ネット集団自殺の心理


皆野町、ネット集団自殺報道 ―毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2004/10/14/20041014ddlk11040123000c.html

インターネットの自殺サイトを媒介した自殺、自殺手段としての車内での練炭燃焼による一酸化中毒、閉塞した社会環境と絶望した個人、自殺サイトの法的規制に関する問題、若年層に蔓延する虚無的な雰囲気と労働意欲の低下、他者には理解の難しい特異な希死念慮、こういったテーマがインターネットを利用した集団自殺が起こる度に沸き起こり、専門家や有識者によって議論されてきた。
しかし、その議論の大半、テレビで報道される内容、専門家による青少年や自殺願望の解説は、不十分であり内容空疎である場合が多い。

それはそうだ、『自殺』というキーワードには独特の響きがあり、自殺の倫理的意義を根本的に掘り下げて語ることは人間の社会、人間の共同体にとってある種のタブー(禁忌)だからである。
視聴者の過半が、社会通念に逆らわないという意味での常識的な価値観の持ち主であり、精神障害の既往も知識もなく、とりあえず安定した職業に就き衣食住に困らず、側にいて相談に乗ってくれる温かい友人や家族に囲まれている日本において、『テレビ・ラジオ・新聞といった極めて公共性の高いメディア』で地位や立場のある有識者が、自殺の倫理的位置付けについて真正面から取り組む事は非常に難しい。下手をすれば、激しいバッシングや非難の電話が鳴り響き続け、専門家としての信頼に傷をつけるかもしれない。

『自殺は悪い』という倫理判断は、およそ人類の共同体に普遍的なものであるが、何故、自殺が罪悪視され、普遍的な悪性があると世間・社会の人から考えられているだろうか。

世間一般で、自殺を遂行しようとする人を抑止する為の定型句として以下のような言葉がある。

『死ねば全ての喜びや楽しみを経験することが出来なくなるので、生命を大切にしましょう。生命はあなた一人のものではありません、あなたが死ぬ事でどれだけの人が傷つき悲しむか考えてみましょう。人間の生命には不可侵の尊厳があり、地球よりも重いのです。あなたは今まで自分一人で大きくなったわけではないでしょう、あなたを育ててくれた両親の為にも自殺してはいけません。生きていればきっといつかは良い事もあるはずだから、とりあえず生きてください。』

自殺志望者の心理に自分を置いてみた時に、上記の言葉は何処か欺瞞に満ちていて、何処か空々しく聞こえるのではないだろうか。
これらの言葉に、自殺を思い止まらせる説得力や自殺願望を弱化させる共感的な理解がないのは、自殺志望者に向かって一人の人間として毅然として向き合う覚悟に欠けているからだろうし、自殺志望者以外の人の感情や利益の損害に重点を置いた説教になっていたり、理想的な理念や概念を振りかざして規範主義的な秩序の中に組み込もうとしているからだと思われる。

自殺者への的外れな同情や憐憫を語り続けたり、自殺した後になって後悔し無力を嘆いたりする事に自殺抑止・予防の効果はおそらくない。
『自殺は絶対にしてはいけないこと』という教条的(ドグマ)な倫理規範を、道徳教育として何回も教え込むことも殆ど無力だろう。何故なら、自殺は原則としてはしてはいけないことというのは、自殺をする人にも十分に分かっているからである。
分かった上で、倫理規範という共同体のルールよりも個人的な苦悩や絶望を優先せざるを得ない心理状態に陥っている。

出来うる限り自殺を事前に防ぎたいと思うのは、生きる欲求を持つ誰しもに共通する普遍性を持つ共感であり情緒である。
では、どのようにすれば、自殺者の心に響くコミュニケーションをとれるのだろうか?
無論、この質問に単一の正しい答えなど用意されていないし、個人個人、様々な死にたい理由や思いがあり、精神状態も異なっているだろうから個別的な対応や意思疎通の方法を考えていく必要があるだろう。


ただ、一つ言えるのは、社会の常識や倫理の規範や他人の感情といった自殺者本人の苦悩や悲しみと無関係なところに論点を置いて論理的に説得することは殆どうまくいかないということです。
自殺したいと考える人の話が、どんなに理解不能、共感不能な事柄であり、話を聞いている自分の世界観や価値観と異なっているとしても、例え、議論で相手を言い負かす事が出来ても、とりあえず、相手の抱える自殺願望・希死念慮の内容とそれが産まれてきた背景に徹底的に耳を傾けて、相手の苦しみや痛み、怒りや不満、絶望や虚無感を少しでも理解し、共有する姿勢を見せる事が大切でしょう。

本当に自殺を決行する自殺願望者というのは、多くの場合、社会的関係から孤立し、情緒的人間関係からも切断され、自分の歩んできた人生そのものからも疎外されています。
世界や社会が何処までも暗く冷たく不条理であると感じ、同じ社会に生きている他者にリアリティが感じられず生命の価値も感じられない状況にあって、『同じ視線をもって社会や自己を語れる他者』というのは非常に希少で大切な存在です。
また、そういった『同じ視線をもって社会や自己を語れる他者=私を疎外せず共感的理解が可能な他者・社会とのつながりを媒介する他者』に、あなたがなろうとすればそれは生半可な覚悟や適当な同情心ではできないことであることも留意する必要があります。
それは、あなた自身も自殺志望者が抱える『暗い心の闇=蓄積された過去の負の経験とそれに付随する感情や無力感』の幾らかを分け持つこと、その闇を共同作業で少しずつ払いのけて、僅かな消えゆく希望の光を見出そうとする事を意味します。


「自殺」と検索するだけで、自殺サイトが簡単に見つかるインターネットの世界。電子掲示板には「いかに楽に死ねるか」「自殺したい理由」「自殺する仲間の募集」などの無数の書き込みがある。無限にも思えるサイバースペースをさまよい、お互い電子の糸をたぐり寄せ、閉じこもっていく狭い世界が垣間見える。

この新聞の記事にあるように、Googleで『自殺』のキーワードを打ち込み検索をかけると、948,000件のページにヒットします。
無限の情報が溢れるインターネット空間には、当然の如く、自殺に関する情報も他の情報と同じように膨大な数が溢れています。

本来、世界に無数に溢れる情報に自由自在にアクセスでき、その情報を娯楽的に消費したり、知識として獲得したり、同好の士を求めて楽しく会話できたりするという解放性・自由性がインターネットの醍醐味であり長所なのですが、反対に、膨大な匿名の他者との接触が可能である為に『自殺』というキーワードによって、同じ自殺願望を持っている匿名の他者と容易に出会う事ができ、自殺のみを話題にして話をすすめていけるという現実社会では殆ど不可能なことが簡単に出来るのです。
ただ、一つ注意しなければいけないのは、Googleのようなロボット型検索が拾ってくる約95万のページの自殺関連ページの90%以上は自殺志願者を結びつけるような出会いを目的にしたものではなく、ただ言葉として自殺の文字が入っているだけだということです。

文芸春秋のサイト掲載されている情報では、厚生労働省主管による「一般市民がアクセスできる自殺関連情報の実態に関する研究」では、厳密な意味での自殺関連サイトは13であり、その中で防止の為の注意が必要なのは4つに過ぎないと記されています。

私は、インターネットの一律的な情報規制には、言論・思想・信条の自由などの立場から反対ですが、真に自殺誘発や勧誘の危険性があるサイトに対して何らかの対応を取る事に絶対反対とまでは言えないという思いがあります。
しかし、自殺推奨目的でない自殺関連サイトが、自殺願望を持つ人に独自の閉鎖的なコミュニティを与える事で、それが生きる支えになっているケースもあると思うので、全てを強制的に規制・閉鎖すべきではないでしょうね。

そして、自殺とインターネットとの関係は、インターネットがあるから自殺願望が芽生えるという因果関係ではなく、自殺決行の最期の一押しをする可能性があるという程度の関係に過ぎません。おそらく、ネットにつないでいる人の中には無数の自殺志望者がいるでしょうが、自殺サイトを臨んでも実際に決行する人はごくごく僅かでしょう。

自殺サイトの情報規制によって自殺志願者が減少することは望めないでしょうし、本質的な問題の解決にはつながらないですね。
自殺の増加に対する不安感情の浄化をインターネットの罪悪視に結びつける短絡的な思考に陥る事無く、自殺志願者の心理的なケアを充実させ、社会に生きる一人一人が他者に対する関心や注意を深めていく必要があるのではないでしょうか。
誰もが生きる希望を失わない社会的な環境整備や制度作りを進めることも大切でしょうし、何より自殺志望者自身が、生きる意義を実感できるような方向へと認知を転換し、社会や他人との切断された関係性を自分の意志によって取り戻す事が肝要です。

自らの生きる意味を何度も何度も吟味し直して、他者や社会との関係に対する認知をうまく変えながら生きていく事は確かにとても厳しくつらいものですね。

漱石ではないですが、兎角に人の世は住みにくい。
しかし、『この世界には、生きる意味や価値ある素晴らしいものなんてない。』のは、現代社会では至極当たり前のことで、『私という存在が、この世界に生きる意味を創出し、存在を世界や他者に刻印するしかない。』のではないでしょうか。