正しさの判定

人間は様々な事で意見を対立させ討論をし、あるいは論戦や闘争をするけれど、私達が断定的乃至確定的に判定できる正しさって実は『感覚的事実・経験的事実』に関することだけなのかもしれない。
目で見えるもの、耳で聴こえるもの、肌で感じるものといった人間の感覚器官で知覚できる対象については、ある程度の確からしさで正しさを確認できるのかもしれない。

しかし、私達人間がもっとも意見を異にして敵意をむき出しにするのは、原理的に正しさを明瞭に確定できない『価値の次元の言明』である。
それは、倫理や道徳つまり善悪に関する事柄、宗教的教義で定められた価値観に関する事柄なのだ。
そういう意味で、哲学の中の倫理学って興味深いのだ。
価値は相対的なのだけれど、その中で出来るだけ多くの人間理性や人間感情が同意できる価値の指標を論理的にあるいは説得的に探究する。それはある種の傲慢さやルサンチマンを孕みながらも独特の知的快楽を喚起する営みであり思索なのだろうか。

もちろん、知覚や感覚だって錯覚や錯誤を犯す可能性が大いにあり、いつだって誤謬や誤認の落とし穴が口を開けて待っているのだけれど・・。
客観的実在を否定して、現象や主観的認識しか存在しないという極端な観念論者の場合は、特に知覚される現象の確からしさに対して懐疑的なのだろうし。