コンピューター倫理学と倫理を解剖する愉悦


倫理学には、生命倫理、医療倫理、企業倫理、性倫理など様々な分野を取り扱うものがあるが、ダートマス大学のジェームズ・ムーア教授のコンピューター・エシックス(computer ethics)に関する論文が嚆矢になったとされるコンピューター倫理学という新しい分野がある。

コンピューター及びそれに関するテクノロジーとコンピューター以外のテクノロジーの本質的な差異が何処にあるのかを考察し、コンピューター利用の際の倫理的問題について研究する分野という事だが、一頃、盛んに言われたインターネットを利用する際の礼儀作法としての『ネチケット』の学問バージョンといった趣きもある。
勿論、コンピューター倫理学は情報倫理学の下位概念であり、一つの学問領域として独立しようとする過程にあるのだから、ネチケットといったネット内の対人関係の調整といった狭い領域に閉じ篭るものではない。
つい先日、日本国中の話題になった『ネット集団自殺』のようなコンピューター・テクノロジーが社会に与える影響や個々人の価値観や意識に与える影響、ネット独自のコミュニティ形成なども研究対象になるし、テクノロジーそのものの問題点を考える場合にはハードウェアやソフトウェアの内容や著作権のようなものも取り扱う事になるだろう。

情報技術(IT)の進歩が、私達にもたらした恩恵や利益は測り知れないが、ネットを中心とした広義の情報技術を利用する際の倫理的使用の指針・基準が明確ではないからその指針を打ち立てる為の基盤を論理的・専門的に組み立てようではないかというのが、そもそもムーアが提唱した新しいコンピューター倫理学の趣旨になっている。
コンピューターを使用する場合には、ネチケットや商品購入のような個人的な倫理問題もあるし、ハッキングや有害情報の発信、ウイルス作成・頒布など社会的な倫理問題もあり、その両面から考えていく必要があり、特に社会問題につながるような不正アクセス、ウイルスの作成、爆弾製造や毒物入手方法など有害情報の発信などに対して一般的な倫理指針を有効性のある形で確立する事が急務となっているようだ。

しかし、私もそうなのだが、コンピューターの分野は専門的な話題になると、知らない専門用語や概念が頻繁に出てきて、専門家以外の門外漢には理解そのものが不可能になるという大きな問題がある。
しかも、情報技術というものは、日進月歩で物凄いスピードで発展し変化しているので、新しい専門用語が増えることはあれ減ることがない。つまり、絶えず情報技術分野のトピックスにアンテナを張り巡らして、意識的にコンピューターに関する技術や用語を覚えていかないとすぐに流れから取り残されてしまうということだ。

また、複数ある行動の選択肢の中からどれを選ぶことが良いのかという行動指針の空白と共に、ムーアは『概念の空白(conceptual vacuum)』が問題だと言っている。
これに対する例示として、『コンピューター・プログラムの保護』の倫理指針を立てる際には、何を保護するのか、コンピューター・プログラムの概念を明確に定義しなければ、表現形態そのものを著作権で保護するのか、作成過程を特許権で保護するのかが明らかでないという例を挙げている。

アメリカでは著作権等の知的所有権に対する意識がとても強いので、こういったコンピューター倫理学の議論も経済的利益の保護を中心になされることが多いようだが、物事の本質的な価値や価値判断の根拠を問う倫理学の分野では、『知的所有権を保護することは正しいのか?ネット上の知的所有権とそれ以外の知的所有権の本質的差異は何なのか?』などを問い詰めていくことになる。

私が倫理学に関して面白みを感じるのは、複数の選択肢がある問題に対して『私は〜すべきだと思う。私は〜してはいけないと思う。』という対立的な意見(倫理道徳と呼ばれる行為規範)に、その個人が持つ理想的世界観や価値判断の基準としている選好などの『価値に関する個性的な見解』が現れるところだ。
聖書やコーラン、神や皇帝といった絶対的な価値の源泉をもたない一般的な日本人においては、価値は相対的で流動的なものですが、一人一人何かに対する意見を求められれば皆それぞれの根拠や理由を持って異なる答えが返ってきます。

例えば、『結婚は、幸せにつながるものだと思いますか?』『高額の給料を貰って余暇の少ない生活と平均的な給料を貰って余暇の多い生活はどちらがいいですか?』『環境保護の為に経済活動を抑制すべきだと思いますか?』『不特定多数との性交渉は悪いことですか?』といった質問に対して、みんながみんな同じ答えをするわけはなく、それぞれの根拠を元に様々な答えが返ってくる事でしょう。
『善・悪』『良い・悪い』『〜すべきだ・〜すべきではない』という命題で表されるのが、価値を扱う倫理判断の特徴ですが、倫理を語る際には『AするよりもBしたほうがよい・理想的な人間観や世界観に基づいていたり、現実的な利害計算や本能的欲望に基づいたりしながら、ある行為がそれ以外の行為よりも良いと私達は判断します』という意味での普遍的妥当性が含意され、『〜しないのは間違っている』という指示命令性の要素も持つので、倫理を語る時には自分と異なる倫理観を持つ相手と意見が衝突して収拾がつかなくなる場合も多くあります。

また、倫理を巡る議論を通して、冷静に自己と他者の見解や判断の相違を分析して、倫理判断の本質的根拠を把握しようとする態度を持てることが倫理学には最も大切ですし、そういった人は誰とでも大きな対立や衝突を回避しながら議論を進めることが出来るかもしれません。
倫理にまつわる異質性や対立性を排除せず、自分が不道徳で許せないと思う判断が何故、許せないのかを深く徹底的に考える事に倫理の源泉を探求する際の醍醐味があると思います。
倫理学は、そもそも誰かの悪い行為を戒めたり、矯正したりするお説教とは無縁の学問分野で、善悪分別の根拠を論理的あるいは感性的に深く掘り下げて考えてみて、私達の道徳感情の起源を遡行してみるものです。
誰もが当たり前だと考えている常識的な善悪や正義を疑ってみるという意味では、不道徳な趣きや快楽さえ持つものなのです。

コンピューター倫理学の話に戻ると、私が興味を持っているのはやはりインターネットに関する倫理指針や倫理的判断の根拠ということになりそうです。
インターネットにおいて、従来の倫理規範や行為規範といった価値基準が適用されにくいのは、まずインターネット利用者の匿名性が大きな前提条件としてあり、更に全地球的規模でグローバルなアクセスが非常に簡単にできるアクセシビリティの良さにもあるでしょう。判断力が十分でない年齢の子ども達が、興味本位に性や暴力に関する過激な情報にアクセスできてしまう事を大きな倫理的問題だと考える人にとっては、(大人コミュニティが有害だと考える意味での)有害情報へのアクセスを制限する情報フィルタリングの技術革新や容易なフィルターの設定変更などが議論の中心になるでしょう。
インターネットの世界における年齢制限はあってないようなものですが、その無制限な情報への暴露がメディアリテラシーの能力のない人たち(未成年者だけでなく情報に対する読解・批判・吟味の能力が未熟な人たち)に対して与える影響は考慮する必要があるかもしれません。

上記に述べたことは、無限の情報に容易にいつでもアクセスでき、匿名性を生かしたコミュニケーションをインタラクティブに行うことが出来るというインターネットの誇る最大の長所でもあり、また状況や利用者に応じて改善すべき短所でもあります。
インターネットを犯罪行為や社会的問題を起こす用途に用いることは、自分の手で自分の首を絞めているようなもので、せっかくの自由な無限の情報空間に無粋な政治権力による制限を持ち込むことにもなりかねません・・・。

いずれにしても、情報そのものには善悪はありませんから、それを読み解いて利用する私達一人一人が、メディアリテラシーを練磨し向上させていくことが大切になってきます。

今日は、個人の内面的な倫理道徳について中心的に述べましたが、現代の倫理では個人の内面心理の善悪判断は余り重視されず、法律や制度によって他人の行動を予測可能なものにして、社会構成員の利益につなげていこうとする『制度倫理』がリュトゲなどによって提唱されています。
制度理論とは、適切な制度を社会に導入して、個々人の利己的欲求を肯定的に認めることで、市場経済における経済活動によって倫理的な行為や結果が実現されていくとする倫理学上の立場を意味します。