性愛と恋愛を取り巻く科学的なリビドーと文学的なエロス


フロイト精神分析学体系の基盤には、性欲を駆動するリビドーがあります。
リビドーに関する一般心理学書には時々、『リビドー=性欲』という短絡的で誤解を招く記述がありますが、リビドーは私たちが日常生活の文脈で語る『心理的な異性(同性)とのセックスを志向する欲求』ではありません。
フロイト神経科の臨床医であり、世界の思想・哲学・芸術文学の潮流に大きな影響を与えた思想家でもあります。

フロイト最大の業績は臨床家としての『精神分析の体系化』にありますが、その中でも『無意識の発見』*1と『夢判断の着想』*2はユニークで創造的な仕事であり、それまでの伝統的哲学の一元論的な意識の心理モデルにパラダイム転換を迫るものでした。

無意識の定義は、自らの意志や注意の集中によって気付く事の出来ない心理領域ですが、無意識には二つの側面があります。
一つは心的構造論の『エス』に対応する『本能的欲求の坩堝』としての無意識、もう1つは意識できない自分の人生の痕跡であり『失われた過去の心的体験の貯蔵庫=意識領域に受け容れ難い外傷的な過去・自尊心を傷つける記憶』としての無意識です。

精神力動による精神病理学や心的発達理論、自我防衛機制、自己愛と全能感などフロイトの構築した理論で重要なものの多くには、エスから湧き上がるリビドーの充足と不満足が関与しています。
リビドーとは、神経系や内分泌系に由来する生物学的基盤を持つ性的欲動として定義され、快楽を求め、不快を避ける快楽原則に盲目的に従うものです。
リビドーは、食欲・性欲・睡眠欲といった生理的欲求の源泉であると共に、生体内の状態を常に一定に保つホメオスタシスや生物学的な自己保存欲求を実現する『生きるエネルギー』そのものです。
精神分析理論の文脈では、リビドーが異性愛へと転化したエロス(性愛)を生きる欲求として解釈し、それの対極に自滅的な死の欲求であるタナトスを配置します。

ただ、定量化されるリビドーをエロスの原因として、リビドーの充足をエロス的関係の目的とするような、『私の内的欠乏と内的満足で閉じた系』では現実場面でのエロス的関係や恋愛にまつわる苦悩や葛藤を十全に説明する事は出来ません。
それは、私たちが日常の感覚として持っている『恋愛・性愛関係をはじめとする人間関係は、科学的手法よりも文学的情緒』で語られるべきだとする価値の志向性とも重なってきます。

脳科学でセックスを語ると、『性的刺激を視覚に提示された結果として、脳内の性機能中枢でインパルスが駆け巡り、電気的な情報伝達活動によって性欲を喚起する信号が性器・性腺へと伝達され性行為が可能な生理的状況を引き起こすと共に脳内ではエンドルフィンやドーパミンといった快楽陶酔作用のある神経伝達物質が分泌され・・・』となりますが、恋愛感情にまつわる性行為の快楽や喜びを語るには適切ではなく、単なる神経科学や生理学の説明には『愛する他者との相互的な関係性』が見えません。

リビドーは科学的に語れ、ある仮説や理論に整合性を持たせて一般化できますが、エロスは文学的にしか語れず、一般化や普遍化を嫌う傾向があり、それぞれの個人が『私の恋愛』の個別性や特異性を強調します。

リビドーは、人間に画一的な生理的な欲求として処理されますが、エロスは、時には生きる意味や価値と同一視されるほどに精神内界において特別な地位を与えられます。
あるいは、穿った見方をするポストモダニズムの論客であれば『資本主義社会の大量消費システムを維持する原動力としてエロス(異性関係)が精神内界において特別な地位をもつように情報統制されている。エロス的充足を得る為に必要な財・商品・サービスの流通と消費は、エロスの共同幻想を持つコミュニティに依拠している。』といった見解を示すかもしれませんが、エロスが経済環境を形成する大きな要素ではあっても、エロスの特権性が現代社会に忽然と現れた訳では無いことは古代のギリシア神話万葉集の恋の歌などを見ても明らかであると思います。

確かに、近代的なロマンティック・ラブ・イデオロギーと古代的な素朴な恋愛を同一視できず、過剰な消費を促す情報が明示的にあるいはサブリミカルに横溢しているという指摘も分からないではないですが、ギリシア神話における恋愛の神エロス*3プラトンの『饗宴』において強く敬意を払うべき神として語られているように高い価値を古くからもっていました。

恋愛はそもそも性愛*4とは切り離す事が出来ない心理状態であり関係性なのですが、伝統的に強固な固定観念として『純粋な恋愛概念からは性愛を軽視しがち』です。
しかし、『プラトニックな深い精神的な交流が永続するというイデア的関係性』を最上位に置く伝統的な倫理的エロスは、現代社会では圧倒的な快楽性の性情報の氾濫によりその地位を幼児的な理想願望として追われることが多くなります。
もう夢見る少年少女じゃいられないし、現実的なドロドロした異性関係に踏み込むことこそが大人のあり方として支配的な位置を占めるようになると、『恋愛の聖性(イデア)』はスポイルされ『恋愛の俗性(リアリティ)』がマニュアル化されていきます。


情報通信技術が発達して以降の現代社会における恋愛様式は『物語性の廃棄と性のタブーの弱体化・対象選択の機会増大・結婚制度と恋愛関係の切断』に大きく影響されていますが、その影響は恋愛の魅力を減少させる方向に働き、『私の恋』の固有性や特異性の幻想を晴らそうとします。

恋愛の濃度は薄まりますが、頻度は高まることで、エロス的恋愛をリビドー的恋愛へと変容させている場合がありますが、人数や回数で語られるエロスは本来的なエロスではなく定量化可能なリビドーの文脈で語られていると私は考えます。
一定年齢で結婚する事の常識が弱まり、結婚にまつわるシンデレラ・コンプレックスのようなものも幻想的願望と退けられます。その結果として、社会通念による結婚圧力は弱まり、パラサイト・シングルなどのようなより自由度の高い物質的に有利な生活スタイルを志向できるというメリットもあります。

制限・抵抗なき自由には『実存の虚無』が宿るように、秘密・隠蔽なき恋愛には『日常の倦怠』が宿ります。
オカルティズムが、その魅力を『表の世界から隠された知』であるところからかき立たせるように、恋愛を彩るエロティシズムの陶酔は、その魅力を『日常から隠された非日常性』『衣服により隠された身体性』『倫理観・道徳心によって禁圧された淫靡性』から汲み上げ、恋愛の唯一無二性は『対象の固有性に繋がる深い理解』『リビドーや功利性に還元出来ない濃度の高い相補的な関係とイデア性』によって導かれます。

プラトンソクラテスの語ったエロスの本来の意味は『完全なる美への憧憬』であり、『自分の欠乏を満たしてくれる完全な相手への志向』でした。
エロスの身体的な側面が強調されているのが現在の性的な欲望につながっているのですが、プラトン自身はエロスを『精神的な美の憧憬』と認識し、それをphirosophia(哲学)と同質のものだと考えました。
永遠不滅の美のイデアへの憧憬を忘れがちな慌ただしい現代の生活の中では、エロス的な関係の身体性と精神性のバランスを取る事で日常の倦怠や欲求の飽満を抑制することが必要となってきそうです。

*1:無意識の存在は科学的な観察・実験といった検証によって確認する事が困難な為、精神医学の領域からはフロイト理論の非科学性の象徴として扱われたりもしますが、自分が動機や誘引を自覚出来ずに行為してしまう時や意識的でない錯誤や失錯の行為文脈において無意識的解釈は説得性のあるものです。

*2:夢で行った行為や夢に出てくる状況や事物の全てを性的欲求の代理満足や無意識的な性的願望の抑圧で説明する汎性欲論には懐疑的です。夢を分析するならば、心的な統合や成長を目的とした統一性のある物語的解釈や神話的洞察を行うユング派の手法や理論の方に共感を覚えます。

*3:エロス(Eros):エロスはギリシア神話において混沌の神カオスの子、あるいは美の女神アフロディテの子とされる。ローマ神話ではキューピッドと呼ばれ、射た者を必ず恋に落とす弓矢を携えた子どもとして描かれる。神であるキューピッドは誤って自分の胸を射て、絶世の美女である人間のプシュケに恋をする。プシュケは、psychoの語源でもある。

*4:恋愛感情の由来を遡れば、第二次性徴期の性腺の発達や性ホルモンの分泌など性欲を誘発する生物学的要因に行き当たるが、人間の場合には精神的な価値観やイデア的なロマンティシズム、社会環境的要因による美醜判断、経済的利害など複雑な変数が関与する。