『戦場のピアニスト』とナチスドイツの反ユダヤ政策


つい先日、『戦場のピアニスト』という実際の伝記に題材を取った映画をテレビで見たが、一人のピアニスト・シュピルマンの視点を通して、ナチス侵略下のポーランドの情勢と次第に生活領域を狭められ、ゲットー(ユダヤ人居住区)へと囲い込まれていくユダヤ人を派手な演出や誇張の殆どないリアリズムで描いた映画であった。全体に漂う静謐な雰囲気の中で淡々と冷厳なナチスの反ユダヤ政策が進行していき、幸福に暮らすユダヤ人達の家族は引き裂かれ、平穏な繰り返される日常は終焉を迎える。

アマゾンのレビューには以下のようにある。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000896HN/249-3115964-8046703


2002年のカンヌ映画祭においてパルムドールに輝いた『戦場のピアニスト』は、ロマン・ポランスキー監督が指揮することを運命づけられた映画である。幼少時代をナチス占領下のポーランドで過ごしたポランスキー監督こそが、ユダヤポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンエイドリアン・ブロディ)の自伝を映画化するに相応しい唯一の人物と言える。ナチスワルシャワ侵攻を目の当たりにし、死の収容所送りを奇跡的に逃れたシュピルマンは、ゲットーの廃墟に身を隠すことで第二次世界大戦を生き延びる。ナチスホロコーストを映画化したこれまでの作品とは異なり、主人公の視点から忠実に描写され、ポランスキー監督によって壮大なスケールで戦争を描いた奥行きのある叙事詩となっており、シュピルマンが希望を捨てずに粘り強く生き延びる様子と、彼が逃げ出すことを拒んだ街が徹底的に破壊される様子とを対比して浮かび上がらせている。一切の妥協を排して肉体的、感情的な真実性を追求することにより、『戦場のピアニスト』は希望と精神的純潔性の究極的な調べを奏でている。『シンドラーのリスト』と同様に、人間性の最も暗い部分を描き出した偉大な映画の中の1作である。(Jeff Shannon, Amazon.com


ロマン・ポランスキー監督自身が、ユダヤ人として第二次世界大戦を直接、体験者し、ナチス占領下のポーランドに生きた記憶を有しているが故に、『戦場のピアニスト』はその映像表現に装飾的な余剰がなく、戦争と反ユダヤ政策の事実を出来るだけ忠実に伝える事に終始している印象があります。
その為、この映画をエンターテイメントとして楽しもうとしたり、感情的カタルシスや歴史的なロマンティシズムを得る為に観賞しようとすると、ポランスキーの伝えたかったメッセージを受け取り損ねるばかりか、つまらない無声映画やオチのない戦争映画として無為に眺めるだけになってしまうでしょう。
暴力的な映像や残酷非道な事件に満ち溢れた現代社会において、『戦場のピアニスト』で描かれる視覚情報としての虐殺シーン(銃殺されるシーン)そのものは、目を背けるほどの悲惨さや残虐さを伝えるわけではありません。
また、私自身はこの映画のストーリーそのものに感動したり、興味を強く惹かれたのではなく、人類が戦争場面において陥る可能性のある『人間の物象化とファシズム的熱狂とメカニカルな統制』を反省的に現在の自分に投射する感覚でこの映画を見ました。
この映画の中で、シュピルマンシュピルマンでなければならない理由やシュピルマンがピアニストでなければならない必然性といったものは余りないように感じます。シュピルマンという実在したピアニストの生涯に関心を抱く方も居ると思いますし、そういったストーリーにはまり込む見方も出来るのですが、どうしても戦争事態における人間存在と人間心理、ヨーロッパと中東におけるユダヤ人という記号性に意識が傾くのを抑えられませんでした。

また、シュピルマンが主人公となる必然性は、彼がかつて実在し、ユダヤ人という属性を持ってナチスが猛威を振るう第二次世界大戦を実際に経験した事に尽きると思います。
フィクションとしての架空のストーリーでないことで、エンタテイメントとしての開放感やカタルシスの要素は相殺されたが、冷然たる戦争情況の進展においてのリアリティを確保することには成功している。

そして、スーツにネクタイを締めて文明社会に生きる洗練されたピアニストの姿からナチス侵攻という政治状況の急変により、物象化され伸ばし放題の髭とぼろぼろの衣服をまとう『受難のユダヤ人』へと転落するシュピルマンの視点から『喪失され麻痺する人間性と熱狂し陶酔するナチス(選民意識)』が描かれる。
ユダヤ人と言えば、旧約聖書によって証される神と単独で契約した民族としての選民主義が頻繁に言及されるが、その歴史の大部分においてユダヤ人の選民アイデンティティは逆照射されて排除や弾圧、差別蔑視の受難となって降りかかり、国家を持たない民としてディアスポラの果て無き旅路をダビデの星と共に歩み続けてきた。

ファシズムに熱狂するナチス第三帝国の暴走は、ヨーロッパ全土を支配圏においても収まる事を知らず、ロシア(ソ連)へ、イギリス本土へと帝国拡大の野心を滾らせる。
燃え上がるゲルマン選民主義は、反ユダヤの狂風となって吹き荒れ、歴史上類を見ない特定民族の不必要な大虐殺(ホロコースト)へと帰結する。
私が敢えて、ここで不必要だった大虐殺と記すのは、スターリンの大粛清や毛沢東文化大革命による粛清や日本の南京虐殺とはホロコーストは根底においてその性格を異にするからである。
スターリン毛沢東チャウシェスクなど共産主義政権下で行われた虐殺(粛清)は、思想統制を前提とする政権維持や支配体制強化の為の虐殺であったが、ユダヤ人虐殺は、明確な政治的利益やイデオロギー体制強化の基に行われたものではない。
歴史的な反ユダヤ主義を語る為には、ユダヤの宗教・歴史・慣習・社会的経済的地位などについて深く言及する必要があるでしょうが、また、機会があれば色々と考えてみたいと思います。

有機体的な意志を持つ国家と帝国主義の伸張の時代に翻弄される無力な羊としての個人、この映画の中では強制収容所ホロコーストの直接的な場面は出て来ませんが、加害者としてのナチスドイツ・ゲルマン人と被害者であるユダヤ人との戦中と戦後における社会的立場の鏡像的反転が印象的でした。
その反転の光は、現代のイスラエルパレスチナ問題までも長く射程に捉えています。