カントの定言命法と一般的な道徳観

道徳とは、人間の行為の善悪を区別して判断するものであるが、道徳規範が人間の行為の全ての領域に及んでいると考える立場とそうでない立場がある。
道徳的であるという事は、どういう事なのだろうか。

インマヌエル・カントは、理性の普遍的な命令である『定言命法』に従って行為する事が正しいと考えた。
定言命法とは、『汝の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ』という理性の命令のことである。
『格率』というのは『主観的な個人の行動指針』を意味する。

カントというのは、現代的な価値観から考えればかなり厳格で融通の効かない道徳観を持っていると言えるだろう。
彼の善の基準、正しさの尺度というのは感情に依存するのではなく、理性の命じる普遍的な法に従属するものだからだ。

よく引き合いに出される譬えに、カントが病気になって病院に入院したので、友人がカントの身体を心配してお見舞いに行った時に、カントが『何故、君は僕を見舞いに来たんだい?』と問いかける。
友人は何の迷いもなく『私は君と長い付き合いのある友達だから、君が病気になったと聞いて君の体調が心配になり、是非、君の顔が見たいと思ったからだ。出来れば、君を勇気付けて、少しでも早く元気になって欲しいと考えたからだ』と答える。

すると、カントは『君の行為は道徳的に間違っている』と冷然として言い放つ。『何故なら、道徳規範とは、感情的な同情だとか愛情だとか友愛だとかに基づく規範ではなく、万人がそうすべきであると判断される普遍的な立法の原理に基づく規範だからだ。つまり、感情による行為は道徳的ではなく、理性による行為こそが道徳的なのだ。今、君が見舞いに来ているという行為を例に取るならば、君は僕個人を心配して励ましたくて見舞いに来たというのでは道徳的に心もとない。君は、親愛なる友人知人家族が入院した時には、その人は見舞いにいくべきだとする普遍的な立法に従属してここに来たというべきであったのだ』と。

これは、一般的な道徳観や人間的な感情からは容易に同意できない事柄ではなかろうか。
普通は、『みんなが守るべき道徳の規則があるから、それに従ってお見舞いに来たのだ』と主張するような友人に対して僕らは奇妙な感じを受け、冷淡で思いやりのない人格を想定するだろう。
そして、『僕は君の事が心配で心配で夜も眠れなかった。だから、こうして朝一番に君が入院している病院へ大急ぎで駆けつけたんだ。元気そうで良かった』と感情を交えて自らの行動を語ってくれる友人こそ人間的な感情に溢れた道徳的にも素晴らしい人間だと評価するだろう。

ただ、ここでカントの思想を弁護させて貰うならば、カントの構築しようとした道徳理論とは、絶対的で普遍的な例外のない道徳規範を定言命法で指し示すものであった為に『感情・人格・情況・立場』といった相対的で流動的な要素に道徳の根拠や基礎を置く事を嫌ったという事が出来るだろう。

こういうカント的な道徳観は倫理学という哲学の一領域においては取り立てて異常なわけではなく、『自分の格率が普遍的に誰にでも当て嵌まるように行為せよ』という原則を『普遍化可能性』という概念で呼んだり、道徳的な善悪判断は『いつも〜せよ。〜してはならない』という命令の形で与えられるという事で、そのことを『行為規範・道徳規範の指示性』という形で呼んだりもする。

カントは、人間感情・人間性よりも道徳規範という普遍的な善悪を分別する法律を上位におき、その法律は自分自身の理性によって自律的に立法しなければならないと説く。
それに対して哲学者でも倫理学者でもない一般的な僕たちは、道徳規範という普遍的な法律を尊重しながらも、それよりも人間感情・人間性を上位において日常生活を送っている事も多い。

法の下の平等を前提とする法治国家の現代民主主義国家群においても、刑法規定においてカント的な『定言命法』の立場を取っているものは少なく、同じ殺人でも、殺人に至った動機や経緯、情況などによって刑罰の量刑に加減が加えられます。
それが、急迫不正の事態に対する緊急避難としての正当防衛概念や止むを得ぬ事情や心情を考慮しての情状酌量概念に繋がっていると考えられます。
司法判断では、罪刑法定主義が前提ですが、その量刑を判断して判決を出す時には、人間感情や人間性が大きく影響しているのです。
快楽殺人で、自らの生理的欲求や嗜虐趣味を満たす為に連続殺人を犯した犯人と、長期間にわたる怨恨の為に殺人を犯した犯人、犯人からナイフで襲われて防衛しようとする意図の下に誤って相手を殺してしまった人の、主体責任や倫理的な善悪の判断に大きな違いがあると考えるのは現代においてはほぼ一般的な道徳観といえるでしょう。