古代哲学における存在と非存在

ソクラテスプラトンといった西欧古代の哲学者たちは、『存在・あるもの』を永遠普遍にあるもの、変化せずにいつまでも同じ姿形をした実在として認識していた。

自然に対する科学的な学問の体系化を意図したアリストテレスなどは、『不動の動者』という概念を創出して『存在の本質』を抽出しようとしました。
不動の動者は、後世のキリスト教的価値観の影響が強まったヨーロッパ世界では、全知全能であり永遠普遍である『神そのもの』を意味すると考えられたりもしました。

科学的知識や情報が増大した現代社会に生きる私達でさえ、『永遠に生成消滅せず微塵も変化せずあり続ける存在=不動の動者』といえば、果たして何を意味するのか全く分かりません。
やはり、単純率直に考えて答えを出せば、『この世界には存在しないもの・この世界の枠組みの外部にあって超然としているもの=神・仏・超越的絶対者』を不動の動者として想像し、物語的な空想の産物の次元でそれを承認することになるのでしょう。

不動の動者は、別名『第一原因』と称されることもあります。
第一原因とは、それ以上原因を遡る事の出来ないこの世界の究極的な根源的原因の事です。
世界のあらゆる現象や事物を生み出した究極的な原因のことを第一原因といい、これはキリスト教イスラム教などの一神教の宗教では『神』そのものを意味します。

こういった形而上学は自然科学の徒からは、物的根拠や具体的証拠を提示できない非建設的な言葉遊びとして退けられますが、実は私達人間が『もっとも不思議に思い、知りたいと思う問いはこうした経験的感覚を超えた形而上学の中にある』のかもしれません。

この宇宙や世界がどのようにして存在を開始したのか、『存在する・ある』とはどういう事なのか、時間と存在とはどういう関係にあるのか、それは自然科学による研究方法では原理的に解明できない最大の謎です。

古代ギリシャやローマの哲学者や思索家たちは、存在を実在=絶対確実なあるものと定義して、この世界で生滅する全現象の究極的な根拠を不動の動者のような永遠普遍の存在と考えました。

存在するものと存在しないものの境界線って実に曖昧ですね。
『私は確かにこの世界に存在している』と私は思いますが、私やあなたの存在は有限の時間に限定された儚いものでもある。
苦しみ多ければ自己存在を否定する人もいて、喜び多ければ永遠無限の生命を欲望して自己存在を強固に肯定する人もいるわけです。
私が思うのは、存在は人間の自由意志と完全に無関係なものではなく、生きる意志・認識する意志と緊密な連続性や関係性を持っているのではないかということです。