脳の機能局在説と『人間本性(ピュシス)』に宿る美徳


精神医学において、『二大内因性精神病』と定義されるのは、『統合失調症精神分裂病)』と『双極性障害躁うつ病)』*1ですが、何故、その他の精神障害である神経症心身症自律神経失調症などと区別されるのかという問いに本質的な答えを与える為には、おそらく神経科学(神経生理学や脳神経医学)などの知見の手助けを必要とするでしょう。

精神分析療法が対象にしたのは神経症であり、精神病ではない事を過去の記事(id:cosmo_sophy:20041101,id:cosmo_sophy:20041104)で説明しましたが、伝統的な精神分析による精神病と神経症の分類基準は『現実検討能力と現実認識能力の有無』と『患者の主訴としての症状・苦悩が健常者に共通理解可能な内容であるか』に置かれていました。
20世紀半ばに中枢神経系に効果的に作用するメジャートランキライザーが開発されるまでは、精神病を領域を特定可能な脳の機能障害と解釈する事は殆どありませんでした。
その為、フロイト精神分析が隆盛していた時期には、現実の現象や事物を正しく知覚できるか、想像している内容と現実に生起している内容との区別ができているかに重点が置かれていました。

最近では、『精神病圏を脳の病気、神経症圏を心の病気』と簡潔な分類をする傾向もありますが、この分類は厳密な意味では正しくありません。
それは、精神症状や中枢神経系制御下の身体症状において脳内過程が関与しないものなど存在しないと考えられるからです。
私が分類を試みるならば、内因性・外因性の脳(心)の病気が精神病であり、心因性の脳(心)の病気が神経症であるとした上で、統合失調症においては『脳の顕著な認知機能障害』を重視し、躁うつ病においては『脳の顕著な情動機能障害』を重視するということになるでしょうか。

ここで、少し精神疾患全般の話題から離れて、人間の医学的観点からの脳とその局在的機能について考えてみましょう。
私たちは、誰でも常識として、『脳の損傷・病変・変質』が生じれば、その人の精神、特に、知覚・認知・行動・記憶・意識といった機能分野に著しい機能喪失あるいは機能麻痺が生じる事を知っています。
その原因は正に多種多様であり、一例を挙げれば、癌による脳腫瘍の成長、突発的な脳卒中脳梗塞、脳内血管破裂)、事件事故による頭蓋骨損傷などがあります。
更に、脳機能に障害を与えるものとして、覚醒剤やコカイン、ヘロイン、シンナーなどの精神高揚作用、精神混乱、精神酩酊作用のある薬物の濫用、薬物依存症による中毒状態があります。
ビール、清酒などお酒のアルコールも、長期間に大量摂取を継続していると重篤アルコール中毒に陥り、精神錯乱症状や人格荒廃などの不可逆的な脳機能障害に至る可能性もあります。

医学、解剖学、生物学の進歩発展により、私たちは人間の脳の機能が局在化していることが分かってきました。
つまり、大脳新皮質において、前頭前野が理性的思考や創造力、情動の制御(自制心)などの知的活動を担い、後頭葉にある視覚皮質が外側膝状核を経た視覚情報の処理を行い、側頭葉で聴覚、嗅覚の情報処理を行って、海馬に記憶の蓄積がなされるというような『機能と構造(場所)の対応』が見られるという事である。
勿論、脳全体(大脳・小脳・脳幹)で見ても、各構造の機能は固有の機能と見事に対応している事が分かっている。
人間の生命を維持する上で最も重要な脳器官は大脳ではなく、呼吸・心拍・血管系の中枢がある『間脳・中脳・橋・延髄で構成される脳幹』である。
特に、延髄は、心臓運動や呼吸運動、発汗・血管収縮など体温調節を無意識・自動的に行う自律神経系の中枢であり、ここが完全に破壊される事は人間の死を意味する。

よく、子ども時代に『後頭部への攻撃は危険だから、喧嘩をしても後頭部を殴ったり蹴ったりしてはいけない』という注意を聞くことがあるが、これは生理学的な理屈に適っている。
無論、何処の場所であっても、人を殴ったり蹴ったりすることは褒められた事ではないし、暴力行為は禁止されて当然だが、後頭部、特に首筋の髪の生え際辺りは生理学的に最も脆い致命的な人体の急所である為、万が一暴力沙汰に巻き込まれた場合でも攻撃してはいけない箇所である。
前頭葉も、人間の総合的な知的活動(思考・感情・理性・感性・制御・創造性など)を行う非常に重要な人間を人間たらしめる尊厳の源でもあるが、前頭葉は固い頭蓋骨で防護されている為に、普通の人間の素手による打撃で損傷させられることはない。

閑話休題的な雑談に逸れましたが、ここまでで伝えたかったのは、ノーベル生理医学賞を受賞したワイルダーペンフィールドが本格的な脳機能研究の嚆矢となった『脳の機能局在説』についてでした。
ペンフィールドは、脳の手術中に大脳皮質に微小電極を直接突き刺して*2、どういった精神現象や身体反応が起こるのかを観察する事で、脳機能のマッピングを行ったわけですが、晩年に至って、『人間精神は脳という物理的実体を解剖し観察するだけでは解明し尽くせない、精神は脳に還元できない』という非科学的なスタンスに立ち、現代では哲学分野でもあまり顧みられないデカルト的な心身二元論の方向へと傾倒していきました。
欧米の先進的自然科学者の中には、晩年に至って物質還元主義や唯物論的世界観を放擲して、キリスト教的な霊魂感に強くシンパシーを感じて宗教的世界観に回心したりする人が結構いると聞きますが、この精神的変化は何となく分かるような気がします。

この世界に、特権的な精神や心が存在せず、全ては遺伝子や脳が生み出した機能の一部に過ぎないのだと考える事は、人間の永続性を願う希望や愛や勇気といった精神の崇高さ、利他行為や自制心に象徴される倫理性を否定するような感覚に陥らせる事があります。
『生きている意味や価値』を、無機質な物体から隔絶した精神の領域で味わう事に人間存在の誇るべき特質があるのではないかという実存的な希求。
何より、今ここにある私の心は、温かい感情を他者と交歓し、物事を深い思慮を持って考え、難解な問題を解決する為に的確な判断を下しているという『動物的な本能から切り離された人間的な情緒感性・理性知性』を信じたいという自尊心。
来世や天国、極楽を信じている敬虔な信者達であれば、肉体とは別個の霊魂を信じるのでなければ、現世限りで自分の精神が肉体の死と同時に消滅してしまう事を意味し、その信仰基盤が崩れてしまう事にもなりかねない。

こういった意味での物質還元的世界観への抵抗は、おそらく自然科学者であろうとニヒリズムに浸る無神論者であろうと、多かれ少なかれ持っているのだと思います。
また、『生きている事自体が無意味だ』と嘯くニヒリストや世俗からの隠遁者の無気力や絶望は、生の有限性と物質的な生命観がその根底にあるのではないでしょうか。
宇宙の構造、地球の年齢、人類の起源、生命の進化、遺伝子の機能、あらゆる外部世界の深遠で壮大な謎が科学の力で解明されつつありますが、最も難関なのは精神の存在と構造、脳生理学に還元され得ない意識の学問であると言えるかもしれません。
いや、本当は脳神経科学や脳生理学の次々に出してくる新しい知見によって、精神の機能や構造の大部分は明らかにされていることは合理的判断の上では理解しているのかもしれませんが、道徳的判断の上で了解できないというだけかもしれません。
しかし、自然事実と道徳規範とが同義ではないように*3、合理的判断と道徳的判断が必ずしも一致する必要性はありません。

私は、ここに宗教の存在意義や思想信条の自由の尊重を見たいと思っています。
時に、『科学的根拠がないから、あなたの考えや信仰は間違っている』という科学的事実至上主義の立場から宗教や思想が批判されることがありますが、自然科学的研究の枠外における個人の判断において、合理的判断をなすか、道徳的判断をなすかの自由は尊重されて然るべきでしょう。

私は、倫理道徳を考える場合に、カントの『汝の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ』という理性の絶対的命令である『定言命法』を主張する立場にも論理学的な厳格さという魅力を感じますが、道徳としてはアリストテレスの説く実践知(プロネ―シス)によって実現される徳性の説明のほうが現代的な文脈にも適用できる柔軟さがあるかもしれないと考えたりします。
アリストテレスは、個人の徳性は、イデア的な理想やノモス的な社会規範に盲目的に従属しているだけでは実現できず、生涯を通した社会的経験と努力・訓練によって蓄積され、実践的な反復を通して洗練されるものであると考えた。
つまり、道徳的な生とは、何か権威的なルール(規範)を破らずに守っていれば良いという優等生を賞賛するものではないのだ。また、一朝一夕に『これだけの成果を挙げたからよい』という短期解決型のお手軽なものでもない。
科学的な言葉に言い換えれば、自らの生涯という長い期間を通して体得される『洗練された実践的な認知・知覚・行動・思考・感情・人間関係』の総体こそが徳なのであり、人間が最も人間らしくあることこそが道徳的な生き方なのである。
それ故に、アリストテレスに対して『何故、私は道徳的に正しい人間でいなければならないのですか?』という問いは愚問である。

長期間にわたる社会的経験によって実現される環境適応的な最も私らしい私の生き方こそが道徳なのであり、真に善き者とは人間のピュシス(自然本性)を最大限に実現した者、社会的な動物として最も他者からの信認や尊敬を得た者だからである。
道徳的な生とは、『現実態(エネルゲイア)』であり、非道徳的な生とは、『単純な運動(キネーシス)』である。
真剣に誠実に自らの人生を生きようと思うならば、人間はそのピュシスにより非道徳的に生きることそのものが不可能なのであり、私が本来あるべき私を志向して努力精進し続ける限りにおいてその思考と経験の蓄積がエネルゲイアとして道徳そのものとして結実する。

アリストテレスが提唱した高尚な人生とは、歴史上初の『自己実現のすすめ』と言ってよいでしょう。
実践的な知恵と他者との共感的関係、道徳的な美徳とはその永遠の連鎖と反復によって細く丈夫な糸として紡がれていくのです。

*1:一般的には、躁うつ病うつ病という病名で知られていますが、DSM-Ⅳで最も高次の分類は『気分障害(Mood Disorder)』になっていて、その下位分類として『双極性障害躁鬱病)』と『単極性障害(うつ病)』が定義されています。双極性障害の下位分類には、『躁病とうつ病のⅠ型』『軽い躁状態うつ病のⅡ型』『軽等度の気分の変動を繰り返す気分循環性障害』が置かれています。うつ病の下位分類には、大うつ病性障害と気分変調性障害がありますが、一般的には症状の程度によって軽度・中等度・重度に分類されます。ICD-10が採用している『気分感情障害』という名称で呼ばれる事もあります。

*2:現在では人道上の問題がある実験方法ですが、脳には痛覚神経が通っていない為、脳そのものを電極で刺しても痛みを感じることはありません。

*3:自然科学の成果である自然界に関する事実命題を、人間社会の倫理規範にあてはめることを『自然主義的誤謬』といい、人間の判断する善悪や道徳は、必ずしも自然界の事実や情況に還元させることが出来ません。