新字新仮名と舊字舊假名(旧字旧仮名)

今、日本では簡略化されて省略された新字新仮名が用いられていて、常用漢字も全てそれに統一されている。
その為に、僕たちは、明治時代の文学や昭和初期の新聞雑誌などを目にすると、それを読解するのに非常な困難を覚える。
複雑に込み入った文字が多く、現代ではとても簡単に改変されている『処』『当』『旧』などの文字も本来は『處』『當』『舊』というようになかなか重厚感と含意のある文字だったことを思わされる。

新字新仮名を導入した最大の理由は、難解な文字を覚えたり書いたりする無駄な手間を省くためである。つまり、日本・中国など限られた地域でしか使用できない漢字を習得する負担を減らして、その他の分野の学力を高めて、経済活動も効率化し国際競争力を高める為に、不要なまでに複雑な漢字を簡略化・省略表記することが求められたのだ。

もちろん、僕も新字で漢字を習得した若い世代に入るから、旧字旧仮名の大半は読むことは出来ても、正確に書けるかどうかは微妙である。

また、戦後の極端な意見には、漢字を全廃して欧米のアルファベットのように表音文字だけに統一すべきというものもあったらしい。これと同じ文字改革はお隣の朝鮮半島で行われた歴史がある。つまり、漢字の全廃によるハングルの採用である。
これは直截に言えば、文化的衰退と知的頽廃を招く悪しき文字変革であると言わねばならない。
何故ならば、漢字は表意文字であり、表意文字には国家・民族などの悠久の歴史が刻まれていて、日本でいえば漢字を全てひらがなやカタカナにするような変革を意味するからである。
人間の思考は自国語の音声言語と文字言語に依拠しているという事を、決して忘れてはならない。

日本語の論文でも新聞でも小説でもいい・・・文章を少なからず愛する人であれば、漢字のない日本語は読みにくく、意味を取り難く、味わい難いということがすぐに分かる。
つまり、漢字を喪失した日本語は、生命のない抜け殻の身体のようなものであって、日本語本来の生き生きとして情緒のある感触がなく、漢字によって意味のイメージを膨らませる事が全くできない無味乾燥な代物に過ぎないということになる。
生まれてから一切の漢字を覚えず書かないならば、日本人の知的水準は著しく下落するであろう、それは頭の中から引き出せる文字が全てバラバラの音素の集まりである平仮名しかないからだ。

『整然・せいぜん』『静謐・せいひつ』『悠久・ゆうきゅう』『高貴・こうき』『節制・せっせい』『縦横無尽・じゅうおうむじん』『乾坤一擲・けんこんいってき』・・・日本語は平仮名で表記したのでは、どのような言葉でも生命が抜けてしまい、ふにゃふにゃの無意味な表音文字の羅列になり拙劣なものになってしまう。

また、旧字旧仮名のように厳格なものではないにしても、新字新仮名が守るべき最後の言語的生命とは『漢字の表意性』であると僕は考えている。
現代の言葉の問題点の一つに、若者を中心に『書き言葉:文語』と『話し言葉:口語』の区別がなくなっているということが挙げられる。
例えば、『そういう人たち』を『そーゆー人たち』と表記したり、『通ります』を『とーります』、『超越』を『ちょーえつ』と表記するなどの例である。

まぁ、僕は、言語は生き物で変化するものという考え方に共感を覚えないではないんだけど、余りに過去との連続性を喪失して、文字の持つ表意性を台無しにしてしまう形の変化を主流とするのは問題だと考えたりする。
日本語というのは、伝統言語であって、エスペラントのような人工言語ではないのだから、歴史性とも深く関係しているし、文字や文法そのものは原理的変更を施す事は出来ないはずなのだけれど・・これから日本語の漢字や言語がどのように変わっていくのかは若干の恐れと共に楽しみな面もある。。