ミルの『自由論』:1

J.S.ミルの自由論を読んでいるので、とりあえず『自由論:1』と題して、時折、暇のある時にいろんな感想をアップしていこうかと思います。
ミルの『自由論』序章には、権力と自由との闘争が示されています。
自由とは、政治的権力者からの圧政や暴政に対する保護を意味するとミルは言っていて、ミルは、マルクスのように支配者階級・権力者と被支配者階級・民衆を二分法で分けています。
更には、権力者が不条理な権利侵害を民衆に対して行うならば、民衆はその権力者を打ち倒す反抗や反乱の権利を持つという事も、強引にこじつければ共産党宣言ブルジョア階級の打倒と似ていないでもない。

しかし、最も重要なのは政治権力の抑止手段として憲法を作成して公布するということでした。
19世紀的な自由主義者の理想は、立憲政治の政治体制だったともいえるのだろう。時代が流れるにつれて、権力者も単なる代替可能な行政官僚になっていくわけだし、人の権威や権力は、法の下の権威や権力に塗り替えられていく。

そして、権力の保持者は、世襲ではなく選挙による民衆の代表者となり、その権力も一時的で制限の多いものへと変質していく。
つまり、権力者は永続的な特権階級ではなく、流動的で暫時的な『国民の代表』となった。国民の代表というからには、権力者自身も国民であり、他の国民と同様に税金を納付したり、法律に従ったりする義務を負うわけです。

権力は『所有』されるものではなく、国民から『委託』されるものに変わったと言えるでしょう。
ここに至って、支配者階級・被支配者階級といった階級闘争的な政治観は時代の遺物となり、国民自らが国民を指導し規制するという民主主義社会へと進みます。
飽くまで、これは社会モデルとしての理想論で、現実と食い違っている部分は多々ありますが・・。

民主的国家(共和国)が増大してくるにつれて最大の懸案となったのは、『多数者による少数者の抑圧』でした。
ミルは、この事を『民衆の一般意志と呼ばれるものは、実際には民衆の中で最も多数を占める意志、最も活動的で意欲的な人たちの意志、多数派の意見だと思いこませる事に成功したものの意志になる』といった内容の表現で指摘しています。
民主主義社会で最も警戒すべきは『多数者の暴政』であり『多数者の誤謬』であるといってもいいんじゃないかと僕は思います。

それでは、続きはまた近い内に書きます。