科学教育の主眼は科学的思考の獲得にあり


理科教育:物理3学会、中教審に12項目の提言
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20041223k0000m040113000c.html


 日本物理学会、応用物理学会、日本物理教育学会の3学会は22日、小・中・高校の理科教育の充実を求める12項目の提言を中央教育審議会(鳥居泰彦会長)に提出した。小学1、2年の「生活科」を廃止して理科を復活させ、小学3年生以上と中学でも「総合的な学習の時間」を減らして理科の授業時間を「ゆとり教育」導入以前の水準に戻すことを求めた。

 また、教える内容を減らした現行の学習指導要領は「科学を系統立てて学べない」と指摘。理科専科の教員を全小学校に置くことや、教員の自主的な研修を奨励する制度の整備を提言した。

 3学会の代表は同日会見し「物理だけでなく理科全体の問題だ。現状では国民の科学力に深刻な影響が出る」と強調した。

ゆとり教育による学力低下の問題は、至る所で議題にのぼっているので、私が詳述する必要もないと思うが、子ども達の理科離れが指摘されて久しい。
物理、化学、コンピュータ解析等の理系の能力の根幹は、抽象的な数学の理解にあると考えているが、大学受験レベルの数学に至る迄、段階的に数学の能力を高めていく為には小中学校時代の基礎の習得が絶対に欠かせないだろう。
しかし、高校数学や大学で研究するような高等数学は、数学的な知識や能力が要求される仕事に就くのでなければ、それほど日常生活に必要なものではないこともまた確かで、一般に数学が苦手もしくは嫌いな人が多いのはその実用性の低さ故なのかもしれない。

数学や物理学そのものの理解とは別に総合的な科学力として国民に求められるのは、自然科学を詐称する擬似科学や偽科学を判別する事が出来る『科学的思考力』だと考えている。
自然界に働く基本法則や自然界を説明する為の基礎概念を理解する事以上に、どのような思考過程を経てそのような法則や概念が生み出されていくのかを興味深い科学史のエピソードなどを織り交ぜて科学教員が子ども達に教えることが必要ではないだろうか。

科学的な思考法というのは、特別に難しい思考過程を踏んでいるわけではない。
ある理論や仮説がある場合に、それが本当に正しいのかどうか実験をして確かめてみる、あるいは、理論通りに物事が推移するか観察してみるという仮説演繹法の考え方を知る事によって、『検証してみる事の大切さ』が分かる。
これは、『社会の大多数の人が賛同しているからこの考え方は科学的に正しい。著名な大学教授が薦めている商品だから科学的根拠がある』というような科学的思考における誤りを冒さない為の、基本的な科学的視点を育てる事になるだろう。

複雑な科学的仮説を科学者ではない素人が検証することは、実験施設の不備や科学知識の不足から実際には不可能かもしれないが、身近な言説で『このダイエット法は、科学的な根拠がある』といった広告があった場合に、『本当に科学的というならば、どのような検証の結果そう言われているのだろう?』という懐疑の目を持つ事につながる。

また、一見、バラバラに見える現象も、多くの事例を集めて観察して見るとそこに共通した性質や関係が見えてくるという帰納法的推測の考え方を知る事で、個別的な出来事を一般化・法則化する思考の道筋を知る事が出来る。
同時に、帰納法の欠点である『個別事例からの過度の一般化』に注意を向けたり、科学的理論の不完全性『観察される事例に一つでも例外があれば、従来の仮説が揺らぐ』といった事に意識が向くかもしれない。

自然科学は、絶対普遍の真理を提示する権威ではないが、実験や観察に基づく感覚的経験による実証を重んじ、主観的な価値観や恣意的な判断を出来るだけ排除して数理的な表記をする事で客観性を保とうとする『自然界の真理に接近する学』であると言えよう。
哲学史の流れで言えば、それまで頭の中だけで理性による演繹を行い『思弁的な真理』を提示していた思弁哲学に反する形で自然科学は『経験的な真理探究』の学として誕生した。
フランシス・ベーコンホッブズ、ロック、バークリらのイギリス経験論者の思想では、人間の認識の起源や真理の基準は、感性的な経験によるべきだとされたが、現在では論理的な推測、数学的な証明といったアプリオリな理性も科学的考察には欠かせない。
『思弁的な真理』は、原理的に他者が反証したり、否定することが不可能であるが、自然科学は、個人の主権的な真理命題と異なり、それを検証する為に他者が反証したり、異なる仮設を提示することが可能である。
ポパーがいう反証可能性は、科学の不完全性を示すと同時に、万人に開かれた客観性を確保し、科学的仮説を更に妥当なもの、正確なものへと進歩させる事が可能である事を示している。

実験的な推論から一般的な命題へと前進できる科学的な思考法を身につける事で、私たちは無秩序でバラバラに見える自然界を一定の秩序を持って見ることが出来る様になるが、自然界の現象を関数表記する場合にはモデル化した扱いやすい自然を利用している事も事実である。
そして、自然界の全てを真理といった形で把握出来るレベルには到達していないし、それが可能なのかどうかも分からない。
しかし、科学的思考や科学的理論というものが、私たち人間の持てる理性や感性を利用した『自然理解の方法』として、最も優れているものである事もまた確かであろう。

科学は、実際に観察したり実験できたりする対象を主に取り扱う(最新の物理学などで例外はあるが)という事と科学的かどうかを知る為には実際に検証することが必要だという事を知るだけでも、科学と非科学を見分ける一つの目安になる、
少なくとも、心霊現象や死後の世界が科学的に立証されたというような間違った言説(検証可能性のないものを科学と偽る言説)に、簡単に踊らされる事がないという意味で実用的なメリットがあるといえるでしょう。
もちろん、『科学的なもの』が『科学的でないもの』より、価値判断において優れているわけではありませんが、客観的な真偽判断においてはより確からしい仮説だとは言えるでしょう。