アーロン・ベックの抑うつ理論と簡潔明瞭な認知療法の確立


うつ病の症状の種類と重症度を客観的に測定する尺度として、アーロン・ベック(Aaron T. Beck)が1961年に考案し実用化した『BDI(Beck Depression Inventory:ベック抑うつ評価尺度)』という評価尺度があります。
ペンシルバニア大学のアーロン・ベックは、精神疾患の発病メカニズムや病態の形成・経過・予後に関する認知理論の基盤を整備して、うつ病に効果的な認知療法を創始しました。

うつ病の客観的な診断と標準的な重症度の測定が可能で、構造化面接に応用する事が容易なBDI(ベックうつ病調査票・ベック抑うつ評価尺度・ベック抑うつ質問紙)とは、以下のようなものです。

BDI(ベック抑うつ評価尺度)

以下の各項目を読んで、4つの文章の中から自分の考え方や気分・感情にもっともよくあてはまるものを選んで下さい。


1.
憂うつではない。
憂うつである。
いつも憂うつから逃れることが出来ない。
耐え難いほどに憂うつを感じ、不幸である。

2.
将来について悲観していない。
将来についてやや悲観している。
将来に希望がない。
将来に希望がなく、更に現状より良くなる可能性もない。

3.
様々な課題に、それほど失敗するようには感じない。
様々な課題に、頻繁に失敗してしまうだろうと思う。
過去の人生を振り返ってみれば、失敗のことばかりが思い出される。
人間として全く失敗の人生だと思う。

4.
以前と同じように満足している。
以前のように物事が楽しめなくなった。
もう本当の意味で満足することなど出来ない。
何もかも面白くなく、全てに対してうんざりする。

5.
現在の生活パターンや人間関係に罪の意識など感じない。
時々、罪の意識を感じる。
ほとんどいつも罪の意識を感じる。
いつも罪の意識を感じる。

6.
現在の生活態度や人間関係によって、何らかの罰を受けるとは思わない。
罰を受けるかもしれない。
罰を受けると思う。
今が、その罰を受けている時だと思う。

7.
自分自身に失望してはいない。
自分自身に失望している。
自分自身にうんざりする。
自分自身を憎む。

8.
他の人より自分が劣っているとは思わない。
自分の欠点や過ちに対して批判的である。
自分の欠点や失敗(ミス)に対していつも自分を責める。
何か悪い事が起きると、全ては自分の責任だと考え、自分を厳しく責める。

9.
自殺しようとは全く思わない。
死にたいと思う事はあるが、自殺を実行しようとは思わない。
自殺したいと思う。
チャンスさえあれば、自殺するつもりである。

10.
いつも以上に、泣く事はない。
以前よりも、泣く事が多くなった。
いつも泣いてばかりいる。
以前は泣く事が出来たが、今は泣きたくても泣く事すら出来ない程に絶望的に落ち込んでいる。

11.
イライラしていない。
いつもより少しイライラしている。
しょっちゅうイライラしている。
現在は絶えずいつもイライラして落ち着かない。

12.
他人に対する関心を失っていない。
以前より他の人に対する関心がなくなった。
他人に対する関心をほとんど失った。
他人に対する関心を全く失った。

13.
いつもと同じように決断する事が出来る。
以前より決断を延ばす。
以前より決断がはるかに難しい。
もはや全く決断することが出来ない。

14.
以前より醜いとは思わない。
老けて見えるのではないか、魅力がないのではないかと心配である。
もう自分には魅力がなくなったように感じる
自分は醜いに違いないと思う。

15.
いつも通りに働ける。
何かやり始めるのに、いつもより努力が必要である。
何をやるのにも大変な努力がいる。
何もする事が出来ない。

16.
いつも通りよく眠れる。
いつもよりも眠れない。
いつもより1〜2時間早く目が覚め、再び寝付く事が難しい。
いつもより数時間も早く目が覚め、再び寝付く事が出来ない。

17.
いつもより疲れた感じはしない。
以前より疲れやすい。
ほとんど何をやるのにも疲れる。
疲れて何も出来ない。

18.
いつも通り食欲はある。
いつもより食欲がない。
ほとんど食欲がない。
全く食欲がない。

19.
最近、それほど痩せたということはない。
最近、2kg以上痩せた。
最近、4kg以上痩せた。
最近、6kg以上痩せた。

20.
自分の健康のことをいつも以上に心配する事はない。
どこかが痛いとか、胃の調子が悪いとか、便秘・下痢をしているとか身体の調子を気遣う。
自分の身体の調子のことばかり心配し、他のことがあまり考えられない。
自分の身体の調子のことばかり心配し、他のことを全く考えられない。

21.
性欲はいつもと変わりない。
以前と比べて性欲がない。
性欲がほとんどない。
性欲が全くない。


4つの文章の

一番目の文章の得点は“0点”
二番目の文章の得点は“1点”
三番目の文章の得点は“2点”
最後の文章の得点は“3点”

として、合計得点を計算して下さい。


その合計得点が

1〜10点:日常生活で誰もが経験する気分の落ち込みであり、正常範囲ですので問題ありません。
11〜16点:軽度のうつ状態がありますが、不快な出来事や悲しい体験などで経験するうつ状態であり、正常範囲の気分の落ち込みです。
17〜20点:臨床的にうつ病と診断してもよいレベルで、正常な憂うつ感と病的な憂うつ感との境界線です。
21点〜30点:主観的苦悩が深い中等度のうつ状態です。
31点〜40点:日常生活を送ることに重篤な支障の出る重度のうつ状態です。
41点以上:希死念慮などへの警戒を要する極度のうつ状態です。


注記

1.項目5と6は、キリスト教文化圏の敬虔な人たちに内在する原罪の意識や罪悪感に結びつくもので、日本人はさほど意識する事はないと思われますが、自分の生活で他人(家族)に迷惑を掛けてしまっているのではないかという罪悪感や現在のうつ状態の無気力や活動性の低下が続くと何か悪いことが罰として起きるのではないかという考えに置き換えて考えると良いでしょう。

2.項目の中にある『いつも』とは、うつ状態になる以前の気分の良かった時を意味していますので、憂うつ感を感じない通常の気分と比較して現在の気分・感情の状態がどうなのかという基準で答えて下さい。

3.どの項目にも当て嵌まらないと感じる時には、最も当て嵌まる可能性の高い項目を選択するようにして下さい。

4.BDIの結果の高低について悩んだり落胆する必要はありません。BDIは、あなたの“現在のこころ”の抑うつ感の度合いを客観的な指標で示すものに過ぎず、あなたの“未来のこころ”を規定するものでは決してありません。
適切な認知療法やイメージ療法、その他のカウンセリング技法を用いる事で、かなりの高い確率で現在の抑うつの程度を改善し、以前のような生活を取り戻す事が出来ます。

人生を楽しめる明るく爽快な心理状態へと導くまでには、幾多の苦難や障害があり、一喜一憂を繰り返す事もありますが、最終的には自分の気分や感情をセルフコントロールすることが目標になります。
健康な人でも、自分自身の気分や感情を完全にコントロールすることなどは出来ませんが、極端な憂うつ感や無気力によるひきこもりや無為、自殺につながるような絶望感を回避し、他者に対する怒りや恨みの感情が発生するのを抑止することは出来るでしょう。
意識的な認知の修正や対人関係の改良、生きやすさを増す人生観や好奇心や探究心に満ちた世界観の再構築によって、極端なうつ状態や非社会的な問題(働きたくても働けない事や恋人友人と遊びたくても遊べない事等)の克服は可能であると考えています。



認知療法の最大の特徴は、うつ病等の著明な気分改善効果があり、その有効性が多数の事例を通して実証されている事と、従来の観念的で難解な精神分析療法や力動的精神医学と比較して、その理論が複雑な概念を理解する必要がなく、分かりやすい事です。
つまり、認知療法は、専門的な精神医学やカウンセリングの知識を有していない一般の人たちにも、容易に学習して修得する事ができ、実際にその効果を実感する事が出来る事を意味しています。

認知科学の一分野である認知心理学は、高度な専門知識や数理学的解析能力を要求されますが、アーロン・ベックやデビッド・D・バーンズの提唱する認知療法は、それら自然科学としての認知科学とは直接的な関係がありません。
うつ病等の気分障害心理療法の一つとして研究開発された認知療法は、誰もが了解可能な『極めて常識的な理解』の範囲内で展開される理論と技法であり、その効果が唯一、薬物療法と同等以上であることが科学的に立証された心理療法です。

認知療法の体系化が完成したのは、1979年の『Cognitive Therapy of Depression』という系統的な技法の解説と統計学的検証を示したベックの論文においてですが、現在も更なる発展と洗練が期待される療法です。

認知理論の嚆矢であるベックの抑うつ理論は、『抑うつスキーマ』という基本概念を中心に確立されましたが、この抑うつスキーマという概念は、フロイトの無意識の概念やユングの集合無意識(普遍的無意識)の概念と同様に観察不可能な抽象的概念であり、科学的検証を行う事が出来ません。
スキーマ(schema)というのは、XMLSGMLの文書の論理構造・物理構造を定義するIT用語として用いられる事もありますが、認知心理学でいうスキーマとは、過去の経験や学習、対人関係から獲得した情報・知識の集積から形成される『認知の枠組みや図式』といった定義で用いられます。

私たちがこのスキーマ(認知の枠組み)を通して外界の事物や現象を認識し理解しているという事は、完全に自由無碍な外界の認識や思考・判断は出来ないという事を意味します。
しかし、その事自体は否定的に考える事もないし、悲観的に落ち込む事もありません。知識や経験の枠組みに思考や判断・行動が影響を受けてしまう事は、直接的に私たちが学習能力と知性を有する事を示唆するからです。
過去の自分の歴史的過程や学習行動から何の影響も受けないという事態が想定不可能なように、私たちはスキーマによる認知のバイアスや固定観念から完全に自由になることは出来ません。

スキーマは、過去の知識学習や実践経験、対人関係から構築される基本的な世界観や人間観と解釈することもでき、私たちはスキーマによって様々な状況や問題を予測して対応することが出来ます。
それと同時に、スキーマによって固定観念や常識的認知に拘束されているとも言えるのですが、柔軟な発想や可塑的な態度を意識して幅広い視点を持つことで、スキーマを変容し改善していくことも出来ます。

『Aという状況では、Bという行動や発言をする事が合理的であり正しい』というのがスキーマであり、スキーマは過去と類似した状況や問題に対処して解決していくことに非常に役立つ反面、今までにない状況や今までとは異なる質の問題に直面した場合にはスキーマの予測対応能力では十分に適応できないというデメリットもあります。
自分の思考や意見に対する自信や確信、そして、強固な揺るぎ無い信念や価値観というものは、その人が人生の過程で集積した情報と知識によって形成された『スキーマ』に大きく規定される事になります。
外部の出来事から同じ情報を受け取っても、人それぞれ考え方や判断が異なり、その出来事に対する態度や行動も違っていますが、それは諸個人の内面の認知の枠組みであるスキーマが異なっている為です。


ベックの抑うつスキーマの概念は、1963年と1964年に発表された研究論文『Thinking and Depression』において発表されました。
50名のうつ病患者と31名の非うつ病患者に精神分析の技法である自由連想法を用いた臨床的な比較調査
をしたところ、うつ病患者には独特な抑うつ感につながりやすい悲観的かつ自己否定的な思考内容・様式と思考パターンが見られる事が発見されました。

この思考パターンをベックは『認知の歪み』であると考え、更にそういった憂うつ感を呼び起こす偏った認知機能の深層には、『訂正や修正が困難な信念及び価値観』があるという仮説を提唱しました。
この『訂正や修正が困難な信念及び価値観』というものが、前述したベックのうつ病認知理論の中心概念である『抑うつスキーマ』と呼ばれるものです。
この抑うつスキーマは、ある条件では適応的な事もある『固定的な知的枠組み』であると同時に、人生の過程で『ある程度完成された論理的構造』でもあります。
抑うつスキーマは、確かに憂うつ感や無気力を惹き起こし、物事への興味関心を喪失させる根源的な認知の枠組みであり、面倒で厄介な固定的信念なのですが、そのスキーマが形成された今までの生活状況に適応したり、自分を防衛したりすることに役立ってきたという一面も併せ持っています。

『何故、うつ病の原因としてベックが想定した抑うつスキーマを変容することが難しいのか?』という質問に対しては、『悲観的で消極的な認知と行動を取る事が状況や環境によっては、マイナスばかりではなく成長過程において抑うつスキーマがメリットをもたらす事もあったから』という事になりますが、原因が特定できない突発的な内因性うつ病の場合には、脳内の情報伝達系の障害とセロトニンノルアドレナリンといった気分の安定や精神機能の活発性(気力・意欲・興味関心)に関与するホルモンの不足も想定されます。

ベックの抑うつスキーマの仮説概念の難点は、外部から観察や確認が不可能な抽象的概念である為、科学的理論に採用する事ができない事と、うつ病の原因として考えられる抑うつスキーマを改善する具体的な方法論が存在しない事です。
ベック自身は、抑うつスキーマという憂うつ感を惹き起こす固定的な信念である知的枠組みを変容させて改善する事が、うつ病に対する根本的な問題解決法であると考えましたが、抑うつスキーマの実体を把握することが出来ない以上、それは現在のところは画餅に過ぎないと解釈するしかありません。

認知療法認知行動療法では、ベックがうつ病の本質的治療と考えた『抑うつスキーマレベルの革新的変容』は実用化の目途が立たない為にほとんど目指されておらず、ベックが表層的治療と考えた『自動思考と認知の歪み・推論の誤りの適応的変容』を中心とした構造化面接が中心になっています。

認知療法認知行動療法)では、自己批判的で悲観的な『自動思考と認知の歪み(推論の誤謬)』を自己肯定的で前向きな『合理的な思考・反応や適応的な認知』に改善していく『認知的技法』を中心にして面接を進めていきます。
また、認知的技法をより適切に効果的に行う為に、クライアントにはセルフモニタリングや生活行動スケジュールの記録を取ってもらいます。
このセルフモニタリングや生活行動記録は『行動的技法』と呼ばれ、自分で自分の生活の出来事やそれによって湧き起こってくる自動思考、その影響から生まれる気分・感情を観察して記録をとってもらいます。
その記録を元に、自分の自己否定的な自動思考や認知の歪みを洞察して、それをもっと合理的で自己実現的な考え方に変えていき、自分の自動思考への反論を自分の頭で考えて書き留めていきます。
行動的技法では、一日の生活状況や行動内容について頭の中でグルグルと循環し続ける悲観的な自動思考を言語化して実際に紙(ノートや専用の記録表)に書き付けて、更にその自動思考への合理的反論を紙に書き留めていく行為そのものを重視します。

認知療法が、精神分析や来談者中心療法と比較して、科学的な側面の強い技法であると言われる最大の理由は、気分改善効果が多数の症例研究によって統計学的に実証されている事と、もう1つは、思弁的な漠然とした観念の世界で延々と終わりなく悩み続けるのではなく、抑うつ感や気分の落ち込み、意欲の消失を生み出す観念をはっきりとした言語で表現してみるという行動主義的なところにあります。
うつ病特有の抑うつ感や無気力、イライラの症状を『観念の世界の苦悩』から『言語の世界の誤謬』へと引きずり出し、その内容について共感的で受容的な他者と徹底的に語り合い、どのような認知や思考をするほうが自分の気分や感情の安定に役立つのかを学習するところに認知療法の単純明快な作用機序の本質があります。
言語の世界の誤謬を思考次元で巧みに暴き立てて、その誤謬や偏りのある自動思考が浮かび上がらないようにする習慣を形成させることが取り合えずの認知療法の目的となりますが、勿論、自己否定的で悲観的な自動思考を自在に消滅させる事には相当の時間と努力が必要になってきます。

『どういった内容の自己否定や自己嫌悪の考えが存在しているのか、その憂うつにつながる自己否定的な自動思考はどのような認知の誤りが原因となって起こるのか、その認知の誤りを訂正するような合理的で妥当性のある考え方とはどのようなものか』について客観的に誰もが確認できるように言葉にしてみて、一日の生活行動とその時に生じた自動思考や気分・感情を記録用のノートに書き留める形式として、『トリプルカラム法』という3つの要素について日記のように書き進めていく簡単な分かりやすい形式があります。
3つの要素というのは、『自動思考』『認知の歪み(推論の誤謬)』『合理的な思考(反応)』であり、一日の生活や出来事の中で、心に不快なイライラや不安の感情や憂うつで暗い気分に襲われた時には、その時に頭の中に自動的に浮かんできた『自動思考』を書きとめ、それが10種類ある『認知の歪み』のどれに該当するかを考え、その認知の歪みを反駁して修正する自己肯定的な『合理的な思考』を書き込んでいきます。
そして、そういった記録作業を繰り返していく過程で、同じような出来事に遭遇した時に、自己批判的な考え方でなく自己評価を高めるような合理的な考え方が自然に出来るようになっていくことを目標とします。


上記に提示したBDIの優れた長所とは、うつ病の症状の種類と重症度だけではなく、定期的にBDIを実施する事によって、それまで継続した心理療法がどのくらい効果を発揮しているかという『治療効果』を簡単に測定出来る事です。
10種類の認知の歪み(推論の誤謬)については、また改めてまとめてみたいと思っています。