デビッド・D・バーンズの10種類の認知の歪み(偏り)


臨床心理学の認知療法の理論によって、気分障害うつ病等気分の変調を主症状とする病態)の抑うつ感の生起を説明する場合に必要不可欠になってくる図式は、『外界の事象→認知(思考)→感情・気分→行動』という行動メカニズムの図式です。

この図式が成立した歴史を遡ると、論理療法の創始者として著明なアルバート・エリス(Albert Ellis)のREBT(Rational Emotive Behavior Therapy:理性感情行動療法・論理情動療法)の『ABC理論』に辿り着きます。

アルバート・エリスのABC理論は、認知療法の基本的な考え方の図式である『外界の事象→認知(思考)→感情・気分→行動』と一致するもので、人間の感情や行動は、現実世界の事実や出来事によって直接惹き起こされるのではなく、その出来事をどのように受け止めるのかという認知や信念によって導かれると考えました。

ABC理論のA,B,Cは、

A(Affairs)=外界の出来事
B(Belief)=信念・価値観・固定観念・思い込みといった認知やスキーマに相当するもの
C(Consequence)=Beliefの結果として生起する情動や行動

を意味するものです。

ABC理論の基盤にある考え方は、非論理的文章記述の訂正による感情や行動の変化であり、『現実世界の出来事が感情や行動を反射的に機械的に生み出すならば、私たちは苦悩や問題を自分の意識的努力で改善することが出来ないことになるが、実際にはirrational belief(非論理的な思考)をrational belief(論理的な思考)に変容させていく事で不快で苦痛な感情や不適応な行動を変化させることができる』というものです。
認知理論でいうところの不合理で自己批判的な自動思考が非論理的文章記述に相当します。

自然的事実や客観的な出来事が、そのまま気分・感情・行動に影響して、憂うつ感や無気力、不安感、焦燥感や自己破壊的な不適応行動を生み出すのではなく、自分の価値を低めて、悲観的で絶望的な予期や判断をする“自動思考”や自動思考を支える“認知の歪み”が不快で苦痛な結果を生み出しているというのがアルバート・エリスやデビッド・D・バーンズの考え方です。

デビッド・D・バーンズが、理論的研究や臨床的実践の中で発見し、そのエッセンスを抽出した“認知の歪み(推論の誤謬)”には、以下の十種類があります。
この認知の歪みが、自分自身を無価値化して無力化し、あらゆる物事に対する意欲や積極性を剥奪する“自動思考”を生み出す原因となり、うつ病の症状や耐えがたい不快な感情・気分を発生させます。

認知理論が、自然科学的な脳機能と心を同一視する精神医学の流れに与えた最大の衝撃とは、『うつ病を自分自身で克服しようとする決意と認知理論に準拠した努力が有意義である』ことが統計学的根拠によって実証されたことでした。




バーンズの10種類の認知の歪み


1.全か無か思考(all-or-nothing thinking)

『栄光か、然らずんば死を与えよ』という古代世界の英雄や名将達が有していたような極端な価値判断の認知のことを『全か無か思考』といいます。
これは、非現実的な完全主義や強烈な自尊心に根ざして生まれる認知の歪みであり、無限のグラデーションと多様な価値基軸を持つ現実世界を単純な白か黒か、勝ちか負けかという『二分法思考(dichotomous thinking)』で捉えてしまっている点に錯誤があります。

全か無か思考は、自分が描いた理想的な人生の軌道から僅かでも逸れる事を極度に恐れる完全主義を基底に置く為に、理想的な人生設計を少しでも傷つけるような小さな失敗やミスを過大に受け止めて『自分は人生の落伍者であり、生きている価値などない』という極端な価値判断へと飛躍してしまいます。

全か無か思考の認知を持っている人に共通する特徴は、その多くが平均以上の高度な知的能力の持ち主であり、実際に上げている業績や成績も標準よりも相当に高い水準にあるという事です。
その為、全か無か思考の認知から生じる本人の悩みや焦燥感は、家族や友人知人には理解する事が難しいものも多く、更に本人は孤立感や疎外感を募らせ、より一層の完全主義的目標を掲げてしまうという悪循環に陥ります。

極端なケースでは、学業優秀な生徒で、定期試験では必ず学年トップを取っていて、他の生徒から見ればずば抜けた優れた学力を持っているのに、『自分は、数学の試験で一問間違ったばかりか、英語でも単純なスペルミスをしてしまった。全教科で満点を取らなければ、学年トップであったとしても意味がないんだ』というような苦悩を抱え、『100点か、然らずんば死を』というような強迫観念に絶えず追われてどんな時も絶えず参考書に目を通していなければ気分が安定しないといった事態になってしまいます。

全か無かの思考には、メリットとデメリットがあり、人によっては全か無か思考によって余人を寄せ付けないような前人未踏の業績を残すことさえあります。しかし、ゆめゆめ忘れてはならない留意すべき点は、そのような人類の発展や進歩に貢献するような業績を歴史に残せるような完全主義者は、極々僅かであり、完全主義の大部分は人生の途上で何らかの挫折や限界に直面しなければならないという事でしょう。
その上、全てを最高に高いレベルで遂行しなければならないという完全主義の強迫観念は、家庭的な幸福や余暇を楽しむ精神的な余裕や多様な趣味を満喫する自由というものと相性が悪いので、人生全体の主観的な幸福感や満足感は、完全主義を持たない人よりも劣る場合がほとんどであり、憂うつ感や自罰感といった不快な感情に捉われやすいというデメリットも考慮に入れておかなければなりません。

途中で挫折や失敗さえ経験しなければ、本人の完全主義を維持する潔癖さによって社会的に最高度の成功を手中にする可能性は否定できませんが、世界を二分法思考で解釈する事によって見逃してしまう興味深い知識や価値も無数にある事もまた否定できません。
あなたの実力や能力が、最高度の優れた帯域にあり、完全主義を維持するだけのモチベーションが十分にあるならば全か無か思考を修正せよとは言いませんが、そうでなく、誇大自己による過大な要求水準によって、自分をいつも矮小化して苦しめたりしているのならば、段階的に全か無か思考の強度を弱めていったほうが結果としての幸福につながるでしょう。

私の個人的感覚ですが、才能や能力があり努力を惜しまない人であれば、20代までは全か無か思考によって得られる利益や果実も無視できない大きさがあるとは思います。いずれにしても、現実的環境や能力との比較考量によって、どの水準で完全主義を維持するかを選択し判断することが必要となるでしょう。

世界を、白黒のモノクロームのフレームで眺めて生存闘争の場と解釈するよりも、多層的なグラデーションを持つカラフルなフレームで眺めて自己実現(自分なりの価値を探求する)の場と解釈するほうが、抑うつ感を生じにくいとするのが『全か無か思考』の認知の歪みから学ぶべきこととなります。


2.過度の一般化(over-generalization)

『過度の一般化』とは、自分の個別的な経験を、一般的な事例や法則へと置き換えてしまう事です。
人間の行動による成功や失敗の結果は、行動の種類や目的によって様々な予測不可能な変数が関与しますから、自然界で生起する事象のように一般法則化することが出来ません。

自分の個別的な経験である『一度の入社試験の失敗』を、『次回の入社試験の失敗』へと結び付けてしまうような一般化は端的に錯誤であり、間違っています。
『一度の入社試験の失敗』を左右したのは、あなたの実力や履歴、人格性も関与しているでしょうが、それ以上に面接者との相性や企業の採用人数や競争倍率など偶然性が大きく介在する変数が関与していて、あなたという人間がどの企業でも評価されないから落ちたという事にはなりません。

一度の失敗を、それ以降の全ての失敗へと飛躍して結びつける『過度の一般化』の誤りは、未来の可能性を自分自身で無視して捨ててしまう事になります。
過度の一般化は、失恋や離婚といった心理的な悲哀や孤独感にも大きく影響する認知の歪みであり、例えば、あなたが勇気を出して好きな異性に告白したとして、『あなたみたいな人が、私(俺)と釣り合うとでも思っているの?絶対にお断りよ』と冷淡で情け容赦ない態度で断られたとします。
その1回限りの経験を元にして、『自分みたいな魅力のない人を好きになってくれる相手なんて誰もいないし、どんなに勇気を出して真剣に告白しても冷たく拒絶されてしまうだけだから恋愛は諦めよう』というのであれば、それは『過度の一般化』であり、人間の個性・性格・人格や恋愛対象の嗜好の無限な多様性を無視した短絡的で近視眼的な異性の見方であることになります。

個別的な人生の出来事を一般化された法則的な出来事と解釈してしまう認知の歪みを修正出来ない事による人生上の損失や不利益は計り知れません。
1回や2回失敗しても、いや無数に失敗しても、それを根拠に未来永劫自分は成功する可能性がないと固定的に断定的に判断してしまう事は論理的に間違っている認知の誤謬であり、人間の行動の結果が自然法則化されることがない以上、あらゆる手段や努力を尽くしながら、絶えず自分の可能性を喪失しないようにすることが大切なのです。
人間の人格的魅力や知的能力、社会的コミュニケーションスキルには可塑性と柔軟性があり、自分がより良い方向に変わりたいと願い、適切な手段と努力を継続すれば、それなりの成果と利益を得ることが出来るのですから。


3.心のフィルター(mental filter)

過去の不快で自己嫌悪を惹き起こすような出来事に選択的にこだわる事で、世界の出来事や他人の行動全てを悪い方向に解釈する『心のフィルター』が作り上げられ、その出来事や言動の内容に関わらず、全てを『自分の価値を否定するような種類の悪いもの』としてフィルタリング(濾過)してしまうという認知の歪みです。
心のフィルターは、認知の歪みであると同時にうつ病に特有の認知障害でもあり、世界のあらゆる出来事や娯楽に興味関心が起きなくなり、何もしたくないという意欲の減退が見られるというのは、うつ病の心のフィルターの影響です。

本来ならばとても楽しみにしていたライブや友人とのショッピングであっても、心のフィルターを通して見てしまうと『好きな歌手のライブだけど、そんな遠くまでわざわざ出かける価値はないし、行っても感動は一瞬だけでその後には疲れるだけだ』とか『友人とのショッピングは、自分の欲しくない商品まで一緒に見て回らなければならないし、人の多い場所で買い物するのは息苦しくて疲れる。そんな苦労をしてまで欲しいものなんて私にはない』といった感じの認知をしてしまうことになります。

心のフィルターは、『選択的抽象化(selective abstraction)』と呼ばれる事もあります。


4.拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)

無意識的な選択的注意によって、自分の失敗や短所、欠点、不利益、ミスといった『不幸という感情を惹き起こす自己嫌悪的な出来事や対象』を拡大解釈する一方で、自分の成功や長所、利点、利得といった『幸福という感情を惹き起こす自己肯定的な出来事や対象』を過小評価してしまう認知の歪みを『拡大解釈と過小評価』といいます。

拡大解釈と過小評価の認知傾向がある人は、どれだけ仕事で高い業績を上げても、それを取るに足りない些細な成果だと解釈し、他人からどれだけ惜しみない承認や評価を受けても、それを表層的で実際に即していない空虚な評価に過ぎないと解釈してしまいます。
その一方で、人生全体には何の影響も与えない僅かな失敗やミスに敏感に反応して、誇大に大袈裟な表現で自らの無知や無能を責め立てて、惨めで憂うつな気分に入り浸ってしまう事になります。

拡大解釈と過小評価の認知の歪みを訂正していかないならば、その人はどれだけ努力して偉大な成果を達成しても、心の底から喜びや充足感を感じる事が出来ない事になり、必要以上の自責感や自己破滅的な自暴自棄に苛まされる事になるでしょう。


5.感情的決め付け(emotional reasoning)

物事の真偽判断や出来事の価値判断の基準を自分自身の感情の変化に置いて、自分の気分や感情が良いか悪いかによって物事を全て判断してしまう認知の歪みです。
例えば、『自分が生きている価値がないと感じているのだから、私は生きる価値のない人間なのだ』という命題は、絶対的に正しく訂正不可能なものであるというのが『感情的決め付け』です。

こういった感情的決め付けが他者に向かってしまうと、『あの人の言動は私をイライラさせて不快にするから、あの人は全く無価値でつまらない人間だ』という価値判断が客観的次元においても成り立つような錯誤を生じてしまいます。

うつ病の症状として現れる『感情的決め付け』の認知の歪みは、『私はこれから先、回復していくという希望を感じることが出来ない。だから、私の憂うつ感の問題は永遠に解決不可能な問題なのだ』『私は働く事も勉強する事も出来ない。だから、私は社会で生きていく資格がないのだ』『私はあなたの言い方に私を批判して攻撃しようとしている意図を感じる。だから、きっとあなたは私のことが嫌いでいつか見捨てるに違いない』といった形となって現れてきます。

感情的決め付けは、うつ病の決断力の低下や決断の引き延ばしにも影響しているとされています。
例えば、『私はベッドから外に出る気が起きない。だから、今日一日はベッドからきっと出られないだろう』『私は何も出来るという自信がない。だから、これからずっと何をすることも出来ないし、何かをしようとする決断も出来ないに違いない』という風に、気分が直接的に行動につながる決断を遮断してしまうのです。


6.マイナス化思考(disqualifying the positive)

自分にとってプラスになる良い出来事や良くも悪くもない中立的な出来事を、全て自己否定的かつ自己嫌悪的なマイナスの方向へと解釈してしまう認知の歪みのことです。

他人が自分を評価してくれても、『確かに彼は私を高く評価してくれたけれど、あの程度の評価は他の多くの人もされているし、おそらくあの評価も単なる偶然か彼の社交辞令に過ぎないに違いない』とマイナス化思考を働かせてしまったりします。
家族や恋人が愛情や思いやりを示してくれても『彼の愛情は表面的な見せ掛けだけのものに過ぎないし、本当は私よりも好きなタイプがあるのに妥協して私と付き合ってくれているだけなんだ』とか『家族が私を思いやってくれるのは、世間体や体裁を取り繕っているだけで、本当は私みたいなダメな人間はいないほうが良いと思っているに違いない』とかいった悪い方向に全てを解釈して受け取ってしまうのが、マイナス化思考です。

マイナス化思考は、他人のせっかくの心からの誠意や愛情、思いやりを台無しにしてしまうばかりではなく、自分自身の人生の幸福や満足感、達成感さえも虚無的な味気ない出来事に変えてしまう悲観的な認知の歪みの典型的なものです。


7.結論の飛躍(jumping to conclusions)

思い込みの感情や誤った固定観念、独断的な判断をもとにして、現実とは異なる悲観的で絶望的な結論を飛躍して出してしまう認知の歪みです。


a.心の読み過ぎ(mind reading)

相手の真実の感情や判断とは無関係に、自分勝手に相手の表象(イメージ)を作り上げて、相手の気持ちを独断で読み取ってしまう認知の歪みです。
人間には、相手の内面心理を外部の僅かな情報から読み取るような特殊能力や超能力は備わっていないのですが、『心の読み過ぎ』をしてしまう人は、偶然忙しくて電話に出られなかった相手の心を深読みして『相手は自分とは話をしたくもないほどに、自分を嫌っているんだ。それなら、もう彼とは口を聞かないようにして、会わないようにしよう』というように相手の真意や事情を尋ねる前に相手の感情を間違って読み取ってしまいます。

『心の読み過ぎ』の陥穽にはまり込んでしまうと、本当は相手は自分のことを何も悪いように思っていないにも関わらず、『相手が自分を嫌悪している、軽蔑して敬遠している、馬鹿にしている』といった感じで、『否定的で攻撃的な感情』を自分に向けているように錯覚して認知してしまいます。
その結果、人間不信や人嫌いといった非社会的な行動によって集団活動への適応が障害されてしまったり、大切な恋人や友人知人との関係が悪くなったり疎遠になって破綻したりする悲惨な結果を導いてしまう事があります。
他者の心が自分には手に取るように分かるというのは、明らかな認知の錯誤であり、ある種の特殊能力への確信ですから、相手の気持ちが分からない時には直接相手に確認してみてからどのような態度をとるかの判断を下しても遅くないですし、大切な人との関係を円滑に維持する事につながります。


b.予期の誤り(the fortune teller error)

現実的かつ具体的な根拠となるデータが存在しないにも関わらず、自分には未来に起こる出来事が分かるかのような認知をしてしまう錯誤が『予期の誤り』です。
『予期の誤り』は、現在うまくいかない失敗してばかりの自分は、将来においても必ず失敗して挫折してしまうだろうといった形で現れる事の多い認知の歪みで、疎遠になっていく対人関係の行く末にも予期の誤りが大きく関与しているとされます。


8.すべき思考(should statements)

完全主義者や原則主義者に多い認知の偏りとして『すべき思考』があります。
具体的な理由や現実的な制約や威圧的な強制などが存在しないにも関わらず、何かの物事をやる時には必ず『〜すべき』『〜しなければならない』という強迫観念に似た切迫感や焦燥感に駆られています。

基本的に、物事への意欲や気力は、切迫した追い詰められた状況や強烈な圧迫感を感じる心理状態では低下する性質を持っているので、『〜しなければならない』と強迫的に自分を追い立てれば追い立てるほど何事も出来ないという悪循環のループにはまり込みます。
その上、自分で設定した無根拠な強制的ルールに自分がうまく適応して従えない場合には、例えば『3時間、少しも休まずに数学の勉強をし続けなければいけない』というルールを破ってしまった場合には、自分は怠惰で無能な人間だというように的外れな自己非難をしてしまって、本来抱く必要のない無力感や敗北感、自己嫌悪による憂うつ感を感じてしまいます。

『すべき思考』の独善的な判断基準や努力目標を、社会一般のルールへと置き換えてしまうような場合には、他者に自分の独善的な行為の判断基準を求めて期待するという認知の歪みになってしまい、『自分が好意を示したのだから、彼もそれ相応の礼儀を尽くして恩返しすべきだ』といった強迫観念を抱く事になったりすることがあります。
当然、自分の自己ルールである『すべき思考』は他者には通用しませんから、他人が自分の期待を裏切ると本来感じる失望感や嫌悪感のレベルを越えて過剰な失望や絶望を相手に感じて、怒りや恨みを抱いてしまう事にもなりかねません。

『すべき思考』は、その程度を和らげて、『〜できるほうができないよりも良いだろう』といった具合に解釈すべきで、望ましいのは『〜してみたい』という外部強制的でない内面的な動因の高まりへの置き換えです。


9.レッテル貼り(labeling and mislabeling)

『レッテル貼り』が、部分的情報から全体的判断をしてしまうという認知の歪みです。
人間の行動や発言のポジティブな側面ではなく、ネガティブな側面に選択的に注目してしまう批判家や天邪鬼といった揚げ足取りを好む人たちは、個人の否定的な特徴の一部に注目して、『人でなし・冷血漢・恥知らず・馬鹿者』といった単純で分かりやすいレッテルを貼りますが、うつ病の人たちは自分自身に対してマイナス評価のレッテル貼りをしてしまい更なる抑うつ感や無気力の荒波に呑まれてしまいます。

典型的な憂うつ感に沈みやすい人のレッテル貼りとは、『仕事も勉強も出来ない自分は、人生の敗北者だ』『今回の試験に合格できなかった自分は、人生の失敗者だ』『こんな簡単な作業もできないなんて、自分はダメ人間だ』という様な自己破壊的で根拠のない不合理なレッテル貼りです。

レッテル貼りは、人間存在の全体的な価値判断を個別的な行動の成否や善悪で固定的かつ断定的に拙速に判断してしまう誤謬です。
人間存在の価値は、個別的な場面場面の行動によって全規定されてしまうような底の浅いものではなく、単純なラベリングによってその人の実際の人物像や人格性や知性を表現しきることなどは出来ません。

自分に貼るレッテルは、自己破壊的で抑うつ感を誘発する無意味なものであり、他者に貼るレッテルは、不必要な反発や敵意を煽り立てて無益な争いや対立に発展することがあり、他者との相互理解を疎外する効果しか生み出さないでしょう。


10.個人化(personalization)

『個人化』とは、不利益や損失を生み出す出来事の原因を、全て自分の責任へと還元してしまうといった認知の歪みです。
本来、あなたの責任でも何でもない悪い出来事や他人の行為に対して、『自分が悪かった。自分がもう少し努力してきちんとした対応をしていればこんな事にはならなかったのに申し訳ない』というのが『個人化』の認知の誤謬です。

例えば、子どもが偶然の事故で怪我をして、それを事前に予測して防ぐ手段などなかったにもかかわらず、その責任の全てが母親である自分にあると考えて、必要以上の罪悪感や自責間に悩まされるといったことが個人化になります。

『現実に起こる全ての出来事』に自分の行動や価値観や発言が何らかの影響を及ぼす事ができるはずだという無根拠な信念に『個人化』の錯誤は支えられていますが、一人の人間が周囲で起こる偶然の悪い出来事全てに責任を負うことなどはとてもできません。
他人が自らの意志で決断した行為とその結果に対しては、その人自身が責任を負わなければなりません。
例え、その結果がどんなに悲惨なものであっても、あなた自身がその行為を強制してさせたのではない以上、悲哀ではない過度な罪悪感や責任感を感じるのは認知の誤謬であり、本来感じる以上の抑うつ感や無気力感へとつながってしまいます。