『ブッダの言葉』を眺めながらもの思う。


気がつけばいつの間にか今日で4月も終わり、人によっては10連休以上のゴールデンウィークに突入しますね。
ここ数日急激に気温が上がり、うららかな春を通り越して既に初夏の気候となりつつあります。

特定の話題やテーマについて掘り下げて考える時間が乏しいので、気軽にブッダの言葉を借りながらつらつらと頭に思い浮かぶことを書き留めることとします。
中途半端なメモや断片的な知識の備忘録のような更新でもしようと思うのですが、短く手軽に更新するというブログの書き方に慣れていないせいなのか、ラフでアバウトな記事の作成がなかなか出来ないといった感じです。

知恵の手帖シリーズというとても薄い冊子があり、そのシリーズの『ブッダの言葉』(isbn:4314007397)から困苦なる人生を行き抜く指針となるようなものを幾つか引用し、私の簡単な感想を添えておこうと思います。

表題は、私が恣意的に気の趣くままにつけました。


克己―この世界に生を授けられし者の普遍的な目的

戦争で幾千万もの敵を倒した者と

自分自身に打ち勝った者とでは

自分自身に打ち勝った者こそが、

より偉大な勝利者である。

(中略)

真実のところ、悪は自分自身によって為されるのである。

人は自分自身によって穢れる。

だが、自分自身によって、悪を避けることもできるし、

真実のところ、人を清めるのも、自分自身なのである。

純粋であるか不純であるかは、その人にかかっていて、

他人を清めることなど、自分以外の誰にもできない

(中略)

どんな征服も憎しみを生む。敗れた者たちが、不幸に見舞われることになるからだ。

あらゆる勝ちや負けの考えを捨て去って、穏やかに生きる事のできる者だけが、いつまでも幸福にいられる。

この言葉の左側には、釈尊ゴータマ・シッダールタ)が誕生したルンビニ―の地、母親から産まれた釈尊の彫刻が付されている。
母の摩耶夫人から産まれた釈尊は、即座に立ち上がって七歩歩き『天上天下唯我独尊』と高らかに降誕宣言をしたという伝説が残っている。
『この天下に私ほど尊貴なものは存在しない』という宣言を、特別な人類救済の任を得た釈尊にのみ許された言葉と取るのは早計であろう。

この言葉を私は、歴史上初の自我意識の発露として受け止める。
そして、この言葉を躊躇なく発することの出来る人間は、克己を成し遂げたものであり、独尊であるが故に他者との相対的比較による優越を獲得する必要がそもそもない。
真の絶対的な自負や自尊の念に至る道は、他者との競合や闘争によって切り開かれるのではなく、ただ我一人、我が精神の実相と正対することによって得られる。
その具体的な道筋を説いたものが、仏法でいう八正道なのかもしれないとふと思った。

ちなみに、釈尊の名シッダールタとは、『目的を成就せし者』という意味が含意されている。
自我意識は、仏法では否定されるべき煩悩の源泉とも解釈され得るが、私は自我意識を滅却する方策による悟りの境地には真の救済も幸福もないと感じる。
それは無為なる生命の残滓に成り変わることと等価であり、欲求の執着に悩み苦しみながらも歓喜を得るところに人生の醍醐味がある。

生命を危機に陥れる苦行三昧は、釈迦を悟りへは導かず、ただ静謐な死の調べを彼の耳元へ柔らかに注ぎ込んだに過ぎなかった。
自分自身の生の責任と運命を毅然として受容せるところに、人間の清浄なる尊厳が屹立する。


形而上学的な対象としての苦悩や憂慮を捨象し、現実に生きること

もしも修行者が、正しい智慧によって、物事をあるがままに見るならば、過去についてこんな考えは持たないだろう。
『私は過去に存在していたのだろうか。それとも、存在しなかったのだろうか。私は過去において何者だったのだろうか』
彼は未来についてもこんな疑問は抱かないだろう。
『私は未来にもあるのだろうか。それともないのだろうか。私は未来において何者となるだろう。』
彼はまた、現在についても、こんな疑いはもたないだろう。
『私は存在しているのか、それとも、いないのか。私は何者であり、友情として、どこから来て、どこへ行くのか』と。
このような考えが彼に生じることはない。

私達は、現在、享受している生命の起源を受精以前に遡ることはできず、現在の生命が燃え尽きた後の未来を知ることはできない。
原理的に知り得ない誕生以前の生や死滅以後の生についてあれこれと思い煩う事に意味はない。
過去は記憶の想起の中にしか存在せず、未来は想像力が生み出す推測のイメージの域を超え出ることはない。
『今。ここ』から精力的に生きる事、過去の苦難や悲哀を引きずり過ぎない事、未来における不幸や絶望の予感に脅かされない事、極めて簡単な生き方に思えるが、記憶と想像に苛まれる人は現在を全力で生き抜く事がなかなか難しい。



因果応報と自業自得―憎悪と怨恨は復讐となって連鎖する

ある男が、他人の財産を奪って、目的を果たしたとする。
しかし、その男は別の男から、身ぐるみを剥がれてしまった。
そうすると、彼はまた他人の財産を奪うことになる。

悪の果実がまだ熟さないうちは、愚かな者はこう考える。
『今がチャンスだぞ。今こそ好機だ。』
ところが、その行為が果実をもたらす時、彼のために、あらゆるものが損なわれる。人を殺めた者は、次には自分が人から殺められ、勝利者には次の戦いの相手が現れ、人を侮辱した者は、いずれ自分が侮辱され、他人を迫害する者には心配事が絶えないだろう。

このように、行為は連鎖をなし、人の財産を奪う者は、次に自分が財産を奪われる。

倫理規範の根本は、同害復讐法に根拠づけられるような憎悪と復讐の連鎖を抑止するところにある。
孔子の語る『仁』の徳性も、血縁者への隣人愛をより遠方へと拡大していく過程において実現される。
その本質は『己の欲せざるところ人に施すことなかれ』だが、人間社会にある絶望的な貧困や凶暴な破壊衝動、利己的な繁栄への欲求が他者を虐げ、他者から収奪する行為へと人を駆り立てる。
相互的な権利の不可侵が実現されるには、公正としての社会正義が生まれながらの環境において整備されていなければならないが、それを達成する具体的政策についての論議は突き詰めることが難しい。



過ちを改めるに憚ることなかれ

他人の過ちを見つけるのは簡単だが、自分の過ちを見つけるのは難しい。
実際、私達は、穀物の粒をふるうようにして、他人の過ちは細かい笊にかける。
ところが、ずるい賭博者が都合の悪いサイコロの目が出そうになったらうまく誤魔化してしまうように、自分の過ちはそっと隠してしまおうとする。


苦難を消尽する果てしなき渡河の旅路

どうやって激流を渡るのですか?
どうやって海原を越えるのですか?
どうしたら苦しみは消え去るのですか?
そして、どうしたら穢れることなくいられるのですか?

これらの問いに、世尊は次の詩をもって答えられた。

信によって、激流を渡るのである。
努力によって、海原を越えるのである。
正しい認識によって、苦しみを消し去るのである。
そして、穢れを去るには、智慧によるのである。

敬虔な信仰心とは無縁の私ですが、早朝の陽射しを浴びながら釈尊の言葉に触れることもまた悦ばしきことです。
宗教教義としての仏法を離れても、世界を解釈する正しい認識や生を豊かに彩る智慧を集める営みの大切さ忘れずに日々の生活を楽しんでいければ良いと考えたりします。