知的財産権の保護と情報社会における『所有形態』


情報技術の驚異的な進展によって、物理的な現実社会と電子的な仮想社会の分裂や対立が起きている中、法律がインターネットに代表されるサイバースペースでの犯罪や紛争に十分に対応出来ていないという話をよく聞く。
特に、著作権を中心とする知的財産権を従来通りに保護する事が、パソコンとOSの普及・情報のデジタル化による『複製の簡易化(コピー&ペースト)』とインターネットと“Winny”に代表されるP2Pファイル共有アプリケーションといったソフトウェア技術が可能にする『情報の共有化』によって難しくなってきている。
Winnyは、その開発者が著作権侵害で逮捕された経緯でもよく知られたソフトですが、ised@glocomで東浩紀氏が『というのも、いまの僕たちの社会は、とにかくみながフリーライダーになりたい、つまり脱社会的存在でありたいが、しかし社会全体はまわってもらいたい、という都合のいい欲望を抱えているわけです。そのご都合主義が露骨に表面化したのが2ちゃんねるなわけですが、Winnyは、まさにそういう精神でまわる箱庭をつくってしまったわけですね。』という風に述べている。
(参考URL:http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/keyword/Winny

Winnyの『反社会性ではなく、脱社会性に注目』した辺りに、東浩紀氏の慧眼を感じるが、Winnyの情報共有化の加速過程にある『利己性即利他性』という所に面白さを感じると同時に、内面的な倫理規範不在で展開する『脱社会的な個人』の集積で成立する社会というものがあり得るのだろうかという疑念も感じた。

自分の欲しいコンテンツや本来、対価を支払わなければ獲得できない音楽や動画を無料で無意識的に獲得出来てしまうサイバースペースを現実社会に移してしまえばやはり社会は創造力と行動力を失ってしまう方向に導かれてしまうだろう。
それならば、サイバースペース内に限定して、どのような形の情報共有化も暗黙裡に了解すればいいのではないかという考えも有り得るだろうが、それはインターネット内での著作権のあるコンテンツの無料公開と無料共有がどれだけ実体経済に影響を与えるのかという事に依拠してくるのではないだろうか。とりあえず、現在の時点で、日本の司法判断では、著作権が有効な著作物の無料公開と無料共有は禁止する方向であり、それらの行為が犯罪として規制され取り締まられているという認識は自分を守る為にも必要であると思う。

高木浩光氏の『ダウンロードと情報拡散の不可分な結合によって、知らず知らずの内に著作権侵害行為に加担させられてしまう』というWinny指弾の批判にも聴くべきところはあるだろう。
高木氏の『自分は侵害行為に加担したくないという倫理観(あるいは安全意識)を持ちながら、自身の欲望は達成しておきたいという考え方』というのは、誰の内面にも有り得るものだし、その内容を広義の利己性へと敷衍するならば、ワイドショーで凶悪犯罪のリポートを物見遊山で見て話題にしてしまう行為にもその種の心理機制が働いてしまうのかもしれない。インターネットの世界では、誰か一人が違法行為に当たるかもしれない著作権侵害を犯して情報コンテンツをアップしてくれれば、その他大勢はその情報を無償で何のリスクもなく共有する事ができる。
それをフリーライダー的な行為というのだろうが、内面的倫理規制がインターネットでは働きにくいのは確かなことだと思う。
匿名性による開放感や少数のリスクテイカーとでも言うべきコンテンツ公開・配布者の存在によって、私たちは現実社会の自分ならばしないであろう行為も割合、抵抗感なく行えてしまうところがあるのではないだろうか。
知的財産権の保護と規制の問題は、今後、数十年間を掛けて綿密で有益かつ公平な議論を通して行われるべきで、現時点で、この見解が絶対に正しいという見解は想定できないだろう。
知的財産権の保護と規制の無理のない程よい均衡点が何処にあるのかという事を私たちは考えていかなければならない。


個人の知的財産権を頑なに保護する事や著作権の範囲や程度を強化することが、『情報の共有化』や『知的データベースの拡充』を妨げるとして非難され、法的にも知的財産権の範囲や規制を縮小し、世界規模でのコンテンツの共有化を促進すべきだというローレンス・レッシグ*1の様な見解もある。

しかし、アメリカの大きな著作権に関する法制化の流れでは、著作権の有効期限を延長したり、非営利目的での著作物の内容紹介や改変なども規制しようとしたりするなど『行き過ぎた極端な知的財産の保護と独占認可』を行っている。
アメリカ政府は、ディズニーを典型とする巨大資本を有する大企業や著名な創作家の政治的圧力もあって、知的財産権の保護を一層強化し、著作権者に許可を得ない一切のコピーや流用を禁止しようとしている。また、保守層を中心として、インターネットの情報流通や共有を、基本的に規制すべき悪しきものと捉えている観もある。つまり、インターネットでは、違法なコピーの拡大である海賊行為や無修正ポルノが氾濫し、更には生々しい虐殺・戦争映像といった青少年に悪影響を与える有害コンテンツの公開が行われている『無秩序・無法な空間』と捉えている人たちが、政府により厳しい規制や罰則を設けるよう圧力を掛けている。

インターネットの自由なコンテンツ公開と共有は、人類の知的財産の蓄積と発展に貢献する一方で、価値ある創作物を創造する個人の権利侵害と利益削減による創作意欲の低下をもたらす恐れもある。
著作物の文化的評価、芸術的評価、アイデアの独創性といった精神的な価値を保護するものではなく、著作物から派生する印税や映像化の権利や販売権といった著作者の経済的利益を保護するものとして著作権が認知されて長い年月が経ちますが、『所有権の形態』『著作権の有効範囲・期限』をめぐっての議論は更なる過熱と充実を見るのではないかと思います。
創作物が、個人的財産なのか社会の共有財産なのかという意見の対立は、その創作物の制作過程における寄与度を個人の才能・技術により重きを置くのか、その個人が生きる時代や社会の共有財産としての知識や技術に重きを置くのかという事によって生まれてきます。

レッシグが提唱したより良い著作物と情報コンテンツの共有を目指し、著作者本人が望む著作権の適用を宣言するという『クリエイティブ・コモンズ(Creative Commons)』の運動も注目を集めているようで興味深いです。
商用コンテンツと自由コンテンツとの競合が生まれ、自由コンテンツを尊重するコミュニティの方が創造性や生産性に優れている事が経験的に実証されれば、人類全体での知的財産の共有化が進む端緒となるかもしれないですね。
ただ、今までにない新しいコンテンツや作品を創作するのには技能と時間、制作を継続する意識的努力が必要な一方で、ダウンロードして閲覧するのには特別な労力は必要ないという情報発信と受信の非対称性をどう克服していくかが一つの課題となるでしょう。




著作権とは何なのか、大辞林で調べてみると『著作者が自己の著作物の複製・発刊・翻訳・興行・上映・放送などに関し、独占的に支配し利益をうける排他的な権利。著作権法によって保護される無体財産権の一種』とある。
著作権の核は、やはり、著作者が自らの創作物から派生的な商品や上映や放送などの情報公開権まで含めた『経済的利益の排他的権利』にあり、『商業利用の複製・改変』を独占する事にあると言えるだろう。
そして、コピー技術の進歩やインターネットを中心とする情報技術革命を経て、現代で問題になってきているのは、『非商業利用の複製や改変』が正規のルートで販売される著作物の売上を低下させるという問題であり、『情報公開者の商業利用の意図の有無』は殆ど関係ないという事である。

いずれにしても、一朝一夕に答えの出ない問題であるし、著作権法知的財産権に関する法学の知識のみならず、コンピューターや情報工学、情報倫理学法哲学といった広範な知識が要求される問題である。
私たちの日常生活に情報コンテンツによる満足や刺激が欠かせなくなった今、どのように自由な情報公開と情報共有をサイバースペースで実現する為のルールを作っていくのか、そして、魅力的な創作物を生み出すCreativity(創造力)を確保する為の著作権概念を開かれた議論を通して模索していく事が問われている。

*1:ローレンス・レッシグ:イェール大学ロースクール卒業。法学のみではなく、経済学や経営学、哲学の学位を有し、広範な領域にわたる知識を駆使してサイバースペースにおける法的規制や知的財産権の保護の問題に関して言論活動を活発に行っている識者である。『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』(ISBN:4881359932)や『コモンズ』(ISBN:4798102040)、『Free Culture』(ISBN:4798106801)などの著書がある。