孔子の言葉と温故知新の精神。学びの中にある悦び

人生において疑問を感じた時にふと孔子の言葉が聞きたくなることがある。
いや、単純な疑問であれば百科事典や科学書を紐解けばいいのであるが、孔子を読みたい時というのは、人生における方向性を対人関係の葛藤の中で見失った時、あるいは世俗的価値観の欲望に飲み込まれかけている時などに、孔子の峻厳で明快な道徳によって軌道修正したいと思う衝動なのかもしれない。

孔子の『論語』は、政治的な封建主義体制を支える価値観の基盤を説いたということで、現代においては批判的あるいは反民主的なものとして捉えがちなのは残念なことである。
確かに儒教道徳の中には、身分の差異や長幼の区別を重んじることで社会秩序と安寧平穏が保たれるとする封建制度や身分差別を擁護する考え方があり、そういった部分は時代錯誤なのだが、それ以外の人徳や修養に関する部分や知識に対する誠実な態度、合理的な思考の重視などは現代でも読むべき価値のある有意なものである。

孔子は、「予一以貫之:われ、一を以って之を貫く」と述べ、自らの生きる規範乃至指針が唯一の道によって終始一貫、貫かれている事を明らかに述べています。
現代は、社会構造が複雑化し、人間の人生の内容も個人差が大きくなっていて、価値観も無数に多様化していて、全てが相対化されている時代です。
確固とした私、明確な価値観、絶対的な人生の意味・・・そういったものは私達の日常生活や経済活動の中にはなかなか見出せません。
また、そういった事柄を言葉巧みに語り、世界や人生の本質や価値について普遍的な原理を提出するような者は、下手をすれば新興宗教の教祖や信者のように見られて警戒されてしまいます。

しかし、私達は多様化する茫漠とした価値観の中から自分が良いと思う価値観を選択して生きています、まぁ、意識的には選択していなくても無意識的に何らかの価値観や判断基準を採用しているのです。
「朝聞道 夕死可乎:朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」という孔子の説く道とは通常、「仁」を指すとされますが、それが仁であっても愛であっても力であっても私は構わないと思います。
自分自身の人生を『認識と実践と記憶の実験場』として、自分が全てを賭けても惜しくない、若しくは自分の人生を貫く道を洞察できたと思えるような『一つ』を見つけ出すことが出来ればいい。

孔子は、学ぶ事に途轍もない精力を傾けた人であり、自分自身の頭で考える事よりもまず過去の賢哲の知識を学ぶ事を重視しました。端的に言えば孔子は、温故知新の学徒と言うことが出来るでしょう。
それを象徴的に表現している論語の言葉が、
「学而不思則罔 思而不学則殆:学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ちあやうし」
「学而時習之 不亦説乎:学びて時に之を習う また説ばしからずや」
というものです。

生涯、真摯に学び続ける姿勢を維持できる人は、人生そのものに絶望したり倦怠することはないかもしれません。
自分よりも優れた人物の書物や言葉から学んで、自分の頭で考える事は、何も書物や他者から学ばずに、自分の経験や頭だけで考える事よりも、客観的で謙虚な態度であり、過去の歴史や知識を学べば過去に生じた同じ過ちを繰り返す事がないという意味で悲惨な破滅や無残な結末を事前に回避することが出来るでしょう。
最新の科学知識の学習と共に、温故知新の精神で過去の賢哲の声に耳を傾けることも必要だと改めて認識させられました。