社会病理としての自殺急増

毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/column/shasetsu/news/20040725k0000m070118000c.html


昨年の自殺者が全国で3万4427人を数え、史上最悪となったことが警察庁の調べで分かった。自殺者数は6年連続で3万人を超え、中高年ばかりでなく少年層でも急増した。地方都市が毎年一つずつ消滅するに等しい自殺の多発は、異常と言わざるを得ない。個人の問題に帰さず、社会病理として国を挙げて防止策に本腰を入れねばならない。
            ・・・・【中略】・・・・    
景気回復の兆しが見えたとはいえ、長かった不況が自殺者の増加に大きな影響を与えていることは間違いない。行き過ぎた消費性癖やパチンコなどのギャンブル人気を背景に多重債務者が増え続け、自己破産申請者が24万人を数えたり、その予備軍が200万人はいるといわれる世相との関係も重視しなければならない。また、「勝ち組・負け組」といった流行語に象徴されるように、いつの間にか人生を勝負事や他人との競争とはき違えるような風潮が広がっていることが、人々の失意や挫折感を増幅している面も否めない。

人間の死に方には種々様々あるが、自殺で自らの生を終結させてしまう事は、本人も辛くて苦しいのだろうが、取り残される人たちは自分が生きて相手の死を認識できるだけに一層悲しくて虚しい。
人間は『何の為にといった特定の目的に沿って生きているわけではない』が、一回限りの有限な人生を『今、ここで』正に生きているのだから、どんな苦難や困窮があろうとも自然に死ぬまでは生きてみるという考え方で肩の力を抜く事が必要なのではないだろうか。

人生に勝ちも負けも無い事くらい、ある程度の年齢を生きれば気付ける筈なのに、それでもなお単純な二項対立的の人間観にこだわって『自分はどうせ負け組だから生きていたって仕方がない』とあっさり人生を諦めてしまうのは何故なのだろうか?昨今は、10代、20代の自殺者も増加していると聞く。
人生を諦められる達観を生命を維持しながら社会を批評するくらいの境地に引き上げられないものか。また、経済的困苦に陥るほどに、パチンコ、競馬、競艇などのギャンブルにのめりこみ依存する人たちが多重債務者となる悲劇も後を絶たない。

人間の人生なんて実にシンプルなものだ。
肩肘を張って他人を蹴落として成り上がるというような俗物根性丸出しで生きるのも良いが、自分にも他人にも優しい生き方というのは自分と家族を養う程度の最低限の収入を得て、読書や学問、芸術鑑賞、魚釣り、山登り、ドライブ、ウォーキングなど『お金のかからない楽しめる趣味』を一つ何でもいいから見つけることだ。
お金がない、お金がないと不平不満を言う人間に限って、ギャンブルや夜の街での遊興など本来必要のないお金をばら撒いていることが多い。
やはり、子どもの頃からの教育やマスメディアを中心として与えられる画一的な経済中心の価値観に多くの人はどっぷりと浸かってしまっているのかもしれない。

そんな時代だからこそ、自分や家族の衣食住は賄いながら健康で文化的な生活を送り、無意味な浪費から遠ざかって、雑然とした町並みや人々をぼんやり眺めるようなスローライフもいいのではないだろうか。
自殺願望や希死念慮は、重度のうつ病精神分裂病回避性人格障害境界性人格障害(ボーダーライン)、解離性障害などの精神疾患の一症候として見られる場合もあるが、それらの精神疾患薬物療法心理療法とは別に、十分な精神的休養をしながらの認知の変化とスローで余裕のある生活への改善が必要になってくる。

経済的困窮でもう死んでしまおうというあなた・・・勝っても、負けても、それは経済的利得の多少の差に過ぎないし、せっかく何かの機縁でこの地球この日本に生れ落ちた一回限りの珍奇な人生なのだから、生きるために必要な以上のお金ばかりを求める前に、自分と自分の大切な人たちと一緒に楽しみながら人生を過ごす独自の生き方や価値観を模索してみようじゃないか・・・。
確かに現代の日本社会は生き辛くて、世知辛い、義理も人情も随分と廃れてしまった、道徳観も公共心も過去の遺物となりつつある。
でも、こういう流動的で浮遊する歴史の流れの中でこそ、自分という存在の感動的な神秘を深く認識し、家族・恋人・友人と過ごすかけがえのない無二の幸福な人生を味わうことで、主体的に人生をより意味のあるものにしていくことが出来るのではないだろうか?