アニミズムの衰退と自然世界の機械化

id:cosmo_sophy:20041222で、原始宗教の心情的基盤にあったアニミズムの思想について触れました。

シャーマン(精霊術師・呪術師・呪医)が、近代以降の社会から消えた最大の原因は、自然科学的世界観の普及です。
デカルトが、人間精神(思惟)と事物・現象(延長)を明確に切り離す二元論を展開し、徹底した機械論的自然観を採用して、自然や動物植物を科学の観察実験対象としました。
個々の事物(延長)は、物質の本質である延長の制限された部分に過ぎず、自然界の一切の質的な違いは、形・大きさ・運動の量的差異に還元され、自然界に起こる運動や現象は、物理学的法則によって機械的に規定され、人間精神は科学的手法によって自然界を統御する法則を知ることが出来るというのがデカルトの自然観の要約です。
自然世界を機械仕掛けの劇場と見て、自然に生きる動物達を神によって精巧に作成された機械と見るようなデカルトの考え方は、現代社会の環境破壊活動を抑止する根拠を持たない極めて人間中心主義的な独善です。

近代的科学精神の進行そのものが、自然世界の全てに不可侵の生命力や神秘的な力が宿るとする原始的アニミズムや自然界の山や川、大岩、大木に神々の霊性を見いだす汎神論を否定する流れと解釈する事ができ、文明論で言えば西洋の合理主義が東洋の神秘主義を啓蒙し駆逐する過程とも言えます。
20世紀の著名な発達心理学者のピアジェなども、アニミズムを人間精神の幼児的な初期の発達段階だというような言い回しでアニミズムを低く評価しているようですが、それは近代思想の枠組みにどっぷりはまり込んでしまった為の勇み足だったのかもしれません。
自然の壮大な景観(峻険な岩山・雄大に流れ落ちる滝・多様な生命を養う川・何百年も生き延びた巨大な木々)、動物の愛らしい姿や生物の巧妙な生命維持の仕組みの中に、生気論のような特別な生命エネルギーを見出す認識や解釈であるアニミズムを『幼稚な妄想だ』と簡単に片付けるのは、人間の感受性や想像力を無情に切り捨ててしまうようで少し淋しい気もします。
自然科学は自然科学の思想や手法で、生命と非生命を切り分ける必要はもちろんありますが。

自然を合理的精神によって克服し『利用すべき物質』と見るのか、共生的精神によって融和し『共存すべき生命』と見るのか、近代から1900年代後半に至るまで、自然は人間の為に利用され続ける物質として扱われましたが、様々な環境破壊の影響が露になってきた結果、現在では自然環境保護や破壊された環境の再生、産業の為の自然開発の抑制やCO2削減などが声高に叫ばれるようになりました。

そういったエコロジーな環境思想の気運の中で、森羅万象に精霊が宿るとするアニミズムの思想を見直すべきだとする意見も活発に為されているようです。
近代思想は、自然の擬人化や自然の神秘性を抑圧して、徹底的に人間の生活水準向上の道具として利用することを目指しましたが、やはり、自然への畏敬や感謝の念を完全に忘却してしまうのは危険であるという環境思想の揺り戻しが起こっています。
自然は、時に、雷や大地震を起こし、強力な台風や津波を起こして、人間に対して残酷で猛烈な破壊力を見せ付けますが、それでも、人間の生命は、地球という閉じた系に蓄積された資源や循環する生命によって支えられています。

自然と文明の対立から自然と文明の融和へ、というのが21世紀に課された一つのテーマでもあるでしょう。


ドイツの風力発電に関する環境問題では、発電する方法が再生利用可能かどうか、環境に被害を与えないかという基準以外に、従来の農村や自然の景観や美観を損ねないかが問題となっているようですが、日本は、都市部の画一的で雑然とした景観の魅力の無さに代表されるように、都市整備において余り景観を重視してこなかった国ですが、もう少し広告や看板の基準を統一して都市の美しい景観作りに努めて貰いたいと思うところもあります。

日本の政令都市の駅前や地方都市の繁華街の景観が、何処にいっても余り変わり映えがせず、魅力的な個性がないところや全体としての統一感や建築物相互の均整が取れていないのは、場当たり的な都市計画行政の問題と同時に、経済的繁栄の饗宴の中で景色の美しさの価値を軽視してしまった私たちの問題でもあるのかもしれません。

日本列島改造計画というスローガンを掲げた首相もいましたが、やはり、人工的に自然を改造しようという近代のフロンティア開拓精神が背景にある気がします。
『改造』という言葉は、今では余り使用する事がなくなりましたが、改造人間キカイダーを彷彿させるような工学的な人工的改変というかメカニカルな改造を想像させられます。
以下に、ドイツの風力発電と景観問題についての記事を引用しておきます。



http://www.eic.or.jp/library/pickup/pu041216.html


原子力発電所 vs 反対派市民」「有害物質を出す工場 vs 市民団体」。以前の環境運動の構図は簡単明瞭でした。保護派には明確な「敵」がいました。現在の環境問題はちょっと複雑です。廃棄物問題、交通公害などに代表されるように、「敵」=問題の原因は環境団体の中、また自分自身の生活の中にもあります。
 風力発電と景観問題でも、その構図が成り立ちます。風力のエネルギー利用は気候変動防止に貢献します。しかし、設置場所の周囲の自然や、景観を損います。「グローバルな環境の問題 vs ローカルな景観保護」というジレンマを生み出しています。
(中略)
設置数15,797機、設置容量は約15,000メガワット(2004年6月現在)。ここ10年、ドイツの風力発電利用は急激に伸び、現在世界ダントツのトップです。その背景には、まず、1991年に施行された「電力供給法(Stromeinspeisungsgesetz)」があります。風力や太陽光など、再生可能なエネルギー源によって作られた電力を電力供給会社が20年間買取ることが義務づけられ、その最低買取額が定められました。再生可能エネルギーを作れば必ず誰かが一定額以上の値段で買ってくれ、生産者に必ず利益が出る仕組みができたのです。一種、自由競争を妨げるようなシステムですが、これにより、発展途上で市場も狭く、原子力化石燃料に比べて生産コストがかかる再生可能エネルギーを普及させるのがドイツ政府のねらいでした。この法律は、2000年、EU内での電力市場自由化に伴い、内容の修正、拡張が行われ、「再生可能エネルギー法(Erneuerbare Energie Gesetz)」として新たに制定されました。現在、ドイツの一次エネルギー総消費に占める再生可能なエネルギーの割合は、約3%、総消費電力に占める割合は9%です(2003年データ)。風力エネルギーの買取価格は1kWh当たり約9セント(約12円)、太陽エネルギーは約50セント(約70円)となっています。
(中略)
上に挙げたような法律で、ドイツ政府が再生可能なエネルギーを手厚く保護するのは、風力や太陽熱が、問題の多い原子力化石燃料に替わるエネルギー源として将来必要になる、公共の福祉に役立つ、と認識したからです。今もっともその恩恵を受けているのが、エネルギー減価償却期間が1〜1.5年と短く効率がいい風力発電です【1】。しかし、最近のプロペラは、全長140〜160メートルと巨大で、広範囲に渡って周りの景観に視覚的影響を与えてしまいます。
 景観はひとつの公共資源です。連邦自然保護法の第一章では、動植物とともに、景観(美観)も、守られるべき資源であるとはっきりと明記されています。景観は、人々が保養する空間、そして文化遺産です。社会全体で見れば、風力発電は、気候変動防止という意味で公共の福祉に役立ちますが、ローカルな観点では、同じく公共の福祉として重要な景観に損失を与えかねません。建設法第35章によって風力発電に与えられている特権は、ここで自然保護法第一章と衝突します。ただ、景観が美しいかどうか、価値があるかどうかは、客観的に表すことが困難です。見る人の知識や経験によって変わってきます。風車建設の際、一番解決に困る問題です。

景観が保護されるべき公共資源であるという点には強く同意しますが、ドイツ人の環境景観に対する審美眼はかなり厳しそうですね。サイトの写真を見る限り、黒い森をバックにして、悠々と回転する大きな風車は景観としての違和感は、私としてはそれほど感じませんでした。
そこの部分が、『客観的に数値化できない景観の美が、見る人の知識や経験によって変わってくるので、風車建設の際の解決困難な問題だ』という引用部の最後の警句に該当するところなのでしょう。