学問・思想に過ぎないという感想を抱くかもしれません。
しかし、人権思想の普及が進み、個人の個性として遺伝形質を認知する考え方が一般的になってきた現代社会においても、優生学の基本的思考形態は、個人の内面的価値判断の中で潜在しています。
例えば、生殖医療分野において、遺伝性疾患や先天性奇形、重篤な心身障害を有する胎児を出生前診断(遺伝子診断)によって発見し、健康で正常な胎児のみを選別しようとする発想には、優生思想が内在しています。
出産前の自分自身の胎児のみに対する優生思想なので、実際の社会的な迫害やマイノリティに対する弾圧といった危険性を持つナチスが用いた優生思想の論理とは異なりますが、胎児期の障害・奇形の有無によって生命の質を選別しようとする内面心理の中には優生学的な差別思想が沈潜・内在していることもまた事実です。

勿論、こういった差別意識を完全に排除するのは容易なことではなく、私も含めて多くの人は、自分自身の子どもが重篤な遺伝疾患や先天性奇形を抱えていることが判明した時に、人工妊娠中絶の誘惑に駆られる可能性が僅かなりともあるのではないかと思います。
奥深き内面に、正常と異常、健康と病気という二項対立的な差別意識や優劣判断を潜在させていることそのものを明白に否定できる人というのはそう多くないでしょう。
他人(友人知人)の障害や疾患に対する差別意識はないと明言することができ、実際に健常者と障害者と全く分け隔てのない対応や交流が出来る人であっても、自分の子どもが重篤な異常や障害がある場合にそれを自らの運命として受け入れ、出産の判断が出来るかは非常に難しいことだと感じます。
極端に言えば、実際に重篤な先天性の障害や疾患を抱えた子どもを産み、愛して慈しんでいる親御さん以外には、一点の曇りなく優生学的な差別意識を超克していると宣言することは不可能ではないかとも思います。

この問題は、生命倫理学(バイオエシックス)では、主要な研究分野の一つであり、胎児単独での生存権や人工妊娠中絶の倫理判断などに関わってくる問題ですが、私はこういった純粋に倫理的な問題を法的な規制や処罰の対象とするのはそぐわないのではないかと考えています。
受精卵や胎児の生命をどの程度尊重すべきなのかという意見の相違は、宗教的信念の有無や人権思想の敷衍の程度の違いなどに依拠して生まれてきます。
究極的には、生命至上主義(誕生し、存在することそのものに最大の価値がある)と功利主義(誕生することそのものよりも、誕生以後にどのような人生の過程を送ることが出来るかという事に価値がある)の対立の問題に還元されるでしょう。
あるいは、“SOL(Sanctity of Life)”QOL(Quality of Life)”の言葉が象徴的に示すような、『人間生命の不可侵の尊厳(神聖性)』と『人間の人生の質(クオリティ)』が交錯し葛藤する問題でもあります。

生命倫理学において、SOL(生命の尊厳)概念というのは極めて重要な概念であり、最も価値観の相違によって意見が激しくぶつかり合う概念でもあります。
あらゆる生命の尊厳を不可侵な神聖なものとすると、私達人間は生存を維持することが出来ない為、どの生物種にどれくらいの生命の尊厳を認めるのかという事を考えなければなりませんし、受精卵〜胎児〜新生児といった発達段階のどの段階において不可侵の生命の尊厳を見出して線引きするのか(線引きできないとする意見もあります)という判断も、法的に中絶可能な週数などに影響してくる重要な倫理判断と言えるでしょう。

変わるべき個人と変えるべき環境・他者との原因帰属を巡る葛藤


カウンセリングや心理療法といった個人の心理的問題の解決を援助し、精神症状の苦痛を緩和していくアプローチが抱えている原理的な限界性として、“個人の内面心理と社会環境の調整の限界”が考えられます。

ロジャーズやマズロー人間性心理学が人間の本性として説く“実現傾向”(健康・適応・成長へと向かう人間の潜在的な能力)を強く信奉するカウンセラーや心理臨床家であれば、心理的苦難を抱えたクライアントに無条件の肯定的尊重の意図をこめてこう言うかもしれません。
『あなたは何も変わらなくて良いんですよ。今の自分を否定せずに、ありのままのあなたを受け容れていく過程で、問題を解決する為の自己決定を為す時がやってくるでしょう』

しかし、自己受容の促進や自己肯定の強化による自尊心の回復だけでは、多くの場合、心理的な苦痛や不安がある程度軽減されることはあっても、本質的な問題や症状の解決にまで辿りつく事は困難です。
また、自分自身の心理状態を客観的に振り返ってみたり、自分の置かれている状況を冷静に再認識して、問題解決を主体的に行っていける『一定の自我の強さ』が備わっていなければ、カウンセラー側が積極的な介入を行わない支持的療法では大きな成果を挙げられないかもしれません。

しかし、ロジャーズやマズローのヒューマニスティック心理学が提示した『個人の人格性・自己決定の無条件の尊重』は、現実社会での自己肯定感の低下を補う効果や自分自身で自分の問題を解決しなければならないという自立的態度の確立を為す効果があることも事実ですから、一般的な生活上の問題や人間関係の葛藤であれば、クライアントの主体性や自己決定を尊重して傾聴する来談者中心療法も、自立的な人生の構築にとって有効な方法と言えるでしょう。

『個人の心理』と『外部の環境や対人関係』の相互的関係性を前提としてロジャーズ流のカウンセリングの問題点をやや批判的な視点から指摘するならば、『他者との関係性や外部環境からの影響性によって生じている問題であっても、その原因を個人の内面へと還元してしまう可能性がある事』を指摘できるでしょう。
よく色々な人生相談の場面などで引き合いにだされる通俗的な心に関する言説として、『社会制度や政治問題は個人の力ではどうにもならないし、それと同じように、他人の気持ちや考えは簡単には変えられないが、自分の気持ちや考え方は意識的に努力すれば変えられるのだから、あなたの態度や考え方次第で状況は良くも悪くもなる』という解釈の多義性と心理の自己制御を根拠においた説得や助言がなされることがあります。
確かに、『外界の事象に対する解釈の多義性』は、認知理論の前提を踏まえたものではありますが、本当に本人に一切の誤りや落ち度がなく、相手が全面的に間違っている場合であっても、本人に責任の大部分を還元してしまう恐れがあります。

個人の自立性と自己決定を最大限に尊重するという立場は、自由主義社会の基本的理念に沿う立場であり、現代の自由民主主義社会に生きる大部分の人が、この個人の自立性と自己決定を尊重する立場に立ち、個人の直面する問題や困難の責任は、個人に帰属するという考えを持っています。
この個人主義自由主義の前提としての自己責任の論理そのものが間違っているわけではなく、基本的には自分の行動や態度によって生じた結果に対して自らが責任を取らなければなりませんし、その自己責任の原則の遵守によって社会秩序が維持されているとも言えます。
この個人への責任帰属は、個人の精神機能への責任帰属という事とほぼ同義なのですが、人生の様々な場面で問題となるのは、個人の責任でない社会環境や他者の行動の責任として発生した苦痛や障害であっても、“個人のこころの問題”へと還元されてしまいやすい事でしょう。

専門的なカウンセリング場面であっても、一般的な心理相談場面であっても、『社会構造・経済システム・他者の心理』というのは殆どの場合、不変的事実や適応すべき環境として提示されるわけで、厳密な意味では、精神分析療法の原則としてフロイトが掲げたような“分析者の中立性”を堅持するのは困難であると言えるでしょう。
徹底的な傾聴による共感的な理解と積極的な肯定をカウンセラーの基本的態度として推奨したロジャーズの限界と葛藤が顕示するのは、こころの問題と社会環境の要因の双方が複雑に絡み合った心理的問題へ対処する時です。
現代では、個人の価値観が多様化して、細かな生活行動の良否に関するコンセンサスを得る事が実質的に不可能となっています。更に、社会環境が複雑化して、各種領域が専門化の度合いを強める中で、『個人の人格性や価値観を尊重しつつ、環境への適応を行うことが困難であるケース』が増加しているところに解決困難なアポリアや適応困難な障壁が生じていきます。

個人の内面心理の変化変容と社会環境・経済体制の改善変革との相互的なバランスを取ることで、より幸福な個人の心理生活の実現とより良い社会環境の整備が進行していくのではないかと思います。

近代社会システムの揺らぎとNEET人口増加の問題


「ニート」2002年で85万人、定義見直しで膨らむ――YOMIURI ON-LINE


内閣府の「青少年の就労に関する研究会」(委員長・玄田有史東大助教授)は22日、学校に行かず、働かず、職業訓練にも参加しない「ニート」と呼ばれる若者が2002年には85万人だったとする集計を公表した。

厚生労働省は2004年版労働経済白書で、ニートの定義に「家事の手伝いもしない」ことを加え、2003年で約52万人と試算していた。

これに対し、内閣府の研究会は「『家事手伝い』は就労意欲のないケースが多い」としてニートに含めたため、数字がふくらんだ。

同研究会では、ニートは1992年より18万人増え、85万人のうち就職を希望しながら求職活動をしていないのが43万人、就職を希望していないのが42万人だったとしている。

NEETとは、“Not in Education,Employment or Training(雇用・教育・職業訓練を受けていない無業者)”の略語であり、ひきこもりや失業者という呼称に代わって使われることの多くなった比較的新しい社会学領域の用語である。
NEETを、『雇用・教育・職業訓練を受けていない者=受動的な社会義務を放棄した者』と表記すべきなのか、『就労せず、勉強せず、就職の為の訓練を行っていない者=能動的な行動意欲を喪失した者』と表記すべきなのか若干躊躇したのだが、今回の記事では、近代国民国家あるいは資本主義社会の根幹を支える“勤労道徳と国家財政の維持継続”という観点から考えてみたいと思い、受動的な社会義務として労働・教育・職業訓練を捉えてみた。

国家の最高法規である憲法には、国民に3つの義務を規定しているわけだが、その初等教育において子ども達に教えられる3つの義務とは『労働の義務・納税の義務・子女に普通教育を受けさせる義務』である。
何故、私達が働かなければならないのかという法的根拠は憲法第27条『すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ』にあるわけだが、当然、27条の労働の義務は、国家への無償奉仕や有無を言わさぬ就労の強制という意味合いではなく、憲法第25条などに掲げられる国民個々人の“健康で文化的な最低限度の生活”の実現や国民の納税によって実現される社会福祉社会保障・公衆衛生の向上増進”の為の労働の義務と解釈すべきものである。

しかし、NEETという用語を一つの社会問題のスキームの中で持ち出しているのは、急速に進行する少子高齢化や都市と地方の人口格差など人口動態学的な変化と800兆円に迫らんとする膨大な国の国債残高(借金)の拡大を睨んでのことだと推察できる。
常識的に考えても、若年層のNEET人口が増加する流れが続けば、国家歳入の源泉である税収が確保できなくなるため、公的な社会保障制度(年金・医療・介護・教育の公的負担)や社会福祉政策を維持向上させていくことが困難になっていくのは論理的必然である。
国の政策的観点からは、財政破綻社会保障制度の破綻を回避する為には、NEET問題解消による納税者のパイの増大が必要であるということである。

また、未就労のNEETの大部分は、一生涯働かずに生活できるだけの資産を持っていないことが想定される事から、今、就職支援活動や職業訓練支援をしておかないと、将来的な社会不安を招来する懸念があると政府側や有識者は考えているのかもしれない。
現在、親の扶養や資産などによって最低限の衣食住が賄われているNEET達が、数十年後に膨大な人口の生活困窮者となる可能性は否定できない。その段階に至って、それまで納税や社会活動を行っていなかったNEETに対して、巨額の公的資金投入による救済政策を取る必要性に迫られた場合に、相当に大きな議論が巻き起こることも予想される。

生死に関わるような究極的な経済的貧困層が無視できない人口割合を占めるようになれば、正に、経済階層の二極化によるマルクス的な階級闘争の様相を呈する恐れがないともいえないわけで、極端な経済格差の拡大が教育・職業・経済力の世襲的状況に接続される事態は、社会秩序の維持や国民相互の連帯協調という観点からは望ましくないものであるとは言えるだろう。

社会通念としての勤労道徳として、『働かざる者、食うべからず』という格言めいたものがあるが、これは日常、不本意なやりたくない仕事であっても生活を維持する為に必死に働いている人に対しては非常に説得力のある道徳規範であり、一般の人たちがホームレスや金銭目的の犯罪者などに対して冷ややかな視線や態度を取りやすいのは労働意欲を持たず社会参加をしない者や不当な手段で金銭をせしめようとした者が、経済的困窮に陥るのは自業自得であるという認知が働いているからである。

社会心理学で、人間が他者の状況と責任をどのように認知し判断するのかという心理過程を分析した理論に、『原因帰属理論』というものがあるが、人間は相手の現在の危機的状況(結果)が、相手の行動・選択に原因が帰属すると考える場合には、その人の自己責任を厳しく追及する心理機制が働くようになっている。反対に、現在の危機的状況(結果)が、本人の行動・意志・選択と無関係な、予測不可能な突発的な事件・事故、経済情勢の悪化による失職などに基づく場合は、本人に対して自己責任を問われることは少なくなっていく。

原因が、“意欲・意志・価値観・行動・選択・趣味嗜好などの個人的要因”に還元されれば、相手に対する公的な支援・援助を行うべきだという社会的コンセンサスは得られにくく、“経済情勢・雇用環境・社会構造・時代状況・経済政策などの環境的要因”に還元されれば、相手に対する公的な支援・援助を行うべきだという気運が高まっていく。
つまり、誰にだって予測できない突然の状況変化や事件事故といった環境的要因によって、不幸で困難な事態に追い込まれる可能性があるのだから、相互扶助の精神で助けてあげたいという気持ちが高まることによって、社会的コンセンサスは形成されやすくなるのである。

同時に、相手の現在の成功や幸福の原因が、相手の行動・意志・選択に帰属すると認知する場合には、その相手に対する高い評価や快い称賛が送られやすくなってくるとも言える。
つまり、原因帰属理論を検証する為の膨大な実験結果が示唆するのは、経済的困窮の原因が、『自分が働きたくない。自分にふさわしい仕事がないから働かない』という意志や選択に帰属する場合には、同情や共感といった肯定的反応はまず起きず、相手に対する嫌悪感や抵抗感が生じやすくなってくる。
予期せぬリストラをされた失業者に対しては同情や共感が起こりやすく、公的資金を投じてでも生活を支援し再就職しやすい雇用環境を整備すべきだという世論が形成されやすいが、自分自身の感情や選択によって自発的に退職し、なかなか仕事を探そうとしない人に対しては同情や共感は起こり難く、公的支援は行われ難い。

NEETの場合には、『心身に特別な障害がない若年層であるにも関わらず、何らかの個人的要因によって就職活動や労働行為を行わない人たち』という認知が先行している為に、現在の就労支援や職業訓練といった形態以外の公的負担を行う事に対しては強い世論の反対が湧き起こることが予想され、将来的な生活困窮者の飛躍的増加に対してどのような政策的対応を取るのかに対して議論紛糾する可能性は高くなるのではないかと思う。
臨床心理学や精神医学の分野において、“非社会的問題行動”と定義されてきた就職拒否、ひきこもり、不登校(登校拒否)、社会的義務責任の放棄などの問題の正確な理解には、個人の気質性格や精神の発達段階、心理特性、価値観などに目を向ける心理学的・医学的アプローチだけでは足りないだろう。

全ての社会問題を、個人の心理的原因に還元することを、私は自然主義の誤謬になぞらえて、心理主義の誤謬と呼びたいと考えている。
非社会的な問題行動だけではなく、うつ病抑うつ感・不安感を伴う適応障害などの精神障害の原因を考える場合には、個人の内面的原因や価値観だけに原因を求めるのは公正客観を欠くと言わなければならないし、正確に人間精神の構造と変容過程を理解し、精神の本質に接近する為には、絶えず“心理と環境の相互作用”“国家統治システムと個人の生活状況の動態”を考慮しなければならない。
私が、各種精神障害を考える場合に、脳神経科学的原因のみを重視する薬物優位主義に懸念を感じるのは、精神障害の総合的な原因理解を軽視して、人間個人の脳内環境の異常が精神症状の出現と殆ど同義のものと考えている極端な精神病理観についてである。

情報伝達物質の分泌バランスの障害の問題に全てを還元する傾向があると、社会構造の歪みや経済環境の問題といったより広範な環境改善的視点が忘れられやすい。しかし、こういった問題を精神科医臨床心理士が取り扱うというのは現実的ではないというのもまた確かであり、複雑性を増す現代社会の精神病理の解明と克服は相当に至難な道となっていくであろう。
行動面での社会不適応性という伝統的精神医学の異常性解釈を適用すれば、NEETという行動形態そのものが、フーコーが危惧した近代の異質性排除のメカニズムにより精神病理学的な異常とラベリングされる危険もある。

そういった問題行動と精神病理性の結合の問題は、ひきこもり問題においても散々議論されたことでもあるが、行動の不適応性と精神の健全性をアナロジーで観察することには十分な注意と慎重さが必要である。その意味で、行動科学的な精神理解が一般化することには、一定以上の差別や排除の危険性を内包しているという事が出来るだろう。

無論、私は脳神経科学に関する理論や知見も十分に説得力があると思うし、人間の精神機能は脳内現象や脳内の神経活動によって成立していることはほぼ疑いないと考えているが、自然科学的な人間理解だけではどうしても現象の一部分だけを切断して分析するという部分的な分析主義への偏りが起きてしまうとも思う。
自然科学の世界観は、基本的に要素還元主義に基づいており、全体的な現象や出来事が幾つかの構成要素に還元できるという強固な信念を有している。

脳内のセロトニン系やノルアドレナリン系の情報伝達の改善によって全ての精神症状や心理的苦悩が解決するわけではなく、薬物療法は症状緩和に非常に有効ではあるが、絶えず、環境改善や環境調整といった政治的努力や社会構造の改善努力も同時に行っていかなければならない。

人間の心理的諸問題の客観的な解明には、心理学的アプローチだけではなく、社会構造や経済メカニズム、雇用環境と教育制度などを総合的に考察する社会科学的・経済学的なアプローチも必要になってくるのではないかと思う。

個人の複雑な内面世界の力動的葛藤や近代の画一的な経済活動のシステマティックな普及と近代先進国家の制度枠組みによる個人の監視管理体制などに興味を持つような人たちにとっては、NEET心理的葛藤や苦悩に対して共感的アプローチを図ることも可能であるが、社会の大多数を占める人たちにとって、そういった心理学的・社会学的・哲学的な理屈や解釈はおそらく通用しない可能性が高いという事も留意することが必要かもしれない。

論理整合性や無矛盾などによって正当性を主張できる余地のあるインターネット内部の世界とは異なり、プラグマティック(実利的・実際的)な行動・能力や価値観が重視されるのが現実世界であり、複雑精緻な観念的思考がどれほど完成度や説得力が高くても、NEETであるという立場そのものに対する自己言及を迫られる事により、経済的に自立できていなければ自己責任を問われる可能性が高くなる。
というよりも、NEETの最大の問題点は、『経済的な自立性と社会的な責任意識の欠如』にあるわけだから、そこさえクリアできていればNEET問題そのものが発生しないとも言い換えることが出来るわけである。

つまり、NEETに対する批判可能性が開けてくるのは、『NEET自身が、自分の生活を自分の力で維持できない』という一点に尽きるのであって、その根底には『将来の窮乏する財政下において、NEETに対する公的扶助政策を行うことなど認められない。真面目に働いた人が馬鹿を見る社会はおかしい』という一般的な勤労道徳に妥当性を感じる多くの国民の嫌悪や抵抗があると言えるだろう。
この事から言えるのは、NEET自身が、将来にわたって国家が行う公的な生活支援・生活保護などの社会保障政策を受ける必要性がないことを示せば、NEETへの批判や反論が鎮静化するということであり、あるいは、所得税などの直接税から消費税などの間接税へと税制をシフトさせていくことで不公平感を緩和させられるかもしれない。しかし、間接税の強化は、一般的に低額所得者層の生活を逼迫するので、この税制シフトはあまり歓迎されないだろう。

もしくは、公的年金制度を、個人責任を明確化しない徴収方式に変更するという対応策も考えられないではない。
消費税などによる公的年金の積立て方式を採用することで、誰がどれだけ支払ったかを不明瞭にすることで、結果として高額消費を行う層が高い税負担をすることになる累進課税的な公的年金制度となるが、これは社会主義的な行き過ぎた平等主義であるとして中流階層以上の国民から反発を受ける可能性も高い。
自由・平等・友愛が、フランス革命で掲げられた人権思想の根幹であり、自由民主主義社会の基本理念であるが、人はその本質として(実現可能な条件が整ったとしても)完全な結果の平等は望まず、一定の自己責任と自律性による格差を求めるものであるし、それがなければ社会秩序や経済水準の維持と社会の進歩発展が成り立たないとする見解も有力なものである。


これから、飛躍的に増加していく高齢者層への年金給付や公的保険制度による医療・介護の負担が、ますます国家財政を圧迫していく事が予想されていく中では、現行の国民年金・厚生年金が採用している賦課方式ではいずれ制度そのものが存続不可能になることは明白なのだから、それに代わる長期にわたって継続可能な高齢者扶養の社会制度を熟慮検討していく必要があるだろう。
巨額の赤字の膨張による国家財政破綻の危機に陥る可能性を考慮して、病的側面や心理的内閉性がクローズアップされ過ぎたひきこもりに代わる、未就労者の定義が必要となってきたのではないか。
その結果、就労のための再教育や職業訓練が可能な層としての『NEETという概念』が政治的な社会防衛の意図をもって提示されてきたと考える事ができるように思える。


また、時間のある時に、心理学的な若年層の非社会的行動の分析、近代資本主義国家と経済活動などを再考してみたいです。

ブログにおける議論の促進と抑制の原理


むだづかいにっき♂さんに、何でもかんでも総ブログ化計画:【募集9】批判や反論……を題材にした“批判や反論……大人の対処法は?”という興味深い記事があったので、インターネット内のブログやウェブサイトの掲示板などにおける議論の促進と抑制について考えてみたいと思います。

まず、議論の場に参加する論者達に、『議論とは何か?』という合意が相互に出来ていない場合には、議論に誹謗中傷・罵倒・侮辱といった議論する内容とは無関係のノイズが多く混入してくる可能性があり、建設的な価値創造的な議論は出来ないでしょう。


議論といいながら議論になっていないこともあります。一部の掲示板では、攻撃・誹謗中傷を「議論」や「表現」といった言葉で覆い隠し、それを無視したりすると「逃げた」とか言い出すような人たちだっています。また、議論の論点が全然かみ合っていなかったり、いつのまにか人格攻撃に走ったり、あるいは人格攻撃ではないのに人格攻撃しているかのように論点をずらしていったり。ちょっとした言葉づかいでもずいぶん変わってしまいます。

何でもかんでも総ブログ化計画

『議論とは何か?』を考えると、二人以上の人間が、ある議題について話し合うことに過ぎず、最終的にどのような結末に至るかは保障されていません。
民主主義政体の議会における議論は、議論過程において激しい批判や暴言があろうとなかろうと、最後には多数決に基づく決議を取る事によって合意を形成することが前提とされています。
ブログにおける批判や反論が、ブログ炎上といった非建設的な泥沼の結末に行き着きやすい原因の一つが、政治的意志決定のように合意形成の手順が定められていない事、つまり、何処で議論が終わるのかが不明瞭な事だと思います。
罵倒や誹謗中傷が飛び交う他者否定の泥沼状態に嵌まり込むケースの多くにおいて、“議論の落とし処の遅延”が行われ“議論の目的の喪失”が起こっています。

更に言えば、議論本来の目的が喪失されることによって、そもそも合意を形成する必要性のない問題である“個人の価値観・信念・人格性”へと問題意識が遷延していき、“議題に対する見解”ではなく“議題に向かう態度”へと反論内容が移っていきます。
具体的には、文献書籍を参照したり、事実の有無を関係者に確認したり、数学的な計算や統計処理をする事で、客観的に真偽を検証することが可能な問題を議論している場合には、“議題に対する見解”に終始して、丁寧な言葉遣いで誤謬や不足を指摘すれば議論が紛糾することはないように思えます。
そこで、指摘された方の態度(素直に間違いを認めないとか態度が尊大で傲慢であるとか)を問題にし始める事によって、“議題に向かう態度”に問題意識が移っていくことになります。

しかし、客観的に真偽を検証することが可能な問題というのは『天体の観測結果から、プトレマイオスの天動説よりもガリレオ・ガリレイの地動説の方が科学的に妥当である』『元素記号周期表は、H,He,Li,Beから始まる』『ヨーロッパにおける近代国民国家概念の誕生は、1648年のウェストファリア条約の締結による国家主権の相互承認とされる』といった自然科学や歴史年表などに関する理想的な極めて稀なケースです。
実際には、『どちらの立場に立っても意見を述べることができ、ある程度、反論に堪える根拠を提示できる政治・経済・歴史解釈・倫理道徳などの問題』を巡って説得力・信憑性の大小を競い合っているものが多いですので、主観的な価値観や問題解釈の優劣が問われている事となり、自然に議論はヒートアップしていく可能性が高まります。

ヒートアップした議論で用いられる挑発的な『議論からの逃走』という非難は、正々堂々とした態度の否定、直面する問題と向き合えない臆病さ、自らの誤謬や見識の低さを認められない器量の小ささといった『人格的価値の引き下げ』と密接に結びついていますから、“逃げた・逃げないの次元”で問題を語りだすと収拾がつかない事態に立ち至り、議論すべき内容が出尽くしても引き際を定めることが難しくなるかもしれません。

一旦、議論に深入りして、相手の中核的な価値観や譲れない強固な信念に踏み込んでしまうと、必然的に、主観的な価値観と事象解釈の優劣を競い合う『引くに引けない事態』に立ち至る可能性がありますから、その事態を恐れるあるいは面倒に思う人は『議論に対する抑制』が起こります。



どうも議論そのものを嫌がる風潮があるのではないかという話になりました。でも、その社長さんは、意見の食い違いがあるならとことん議論すればいいんじゃないか、という考えを持っていました。もっとも、議論の仕方が下手な人が多すぎる、という結論にはなったのですが。

何でもかんでも総ブログ化計画

私は、インターネット内部の個人運営のブログ、ウェブサイトなどの言説空間において必ずしも議論そのものを嫌がる風潮が支配的になっているとは思わないのですが、議論そのものを敬遠する『議論に対する抑制』が起こる原因は、大きく分けて3つあると思います。

2ChやYahoo!などの掲示板を拝見すると、建設的であるか否かは別として、他者と議論する事、意見を戦わせる事にある種の快楽を感じる人は、相当数居ると思います。
ただ、企業が運営している掲示板では、むやみやたらに激論を戦わせる人であっても、自分が運営するブログや掲示板では穏やかな対話をしていたりする事も多いのではないかと推察します。
それは、自分のブログでは匿名性の恩恵を十分に得られず、ブログの継続的運営に支障を来したり、的外れな暴言を吐いて自分自身の人格評価を下げる事を考慮してのことでしょう。



個人運営のブログ・ウェブサイトにおける議論抑制の原因

1.ブログの継続的運営が困難になるのではないかという懸念

匿名であっても、HNと人格的価値が密接に結びついているような人である場合には、HN人格が罵倒されたり否定されたりする事で、自尊心や表現意欲を喪失し、ブログ閉鎖に至る可能性がある。
議論当初から、あからさまな悪意を示して、まともな議論を行う意図のない俗に言う“アラシ”を誘引して、自分のブログ・ウェブサイトがアラシの罵詈雑言で埋められるのではないかという不安。

2.議論そのものに有効性や価値を見出していない場合

議論する事によって得られる“多面的な見解”や“新たな視点”、“思考・解釈の深化”“他者と語り合う楽しさ”といったものに有効性や価値を見出していない為に、議論そのものをすることが無意味だと考えている。
科学主義的価値観や論理実証主義のスタンスを取っている人の場合には、客観的に真偽を検証することが不可能な形而上学的な命題について言い争う事に徒労感を感じる事もあると思われる。
この考え方に至っている運営者の場合には、コメント欄を閉じている場合も多いだろう。

3.議論を行う時間的・精神的余裕の不足

相手からの真摯で適切な反論、綿密な資料調査・文献読解に基づく誤謬の指摘、精緻な論理的思考による矛盾の指摘、説得力のある客観的根拠を提示した批判などは謙虚に受け止め、改めるべきところは改めるが、その反論・指摘・批判に対して丁寧に適切に返答するだけの時間的・精神的余裕がない為に、議論を深めるモチベーションが低くなっている場合。
または、自分なりに十分な熟考・考察を施して書き上げた記事であり、その記事を公開した瞬間に、その人の中で、その問題意識が既に完結している場合には、再考や議論をする意欲が湧かない事もあるだろう。
問題意識や興味関心が次々に湧き起こってきて、絶えず次の問題やテーマについて考えたいと思っているような人も、長期戦に展開する恐れのある議論を抑制する傾向があるだろう。

ブログにおいて、激しい反論の応酬や批判のやり取りを敬遠する人達の心理過程としては、『議論による認識深化よりも対話による同調欲求が強い状態』と言えるのではないかと思います。
一般的に、共感的友好的な人間関係によって成り立つ閉鎖的コミュニティ化が進行すれば、明示的な批判や反論は起こりにくくなり、議論をするにしても最低限の礼節や好意を前提として穏やかな雰囲気の中で行われる事になります。
その場合には、議論本来の目的である『多面的な見解の提示』『新たな認識の発見』『思考・解釈の深化』『より良い結論の模索と適切なレベルでの合意形成』といったものは重視されなくなりますが、安心して自分の意見や考えを発表でき、同調欲求の充足によって自己肯定感が強化されるメリットを得ることが出来ます。


議論好きな人、議論を促進する傾向がある人にも、二通りの目的意識があるのではないかと考えています。
そして、その二通りの目的意識によって、建設的で価値創造的な議論になるのか、破滅的で相互否定的な議論になるのかが規定されてくることとなります。


建設的で価値創造的な議論を促進する傾向がある人の目的意識と性格傾向

1.個人の人格評価よりも議論の発展深化に興味があり、大勢の人の意見・考えを聴く事に意義があると考えている。
議論によって自らの正当性や優越性を顕示しようという優越欲求に基づく意図が、あからさまには感じられない。

2.議論本来の目的である『多くの人の多様な意見の中から、新たな情報や知識を吸収して、より良い事象や問題の認識に至ること』を絶えず念頭に置いており、反論や批判をする相手の中に自分に対する悪意を認知しない。
つまり、社会心理学で言うところの『悪意帰属バイアス』を、議論の趣旨に立ち返ることで最小限に抑えている。

3.相手に不快感や屈辱感を抱かせる挑発的な言語表現を選択せず、言葉遣いが洗練されていると同時に、相手への敬意や友好を暗黙裡に感じさせる文体・言い回しである。

4.相手に自分の意見・考えへの同意・承認を無理に求めず、強引な合意形成や結論の提示を行わない。

破滅的で相互否定的な議論を促進する傾向がある人の目的意識と性格傾向

1.議論の発展深化よりも相手の人格評価を引き下げる事や、自分自身の意見の正当性や見識の高さを相手に突きつける事に関心を持ち、意欲的である。
大勢の人の多面的な意見・考えを聴いて、自分の認識を深めたいというよりも、自分の意見や考えを大勢の人に聴かせて、承認や評価を得たいと考えている。承認や評価への欲求充足の道具として、優劣判断を前提とした議論の場を利用している。

2.議論本来の目的である『多くの人の多様な意見の中から、新たな情報や知識を吸収して、より良い事象や問題の認識に至ること』には無関心であり、反論や批判をする相手の内面に自分に対する悪意や侮辱を頻繁に認知する。
相手が悪意に基づかず、親切で間違いや勘違いを指摘してくれた場合でも、『自分に恥をかかせるつもりで誤謬の指摘を行った』というような悪意帰属バイアスに基づく認知を行ってしまう。

3.相手に不快感や屈辱感を抱かせる挑発的な言語表現を意図的に選択し、言葉遣いが粗野であると同時に、相手への敵意や嘲笑の思いを明示的に表現した文体・言い回しである。

4.相手に自分の意見・考えへの同意・承認を無理に求めて、強引な合意形成や結論の提示を行おうとする。一方的な勝利宣言や遁走宣言など。


私達が他者と対話や議論を行う心理の背景には、『自分自身が現在までの人生で積み重ねてきた知識・経験・価値観が、客観的に正しいものであって欲しい。自分の知識・経験・価値観が、他者にもある程度通用する普遍性を備えていて欲しい』という承認欲求が必然的に存在しています。
それ故に、議論における他者からの肯定的評価や好意的態度は、私達に承認欲求が満たされる快楽をもたらし、共感と連帯による満足感へとつながっていきます。

しかし、その甘美な承認欲求と拮抗するアンビバレントな形で『自分一人の思索では思いつかなかった新たな視点や解釈が存在するのではないかという期待・今までに得られなかった有意義な知識や見解に遭遇することが出来るのではないかという好奇心』も存在しています。

議論により自らの誤謬や錯誤を指摘されることによる進歩発展、新たな見解やより適切な価値観を提示されることによる劇的な認知の転換には、自己の知識・経験・価値観が一時的に否定される若干の痛みや不快が伴います。
しかし、悪意のない認識の発展深化につながるような批判によって得られる果実は、承認欲求の充足によって得られる果実とは一味違った長期的な価値や充実をもたらすかもしれません。

地震列島・日本を再認させる福岡沖玄海地震を受けて


昨日、午前10時53分頃、福岡沖玄海地震が発生し、大規模な地震が少ないとされる福岡県、佐賀県を中心とする九州北部、甚大な被害を蒙った玄海島をはじめとする島嶼部、山口県西部などに住む人々を震撼させた。
今まで磐石だった足下を支える地面が不意に揺らぎ、視界が安定を失い、身体感覚は平衡を維持できなくなるといった不安は、自らが居る建築物の倒壊と死をイメージさせるものであり、予測不可能な余震再来への恐怖が不安に拍車を掛ける。
九州地方では、総じて地震の発生件数自体が少なく、九州地方在住(他都道府県の居住経験無し)の人は、大規模な地震を今までの人生で経験した事がない人が大部分を占める。
その為、地震災害を実際的な危機として認識し、その予期せぬ被害と恐怖に対して日常から備えている人が殆どいないのが実情であろう。



福岡沖玄界地震:家崩れ、無念の離島 ガラスの雨、繁華街直撃(その1)

3連休中日の日曜日の20日、突然襲った福岡沖玄界地震。福岡市西区の玄界島(周囲約4キロ)では家が次々に倒壊し、ヘリコプターや漁船で島からけが人が運ばれ、島民のほぼ全員がその日のうちに島から避難した。福岡市の繁華街では、割れたビルのガラスが路上に降り注ぎ、地下街や屋内から飛び出した人たちがぼうぜんとした。「ガス爆発かと思った」「生きた心地がしなかった」。経験したことのない大揺れに人々は騒然となり、サイレンが鳴り響いた。

博多湾の入り口に浮かぶ玄界島を、突然大地震が襲った。日曜日の午前、穏やかな漁業の集落は、全220世帯のほとんどが被害を受けた。余震が島を揺さぶる中、20日夜に全島避難が決まり、漁協や町内会役員ら10人だけを残して、住み慣れた島を離れた。

記者がヘリコプターで島に降りると、斜面にへばりつくようにして建つ住宅の多くが崩れ、傾いていた。岸壁の道路もあちこちで陥没し、ひび割れている。足元からは、断続的に余震の鈍い揺れを感じる。

地震発生当時、男たちの多くが、最盛期のハマチ漁に出漁していた。沖から帰った久保田徳生さん(57)は「船の上で、座礁したときのような変な揺れを感じた」。漁協の無線が地震で故障したため、島に残っていた漁協組合員が、船舶無線で戻るよう呼びかけた。

お年寄りと女性、子供を優先した避難第一陣が島を出たのは午後5時。余震が続く不安から、午後9時に全島避難の希望が出され、市営渡船での避難が決まった。

午後11時発の臨時渡船を待つ中田政四郎さん(44)は「これではハマチ漁にも行けないし。自然の仕業とはいえ、恨めしい」。漁協職員、島田公明さん(42)は、島に残る10人に「よろしくお願いします」と申し訳なさそうに話した。最終的には、計510人が船で島を離れた。

21日午前0時すぎに避難所に着いた伊藤昇さん(22)は「先に来た家族の無事を、早く確認したい」と疲れ切った表情で話した。

  ◇   ◇

被災者の避難所となった福岡市中央区九電記念体育館には午後6時半ごろから、玄界島の住民たちが次々と到着。毛布2枚を受け取り、肩を寄せ合った。

久保田タツ子さん(73)は「生まれてからずっと玄界島に住んでいるが、こんな地震は初めて。サッシが壊れて窓もドアも開かなくなった。ネギを植えていた畑も屋根瓦で埋まってしまい、もうどうしていいか分からない」と涙を浮かべた。

18日に玄界小(35人)を卒業したばかりの寺田有菜さん(12)は「突然大きな音がして、怖くて親せきのおばさんにずっとしがみついてた」と不安な表情で語った。

福岡市は500人分の食事と毛布を用意。午後9時ごろから福岡県や自衛隊が寝具、民間企業がパン、おにぎりを差し入れるなど、救援物資が届けられた。

深夜になると体育館内が冷え込み、近くの病院や親族宅に移る高齢者も。市職員の1人は「明け方にかけては結構冷えると思う」と心配そうな表情だった。【石田宗久、梅山崇】


『日常的生活文脈から逸脱した意想外の自然災害』によるパニックや混乱、絶望が、最小限度に抑えられた理由はただ一点、阪神淡路大震災新潟県中越地震のように悲惨で不条理な人的被害が殆ど出なかったという僥倖に依拠していると思う。
今回の福岡沖玄海地震によって、高齢者の女性一名の生命が奪われてしまった事には、痛ましい感慨や追悼の念を感じるが、地震規模と震度から考えればこの人的被害の小ささは実に幸運なことではなかったか。

福岡市内を中心として建物・道路・電気ガス・埋立地液状化現象などの物的損害は無視できないほどの経済的損失や復旧に要する時間をもたらすだろうが、それでも、高度に発達した文明社会、人権意識が十分に普及された民主社会では、人的被害を伴わない物的被害に対しては比較的冷静で実務的な態度や意識を維持できるものである。
個人所有の家屋が倒壊したり、自動車が壊されたりすれば、地震保険にでも加入していない限り、大きな経済的損失となり、その復旧や買い替えの為に一定の経済的負担を負わなければならないが、ライフラインや交通道路などの社会インフラの復興作業は、国家や地方公共団体が責任を持って必ず成し遂げる事となる。

省庁の官僚の無駄遣いや特殊法人や公共事業に注ぎ込まれる予算に反対の市民がいても、震災、台風被害等の自然現象の被害に対する人道的な復興事業や復旧作業、被災者への公的支援などに真っ向から反対する市民はまずいないのであり、本人の責任や意志に拠らない突然の不幸や損失に対して、国民全員が税の公的負担という形で無償援助の手を差し伸べるのは倫理的にも感情的にも当然の義務であると言える。


地震津波、台風、落雷などの自然災害は、基本的に人間活動や人間の自由意志とは無関係に勃発し、人間の生命と財産と身体を無作為に蹂躙し破壊するものである。
突発的で偶発的な自然現象は日々世界の至る所で無秩序に発生し、厳しい自然の猛威から豊かで安全な生活を守る為に築いた『文明社会の城壁と科学技術の塞塁』を侵犯し瓦解させようとする。
気象衛星による観測精度の向上によって台風は比較的早期にその襲来を予測できるが、地震の発生そのものを直前予知もしくは短期予知することは出来ない。少なくとも、現在の地球物理学の下位分類である地震学、海洋地質学、プレートテクトニクスなど地震予知にまつわる科学の成果では、国民を地震発生前に確実に避難させる直前予知は不可能なことは間違いない。

『実効性・有効性のある完全な地震予知がどのようなものであるかを直感的に考えてみれば、それは地震の正確な発生時間・地震の正確な発生場所と震度が及ぶ地域の特定・地震マグニチュードと震度』が予測できるものという事が出来る。
しかし、地震予知の精度が格段に向上しても、私達人間に出来る事は、地震の被害が及ぶ範囲から『逃避・避難』することでしかなく、その地震の震度が及ぼす破壊の作用から文明社会の基本財や個人の動かせない私有財産を保護する実際的な方法は存在しない。
現在の地球物理学、地震学の到達点が示し得るのは、過去の地震記録から読み取る周期性や活断層の状態あるいは地殻変動の詳細な調査などによって出すことのできる地震の長期予知』のレベルにとどまる。

何十年間〜何百年間という十分に長いスパンをとって、『何十年以内に何%の確率で、ある地域に地震が発生する可能性がある』ということは科学的な地震予知として言えるが、こういった長期予知には、実際の地震被害の規模を縮小させるような効果はないし、国民を事前に安全な場所に避難させる緊急警報的な役割は果たせない。つまり、長期予知を幾ら行っても、人的被害・物的被害共に縮小軽減されることは、原理的にありえないということになる。
しかし、地球物理学研究者が、地震の予知を自信をもって行えないことにも、十分な理解を示す必要もあるだろう。地震カニズムの理論上・観測技術上の制限と同時に、社会的・経済的な実害の問題が大きくかぶさっている為に、短期の地震予知は、絶対に確実な予知として機能する確信がない限り行えない。

短期間のスパンでの地震予知が出せない最大の理由は、『予知の誤りによる人心混乱と経済被害を恐れる』為であり、偶然性に依拠する確率論でしか語れない精度では、地震学による地震予知は、有効な予知として機能することがないという問題を抱え続けることとなる。
唯一、国家的プロジェクトとして何とか直前予知に近い形で事前に地震の発生を予測して、人的被害を最小限に留めようとしているものに、駿河湾震源を持ち、愛知県・静岡県など東海地方や近畿地方に甚大な被害をもたらすとされている東海地震東南海地震があるが、この予測は過去の地震記録からの周期性と東海地方各地に配置したひずみ計の計測に依拠したものである。
東海地震は、その震災の被害規模が、関東大震災と同等以上の激しい地震になると予測されているため、出来るだけ早い段階で確度の高い予知をもとに避難勧告を出すことが望まれるが、その短期の地震予知を発表する判断は苦悩と困難を極めるものとなることは想像に難くない。
しかし、人間の生命という一旦喪失されれば取り返す事の出来ない人間としての権利の根幹・主体を保護することこそが、国家権力に正当性が付与されている最大の根拠なのだから、全力で地震被害最小化の事業に当たってもらいたいと願う次第である。

時に、自然災害を文明社会へのしっぺ返しであるというメタファーで語る人もいるが、自然界には悪意や意図は存在しないのであり、自然は、人間や文明へ二項対立的に屹立する牙城でもない。
しかし、それ故に、恐ろしいともいえる。自然現象は理不尽な破壊と、冷徹な結果のみを粛々と人間社会と内面世界に刻み込み、何事もなかったかのようにその現象は消失する。
人間の主観的な希望や愛情など一切通用しない、しっぺ返しという怒りも意趣返しという怨恨も存在しないからこそ、自然は永遠に人間の思惑通りには制御できない偶発的・流動的・普遍的なものであり続けるのだろう。

今回の福岡県の地震報道と実際の経験を経て、改めて日本が例外地域のない地震列島であることを思わされた。
日常生活の文脈から逸れた自然災害に対して私達は無防備かつ無関心になりやすいものだが、防災意識を高めると同時に、予測不可能な様々な喪失の悲しみや痛みに備えていなければならないのかもしれない。
そして、自然災害や偶発的な事件事故に限らず、人間の精神を最大に損傷し磨耗せしめるのは、意想外の喪失と別離、不意の裏切りや剥奪なのだということを現代社会に絶えず湧き起こる種々の報道に接していて思わずにはいられない。

人間は、基本的にいったん適応し安定した環境からはなかなか抜け出られないし、自分を変えられない保守的傾向を持つが、自然は基本的に一定の状態に安住せず可変的で不安定なものである。
人間の文化文明の発達の歴史とは、技術の革新と規模の拡大の歴史であると同時に、一度手に入れた安全・快適・豊かさを外敵や自然から保守しようと懸命に努力してきた歴史でもあったのではないだろうか。

そうした、予測不可能な自然現象を出来うる限り予測可能な形に単純化して、理論の枠組みに収める人間の科学的知性、不安定で環境への適応性を低下させる自然の猛威を出来うる限り安定的で実害の少ないものへと鎮圧しようとする人間の文明社会の城壁が、人間を自己破滅的な方向に追いやるものではなく、『自然との共生や他者との幸福の共有』に貢献するものであることを信じたい。

カール・ロジャーズの意外な一面:環境管理につながる近代的社会システムへの葛藤


カウンセリング場面においては、温厚誠実な人柄を貫き、クライアントの語る話の内容を真摯に傾聴し続けた来談者中心療法の創始者カール・ロジャーズは、一人の思想家や活動家として見てみても興味深い人物である。
クライアントの感情や価値観を共感的に理解して、あらゆる言動を肯定的に受容しようとしたロジャースも、面接場面の外にあっては、攻撃的な活動家の顔や革新的な思想家の顔といった意外な一面があった。
ロジャースが、その初期に熱意を燃やしたのは、今までの強制力を用いた教育指導・生活指導に代わる教育業界へのカウンセリング導入という事業であった。

ロジャースが懸念し危惧したのは、非民主的な統制主義の趣きや抑圧的な権力関係による差異のある教育制度・医療制度・社会制度であり、当時のカウンセリングは、アメリカ流のプラグマティズム自由民主主義の流れを汲むものであったという見方をする事も出来る。
権力作用による行動や思考の抑圧、権威的制度による社会規範の内在化といった形式だけを抜き取れば、ロジャースは、構造主義ミシェル・フーコーが説くパノプティコン(一望監視施設)に近似した権力観や社会観を有していたと言えるかもしれない。

ロジャースのカウンセリング心理学やカウンセリング・マインドの隆盛と流行を牽引したのは、東京文理科大学で教育相談をしていた友田不二男、国立精神衛生研究所の佐治守夫、東北大の正木正などの面々であった。
戦後暫くまでの一般的な教育方法は、優位者である教師が、生徒を高圧的に指導訓練するという上位下達的な権力関係の中で行われる形態であり、教師の指導や教育は絶対的な権威性に基づくものであって、教師が生徒の気持ちや感情を理解しようとして配慮を働かせるという事などは論外であった。

ロジャースの、クライアント中心療法の態度に基づく学校教育は、従来の教師―生徒の権力構造(上下関係)を批判的に捉えるものであったので、教師の指導力やリーダーシップに高い価値を置く教師達にとってロジャースの思想は受け容れがたいものであったと言える。
学校教育の基本原理は、知的・人格的に優秀な教師が、知的・人格的に未熟な生徒を社会適応的な方向へと教え導く事にあるのは確かだから、教師には一定の強制力や権威が備わっていなければならないという主張自体はそれほど間違ったものではない。

既存の社会環境や支配的な価値規範に適応することが良いことなのか悪いことなのかを一概に断定する事は出来ないが、学校制度というものは、個々人の思惑や判断とは無関係に、基本的に現在の政治体制や社会環境を肯定的に捉えるといった価値観によって成り立っている。
カウンセリングに絡んだ価値観として反権威主義や反管理主義を有するカール・ロジャーズにとっては、機械的な社会適応化を図るシステムとしての学校制度が余り好ましいものに映らなかったようだ。


晩年の著書『人間尊重の心理学―わが人生と思想を語る』において、ロジャーズは、現実社会での職責や義務から解放された老身の身軽さも手伝ったのか、ラディカルなユートピア思想に類する近代的教育制度の解体と自由奔放な生涯学習を提唱している。
自分自身が近代的教育制度の中で、医学部の大学教授にまで順調に上り詰めたロジャースの近代的価値の否定は、逆説的な反骨精神に満ちたものだ。
勿論、そういった極端な楽観主義と権力の罪悪視に根ざした既存の社会制度の全否定には、言説としての奇抜さや面白さはあっても実現可能性といった意味での価値はほとんどない。

ロジャーズが学校生活を送った第二次世界大戦前後のアメリカの教育環境は、まだ非民主的で権威的な趣きも強いもので、典型的な教師―生徒関係の特徴は以下のような形で示されていた。

  • 教育の中心要素は、知識を有する優秀な教師が、知識の乏しい生徒へ知識を与えて、その達成度合と評価は、試験の点数で相対評価する。
  • 教師―生徒関係は、権力者―従属者の相補的な対立関係であり、民主主義の理念や価値が実際場面では無視されることがある。
  • 教育制度は、知識と技能の教育を主眼においており、人間関係や人格の陶冶などは後回しにされる。


私はあらゆる段階の教育制度をやめるべき時にきていると思います。州で決めたカリキュラム、出席すべき日数、終身雇用の教授、講義時間数、評価、学位等すべてを。そして、真の学習をこの息詰まるような神聖な壁の外で開花させるのです。幼稚園から権威的博士課程に至るあらゆる教育制度が、明日なくなると仮定しましょう。何と楽しい場面が繰り広げられることでしょう!

両親も子どもも青年も―おそらく教授たちの中でも何人かは―自分たちが学習できる場を工夫し始めるでしょう。全国民の精神を高揚させるのに、これ以上のものを想像することが出来るでしょうか。それは、悲しいと同時に、全く素晴らしいことでもあるのです。
何百万人もの人々が、同じ問いを発するでしょう。
『私が学習したいものが何かあるだろうか』と。そして、自分の学びたいことを見つけ出し、その学習方法を工夫するでしょう。

(中略)

この新しい世界は、より人間的で人情味があるでしょう。人間の心と魂の豊かさや可能性を探究し、発達させるでしょう。より統合された人間を生み出し、私達の最も偉大な資源である個人を尊ぶでしょう。自然への愛と畏敬を取り戻したもっと自然な世界になるでしょう。
新しい柔軟な概念に基づく人間的科学を発展させるでしょう。技術革新は、人間と自然の利用より、その力を高めることに向けられるでしょう。そこでは個々人が自己の力、可能性、自由を自覚するので、創造性が解放されるでしょう。

(中略)

完全なる個人的充足、援助からの独立、限られた関係以外は完全に個人的世界にいたいという盲目的崇拝を抱いているように思えます。この生き方はこれまでの歴史では達成されませんでしたが、近代技術がこの目的を可能にしました。
個室、自分の自動車、専用事務室、電話帳に掲載されない私用電話を持ち、非人間的巨大マーケットで食物や衣類を求め、専用のオーブン、冷蔵庫、食器洗い、洗濯機、乾燥機等を使って誰とも親しげに語る事なく生活できるのです。
メッセージ・パーラーを利用して男性は女の子を、女性はエスコート・サービスを呼び、独身者専用バーで飲み、性的欲求までも個人的親密さぬきに満たすことが出来ます。生活におけるプライバシーの極限は可能であり、また達成されています。私達は目的を達したのです。

ロジャース『人間尊重の心理学』より

自己不全感のないありのままの人間には、『成長・回復・発展・適応』へと向かう自然な本性としての実現傾向があると考えていたロジャーズは、理想的な教育環境では万人が学習意欲を高めるはずだといった恣意的な夢想があったのかもしれない。
伝統的な近代的教育システムに内在化している政治性を排除して、純粋な学習と教育を実現しようとしたとも言えるが、万人に学習者としての成長発展可能性が秘められているという実現傾向の信念には客観的な実証性はない。

ゲゼルシャフト(利害共同体)化する社会環境の中で、従来の地域に密着した人間関係は希薄になり、私達は過去の時代の人間が望んでも得られなかった、完全なる個人主義的快楽と快適な閉鎖環境を享受することが技術的に可能な世界に生きていることになる。

煩瑣で面倒な人間関係から解放された代償として近代人が支払ったものは、共感的・受容的な情緒的関係性に満ちた生活の場としてのゲマインシャフトであり、その結果として飛来したのは、世界からの疎外感や意味の喪失感であったのかもしれない。

自分が社会環境において何者であるかを知り、自己の存在を明瞭確実に自覚して受容し、ありのままに振る舞う“生の意味”を生成する為には、異質な他者との出会いによる社会の出現がなければならない。
特別な信頼や愛情を相互に寄せ合う大切な他者と関係を取り結ぶ時に、世界は“私”から愛を剥奪したり、無価値な怠惰へと頽廃させたり、全てを破壊したりするような呪うべき虚無の荒野ではなくなり、そこに価値や救いの沃野が開けてくる。

性の特殊的価値の定立への賛否が意味するもの:流動化を志向する関係性と安定化を志向する関係性


社会的弱者である子どもや暴力への抵抗力の弱い女性を一方的な欲望充足の道具とする性犯罪者に対する怒りや憤慨というものは、人間の性の尊厳を認識する市民にとっておよそ普遍的に共有されるものである一方、性に関連する行為や発言を過剰に意識して特別な意味付けをしている現代社会の性倫理観や性の尊厳そのものを問題視するといった反社会通念的な立場もあります。
とはいえ、現代社会の性倫理の根幹である『性の尊厳や性の特殊的価値』を否定するロジックによって、人間にとっての生物学的性差(sex)や性関連行為に対して、特別な地位を与えないとか特殊な価値を認めないという考え方を展開しても、性的暴力や性的虐待を正当化したり、その苦痛や怒りを軽減することは出来ません。
性の尊厳あるいは性の特殊的価値の否定のロジックは、売買春の完全容認や性風俗産業への差別偏見の撤廃のロジックとして用いられることもありますが、この言説の限界は『性の商品化や不特定多数との性行為を肯定的に認知する相手』にしか説得力を持たないという事でしょう。

性に特別な地位や価値を一切与えず、その他のコミュニケーション・スポーツ・労働と全く同一のものと考えられる人やそのように考えて割り切りたい人であっても、性に関する知識や理解が乏しく、性の自己決定権を行使できない子どもに対して自らの特異的な価値観や性倫理を押し付けることは出来ません。
また、そのような性倫理の根幹である性の特殊的価値をあからさまに否定することに対して、拒否や不快の意思表示をする自由も全ての人に認められていなければなりません。
ある人にとってセックスがスポーツと同様のもので、人格的価値と性行為が分離しているものである場合にも、それを表現する自由はありますが、それを他者に強引に承認させる自由や社会的弱者である子どもに対して社会通念から大きく逸脱した性教育を行う自由などは当然にありません。

子どもが主体的に性に対する自己決定が出来る年齢になるまでは、社会通念として共有される性倫理観や性道徳に依拠した性教育を行う事が妥当であると考えられます。
倫理学的に善悪の根拠を掘り下げていくと、インセストタブー(近親相姦禁忌)・売買春の禁忌・子どものセックス禁止』には、大多数の人の承認を得るだけの説得力のある社会防衛上の根拠があると考えています。

家族を最小構成単位とする共同体を存続維持させる為、あるいは、多様な個人によって構築される活力のある文明社会を形成発展させる為には、人間関係や生殖単位を家族に閉じさせてはなりませんから、近親相姦は禁止すべきです。
売買春の禁忌は、この3つの中では最も根拠薄弱なものではありますが、『セックスを経済的価値に置き換えたくない人の倫理的自由』は十分に尊重されなければなりません。
売買春の禁忌感情が全く無くなり、性行為と人格的価値を完全に切り離すことが常識となれば、『性を売りたくない人の人権が、経済的困窮によって蹂躙される危険』が出てきますから、人権保護上の観点からも売買春の禁忌を完全に撤廃することは望ましくないといえるでしょう。

しかし、双方が合意の上で行う売買春には、保護法益の侵害や明確な被害者が存在しませんから、法的に規制して処罰することの妥当性や正当性はそれほど無いとも思います。
売買春に対するタブー視の根底には、政治的には公序良俗の維持、家庭を単位とする社会秩序の維持という目的がありますが、個人的にも恋愛感情や夫婦関係を前提とした特定の相手とのセックスに、より高い特殊な価値を感じたい、あるいは、深遠な意味を見出したいという動因も働いていると考えられます。

性の特殊的価値の定立に対して肯定的な人は、性行為と人格的価値は密接に関係しており、渾然一体のものであるという保守的な価値観の持ち主で、良好な家族関係や親密な恋愛関係に人生の大きな意義を感じる安定的な秩序志向の考え方を持っている人達です。社会の構成員の過半数は、やはり、性に対して他の行為やコミュニケーションとは異なる特別な価値や意味を付与していますから、性行為を伴う不倫や浮気は非難されるべき悪い行為と判断されることになります。

性の特殊的価値の定立に対して否定的な人は、性行為と人格的価値の分離を提唱し、特定の相手への純粋な愛情と不特定多数との性行為が両立すると信じる、既存の恋愛観や性倫理とは相容れない革新的な価値観の持ち主でしょう。一夫一婦制の家族関係の価値や性行為を行う相手を特定する恋愛関係の意義を、本心から承認することがなく、流動的な快楽志向の考え方を持っていると言えます。
ある年代までは、性行為と人格的価値を切り離して考えられる人たちも一定の割合でいるかもしれませんが、人間は基本的に加齢と共に異性をひきつける生物学的魅力を弱めていきますから、既存の家族観や恋愛観を否定した自由性愛の讃美を続けていると、最終的に孤独な状態に陥ってしまう恐れが出てきます。

体力と気力、思考力の低下や性的能力の衰えと共に、大多数の人は、安定的な秩序志向の価値観へと傾斜していくことになるのではないかと思います。
一時的に、特定の相手との継続的な恋愛や性愛の倫理を否定する自由奔放や無頼放縦の時期があったとしても、有限の生を営む人間は、『自分だけを見つめてくれる他者から切り離される孤独』や『愛情・信頼を完全に失ってしまう疎外』を恐れます。
生の終盤における孤絶を回避せんが為に、人間社会において、関係性の無限の混乱と錯綜が織り成す流動化を堰き止める役割を果たす“性の特殊的価値の定立・恋愛や結婚などに求められる一定の性倫理観”が要請されてくるのかもしれないと考えたりします。