批判・反論と罵倒・中傷の違い

http://ap.bblog.biglobe.ne.jp/ap/tb.do?newsid=932f9603b4

批判・反論と罵倒・中傷の違いを理解できずに、時々、激しい罵りあいになったり、議論が打ち切られたり、お互いに不快感を味わったりする。
批判・反論というのは、相手の書いている文章の文脈や内容に沿って『相手とは異なる主張』を『様々な根拠をもとに』行うものだ。
その根拠が客観的でなく主観的であると、説得性や正当性が弱いと大多数の人に評価されるし、相手の書いていない事柄に対して反論や批判をしても『論点がずれている』と指摘されて相手にされないだけであろう。

また、初対面の相手に対して反論をする場合には、それなりの言葉遣いや露悪的ではない態度を考えなければならない。
いきなり、初対面の相手から、横柄な態度で説教のような語り口で異論を述べられれば気分を害してしまって、意見そのものの真偽をそっちのけに人間性への嫌悪感や怒りをもとにした感情的な言い争いに発展しまう可能性があるし、反論する側も本当に建設的な議論を望んでいるのならば、不必要に権威的であったり、相手を劣等視して軽侮するような無礼で粗野な言動を取るべきではないだろう。

公共の空間でなされる反論は、なるべく客観的で論理的であることが求められるし、相手の書いていない事柄に対して非難しないことが最低限のマナーとして求められると思う。
反対に、曲りなりにも公共のインターネットの空間で文章を公開して、『コメントやトラックバックを受け付ける設定をしている』ならば、ある程度の異論や反論を受け付けて、それに適切な反応を返す精神的な器量の広さや鷹揚さを持って欲しい。また、自分とは異なる考え方や判断をする人の意見を、自分なりに吟味して判断し、反応する文書を考えることは、時間さえあれば、割りに楽しいものだ。

また、個人運営のサイト上での議論や異論を含む対話の際に問題になるのは、適切な文脈に従った批判・反論・異論を一切許さずに、『私の意見に反対する人は、誹謗中傷に該当するので立ち入り禁止』とする自己愛的な偏狭さだと思う。しかし、この場合でも、特別に社会的に有害な影響などがない他愛ない意見に対する反論の場合であれば、いったん相手から議論を拒否されれば反論しないのも一つの作法であると考えることは出来る。

時々、議論する必要のない個人的な趣味嗜好を過激な言葉で否定して批判しているケースなどがあるが、こういう原理的に結論のでない『個人的な好き嫌いの別』に関する議論はできるだけふっかけない方が良いと思う。
例えば、『私は芸能人の○○が好きです。』『彼氏がこうこうこういう性格で冷たいんだけど、私は好きな気持ちを抑えることが出来ないのです。この間、一生懸命バイトしたお金でブランドものの洋服をプレゼントしちゃった。』とかいう個人的な感情や選好(好き嫌い)に関する日記や意見に反論や批判をするというのは、広義の嫌がらせの部類に属するとも言えるでしょう。

議論するに値する社会的な問題や政治経済についての意見、倫理的判断に関する事柄、学問的営為や研究についての言説などを題材にして自由闊達な批判や反論するのは好ましい。
ただ、本人が反論の応酬を好まない場合に、客観的な議論にふさわしくないテーマ、論理的な根拠を提示できない個人的な趣味嗜好についての議論をすること、不毛であり、お互いに喧嘩別れの形になることが多いですから、実に非建設的です。
そもそも、議論そのものは、相手が異論や反論をしっかりと理解してくれて、それを一時的に受け入れながら適切な反対意見を述べるという作業をしてくれなければ成り立ちません。

議論するに足る相手と、人格的な中傷や暴言を控えて、じっくりとテーマに沿って有意義な議論を行うというのが一番でしょうね。その中で、参考になる意見を聞けたり、新たな知識や事項を知る事が出来たり、批判や反論から自分とは違った面白いモノの見方や考え方を発見する事も出来るでしょう。
初めから議論を放棄している相手に、一方的に攻撃的な批判を為すのはやはり嫌がらせや罵倒に堕しやすいし、第一、聞く耳を持たない相手と話していて面白くないと思いますし。

遺伝子組み換え

Yahoo!ニュース―社会―
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040726-00000033-kyodo-soci

フランス南部トゥールーズで、環境保護政党やジョゼ・ボベという指導者が中心となって、研究用の遺伝子組み換えのトウモロコシを引き抜いて抗議したそうだ。

遺伝子組み換え食物の問題には大きく二つの観点があると僕は考えている。一つは、『人間の健康に与える影響』であり、もう一つは『生態系の秩序に与える影響』である。
前者、人間の健康に与える影響については、多くの生物学者や遺伝学者は『心配ない』と主張していて、その根拠は遺伝子や遺伝子の働きによって産生されるアミノ酸やタンパク質は消化されるからというものだ。

その根拠が有効である為には、『新たな遺伝子を組み込む前の食物の安全性』が確立されていることと『遺伝子組み換えで出来た食物の成分検査』を行うことが欠かせない。もちろん、市場に出回っている遺伝子組み換え食物には全て厳しい成分検査が行われているとされている。
厚生労働省の安全検査、成分検査、消化可能検査を信頼する限りにおいては、遺伝子組み換え食物に危険性はないと言えます。

えっ、毎度、問題を起こしている厚生労働省が実施する検査が本当に厳格に実施されていて、業者や専門家が誠実に検査結果を報告しているか信じられないですって(苦笑)・・・確かに、全ての物事に対して絶対確実、絶対安全とはいえませんから、そういう疑念や懸念が強い人は無理せずに『遺伝子組み換え食物は使用していません』と明示している食品・加工品を購入なさることをお薦めします。それが嘘だった場合は、うーん、回避しようがありません。企業倫理を高める努力を企業のみなさんは怠ってはいけないという事ですね。
そして、数十年が経てば、遺伝子組み換え食物を食べ続けた人にどのような変化があるのかあるいはないのかを確かめる事で、実証的な臨床検査が自然と出来る事になります。

ただ、理論的な思考に基づけば、タンパク質は胃腸によってアミノ酸や小さな分子に分解されて、再び自分の遺伝子の指令によってタンパク質に再合成されて血肉になったり、骨になったり、栄養になったりします。
遺伝子組み換え食物そのものが過去からずっと人間に食べられてきている食物であり、その遺伝子組み換え食物から有害・有毒な成分が検出されず、胃酸を中心とする消化酵素(アミラーゼとかリパーゼとか)で消化されるタンパク質・成分である事が確認されれば、理論的には人間の健康に与える悪い影響はないと判断することは出来ます。
それでもなお不安だ、危険性があるかもしれないと考える気持ちは心情的には理解できます。そして、それは自然の食物が安全で最高という価値観に基づいていて、人工の技術によって制作された食物は自然よりも劣ると考えている事でもあります。

自然である事、自然の摂理に従って生きる事を善いと考えるならば、確かにバイオテクノロジーや先端医療技術は自然の摂理に逆らったり、改変しようとしていますから悪い事となるでしょう。
それは個人の価値観の自由だと思います。

バイオテクノロジーの一つである遺伝子組み換え食物というのは、極端に合理化した技術であり、改良にかかる時間や手間を省略した品種改良という事が出来るでしょう。
バイテクにしても、品種改良にしても、その目的は、『安全性の上昇・美味しさの上昇・収穫量の増加・生態系への適応』であるべきだと思います。

しかし、一番、懸念されるのは人間の健康への影響よりも『自然界の食物連鎖による生態系の秩序への悪影響』です。これは、害虫が決してつかない遺伝子組み換え食物や病気に絶対かからない遺伝子組み換え食物、外敵が極端に少なくなる遺伝子組み換え食物を作ることで起こってくる事になります。
今まで、その食物を食べる事で生存を維持していた昆虫や動物がその食物を食べられなくなる事で、著しく数を減少させた場合、その虫や小動物を食べていた上位の階層の動物や虫たちも数が減ったり絶滅したりします。
人間だけしか食べられない食物といった形で植物の遺伝子を改変して組み替えることは、最終的には生態系全体のバランスを崩す恐れがないとは言えません。
それでも、人間が必要な家畜だけは確保して牧畜をすればいいという考え方もあるでしょうが、やはり、自然に生きる野生動物の生存を無視したバイテクや自然破壊につながる開発は出来るだけ少なくしたほうが良いという価値観にも一理あると思います。それは、野生動物たちの利益だけではなく、最終的に人間が生存可能な地球環境を維持していくことにも貢献する可能性が多いにありますから。

遺伝子組み換え食物は、今後、ますます私達の日常生活に意図せずして多く入り込んでくる事でしょう。
その人間に対する安全性と自然環境へ与える影響について、僕たちは厳しい監視と評価の眼を向けると共に、正しく監視できる為の正しい科学知識を持つように努力していかなければならないと思います。

少し前にサントリーがバイテクで作った綺麗な青い薔薇がありましたが、こういう技術利用にも賛否がありますね。
僕個人としては、単純に今まで見た事のない色合いの美しい薔薇に見とれてしまいましたし、観賞用植物で他生物に害のない種であれば青い薔薇のような試みは面白いと思いました。