本居宣長を突き動かした“もの学びの力”と日本の国学の独自性


本居宣長(上) (新潮文庫)

本居宣長(上) (新潮文庫)



江戸時代の国学者本居宣長(1730-1801)は、伊勢(三重県飯高郡松阪(松阪市)の商家・小津家にて、この世に生を受ける。
故に、本居宣長は、医学と儒学を修養する為に京都遊学に赴くまで、姓は木綿問屋を営んでいた小津を名乗っていた。
小津家は、父の小津三四右衛門定利が存命の時には、江戸に支店を構えるまでに成長し、伊勢の国で最も羽振りが良く栄えた家系であった。
しかし、父が宣長が11歳の時に病死してからは、親戚にその遺産と商売を殆ど取られてしまい、宣長は自分の才覚と努力で生計を立てていかなければならなくなる。
そこで、学問によって身を立てるのが良いという母の勧めもあって医学を志し、京都に遊学するのである。
本居宣長は、23歳で京都遊学を果たすが、その時に師事したのは儒学の堀景山と医学の武川幸順である。

宣長自身は、やはり儒学を深く学び、日本古来の伝統を重んじた人だけに、生計の為の商売はするが、利潤拡大の為の商売には余り良い印象を抱いていなかったように思える。しかし、宣長は商家の生まれである事も影響してか、商売そのものの才能が貧しかったわけではなく、生業としていた医学ではそこそこの収益を上げていたようではある。
宣長という人は、潔癖禁欲の儒教の説くところの私心なき聖人君子ではない。現実的状況を悠々と受け容れて生きていく為の商いは進んで行うべきとするバランス感覚を持った学士である。
学問に精励する為には、生活基盤を確固としたものにしなければならないという当たり前の現実適応感覚に従って、まずは医業によって身を立てる事を考えたと言えよう。
医師としての宣長は、本居春庵(舜庵)と名乗っている。

小津という名字を捨てて、本居と改名した背景には諸々の思惑や事情があるだろうが、小津という姓に歴史的に浸透した商人アイデンティティから脱却して武士や学士としてのアイデンティティを本居姓に求めたと解釈することも出来る。
本居とは、宣長の祖先を遡っていくと、商家の小津家に分家する前の姓で武家の家柄であったようだ。
本居姓を名乗っていた祖先は、戦乱の時代に蒲生氏郷に仕えた猛勇を誇る武士であったという。

この学問技芸を余力にて修めるというのは、実は、論語に示された孔子の学問に対する姿勢にも通底するものでもある。
孔子は、『論語 学而編』にて以下のようにのたまっている。


子曰わく、
『弟子(ていし)入りては則ち孝、出ては則ち弟、謹みて信、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力有れば、則ち以て文を学べ。』

【拙訳】
孔子は、こうおっしゃられた。
『これから世に踏み出さんとする者たちよ、家庭にあっては親に孝行を尽くし、家庭から社会に出れば年長者に敬意を持ち、自らの身を謹んで信頼を得るに足る言行に努めなさい。差別する事なくあらゆる人々を愛して思いやり、仁徳を備えた士大夫に近づきなさい。そして、忠孝、孝悌、信義、仁徳の道を実践して、余力があるならば、そこで古典文芸を学び教養(知)を修得するのがよい。』

現代社会において、この儒教道徳を無批判に受け容れる必要は当然にないが、教養修得の学知や古典文献の考証学のみに没頭するのではなく、現実世界での人間関係や職責享受も同等以上に大切にする必要があるという孔子の意見にも耳を傾けるべきところはあるだろう。
特に、現代社会の学校制度では、実践や行動以上に論理的把握や体系的知識の獲得が重んぜられる風潮があり、そこに知的な完全主義的性格が伴うと、なかなか観念的理解から実践的行為への移行が速やかに行えないという難点がある。


当時の伊勢・松坂は、非常に商売が盛んな土地柄で手広く商いをする裕福な商家が数多くあるだけでなく、他国から経済的成功を夢見て伊勢に至る者や商売の取引きのために出入りする人たちで大いに賑わい栄えていた。

本居宣長は、伊勢松坂について『玉勝間』にて次のように記している。


国のにぎはゝしきことは、大御神(伊勢神宮)の宮にまうづる旅人、たゆることなく、ことに春夏の程は、いといとにぎはゝしき事、大方、天下に並びなし。土肥えて、稲いとよし、田なつ物も畑つ物も、大方、皆よし。
かくて松坂は、ことに良き里にて、里の広きことは、山田につぎたれど、富る家多く、江戸に店といふものを構へおきて、手代というものを、多くあらせて、商ひせさせて、主は、国にのみ居て、遊びをり、上辺はさしもあらで、うちうちは、いたく豊かに、奢りてわたる。

(中略)

他国の人おほく入り込む国なる故に、よからぬものも多く、盗なども多し。
人の心はよくもあらず、奢りてまこと少なし。

国学者としての名声が高まっても四畳半の書斎・鈴屋で読書し執筆し続けた宣長は、無論、贅沢華美や享楽遊興とは無縁の人間ではあるが、彼は学問と生活を特別に切り分けず、それらを渾然一体のものとして受容していたように思える。
つまり、生計の為に働くことを学問の障害と考えるような古代ギリシアの貴族主義的な学問の姿勢を宣長は生涯取らず、常識的な市井の国学者として過ごした。
実践と思索、労働と学問、娯楽と仕事、動態と静態は宣長にとって対立する融合し難き事態ではなく、それぞれの領域において自らに割り当てられた事柄を淡々とこなし、余力を持って自らの志向する学問的課題へ精力を傾注したと言える。

しかし、この余力というのは凡人通俗の理解するところの本領の残滓としての余力と受け取るのは誤りであって、本居宣長の人生全体が『物まなびの力』に覆われていたという前提を忘却すべきではないだろう。
宣長が、学問の道、古道研究の道を、人生の大道と捉えていたことは疑いないのであって、極端な比喩表現を用いれば、ユングの語る自己を超越した世界を普遍的に覆う『魂の領域』宣長にとっての『物まなびの力』なのであって、物まなびの力は宣長個人の内面世界に閉じ込められているものではないように思える。
宣長は、古道(古典文学に込められた日本の精神性)を極めんと刻苦勉励する一方で、『賢しらごと』を軽蔑し、発言することさえ憚られるとして遠ざけた。
宣長にとって、情報として知っているだけの知識や表層的な理解の集積は、さかしらごとであって物まなびの力に準拠するものではなかったのである。

更に言えば、宣長の知的好奇心とは、功利的なものでもなく実利的なものでもないのであって、自己の内面から自然に滾々と湧き上がってくる抑えがたき知の衝動として理解することが出来る。


己、いときなかりしほどより、書を読むことをなむ、よろづよりも面白く思いて読みける。さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢとさだめたる方もなくて、ただ、からのやまとの、くさぐさの文をあるにまかせ、得るにまかせて、古き近きをもいはず、何くれと読みけるほどに、十七、八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、詠みはじめけるを、それはた、師にしたがひて、学べるにもあらず、人に見することなどもせず、ただひとり、詠み出るばかりなりき、集どもも、古き近き、これかれと見て、かたのごとく、今の世のよみざまなりき 


本居宣長『玉勝間』より


古事記源氏物語など日本の古典文学の研究と日本民族の歴史的精神の発掘に生涯を捧げた本居宣長の本領が発揮されるのは、万葉集に表現される日本古来の精神性を学究した賀茂真淵との出会いがあってからのことである。
国学の師・賀茂真淵宣長が、松坂の旅籠・新上屋で初めて出会ったのは、1763年の事であり、宣長34歳、真淵67歳のことであった。

兼ねてから、賀茂真淵万葉集研究と枕詞研究の書『冠辞考』を読み、真淵の高名を慕っていた宣長は、真淵の門下となり、国学者としての地歩を一歩一歩固めていく事となる。
正に、新上屋における二人の邂逅は一期一会であり、年齢的制約によって真淵が断念せざるを得なかった古事記の研究が弟子の宣長へと継承されたことを意味する出来事でもあったと言えるのではないだろうか。

勿論、真淵と邂逅した時点での宣長も並々ならぬ深い教養と向学心を備えた人物であり、宣長の前半生における学問的態度に無視できない影響を与えたのは儒学の師である堀景山であった。
藤原惺窩の儒学の系統に属する堀景山は、荻生徂徠を敬仰し、朱子学の正統に捉われることのない自由闊達の気風を持った人物で、漢学だけでなく国学の素養も持っていたのである。

堀景山の柔軟性のある思索の薫陶を受けた本居宣長は、伝統的な学問通説の枠組みに束縛されることなく、創造的で刺激的な“ものまなびの道”へと邁進することとなる。
しかし、堀景山が荻生徂徠を尊敬した一方で、宣長は徂徠の儒学思想を中国回帰的な中華思想であり、日本の伝統文化や精神性の探究に通ずるものではないとして退け、国学の立場から漢学優位の立場を批判した。

宣長もののあはれの研究や体得の詳細について書くことが出来なかったが、今回の記事で言いたかったことは、本居宣長の学究精神としての思惑や意図のない“ものまなびの力”についてであった。
私は、孔子儒学を学ぶことにも面白味を感じるが、本居宣長の日本古来の神道の精神による儒学批判にも痛快なものを感じる。

儒教は、士大夫、聖人君子の踏み行うべき道徳規範を説き、天下国家を人徳と礼制によって治める王道を説くものであり、その為に自らの言動を正しくして修身を積まなければならないとする。
儒教思想において、人間と禽獣との差異は『仁義と礼楽を知る者と知らない者の差異』なのであるが、本居宣長はそういった儒教の道徳観によって人間を判断しようとする事は、本家中国では妥当かもしれないがここ日本においてはそれほど重要なことではないと語る。
宣長は、日本は自然の神道に人間存在の基盤をもち、『それ人の万物の霊たるや、天神地祇の寵霊に頼るの故をもってなるのみ』というように、人間が禽獣と異なる本性を備えるのは、自然世界の神々から生得的に道徳性を付与されているからだと反駁する。

また、市井の学者である宣長にとって天下国家を統治する為の聖人君子の王道は、必ずしも最優先事項とすべき道ではなかったとも言える。
高潔なる人格の陶冶や民衆を敬服させる徳性の修養といった大人(たいじん)の目的を欺瞞的に空想的に追い求めるのではなく、宣長は自らを小人と思い定めて現実的な事柄からまず実践し、『好み信じ楽しむ学び』を通して日本古来の精神や伝統を再現しようと考えたように思える。

何らかの外部的な目的の為に行う学びには、好み信じ楽しむ要素が欠如しがちであるが、内発的な動因に突き動かされる学びには、絶えず、好み信じ楽しむ軽妙風雅な心意気が込められている。