変転する人類の認識と克服されるアンシャンレジームとしての価値:寛容性を忘却しない普遍妥当性を目指して

『認識論・存在論・価値論』は、哲学の三大領域として密接に結びついています。

私たちが、20世紀の『大量破壊兵器を用いた戦争の世紀』で学習した大きな倫理学的成果は、自然世界の真実への接近とその応用である科学技術の進歩が、人間の幸福や正義の実現を無条件に成し遂げる訳では無いことを知った事です。
科学技術の利用法によっては、人類そのものを滅亡させかねないという『科学万能主義の否定』でした。

私たちが、20世紀の『ホロコーストや広島長崎原爆投下や南京虐殺アヘン戦争アパルトヘイトといった人種差別的前提を持つ虐殺行為』で学習した大きな倫理学的成果は、人間を『人種・民族・肌の色・文明の発展度といった相対的なものさし(変更不可な属性)』で序列化し優劣の価値判断をすることの悲劇的結末であり、『人間生命ひいては生物界全体の生命の階級構造の否定』でした。
文化相対主義の視点は、『悲しき熱帯』を著した人類学者レヴィ・ストロース構造主義思想などの貢献によって一層強化されていきました。しかし、政治権力が暴走する人種差別的な動機による紛争や自文化中心主義的な独善による他文化の蔑視は未だ完全に払拭されたとは言えず、多くの国々では未だ自国の国民の生命を他国の国民の生命よりも尊いものだという認識が共有されています。

しかし、自らの生活領域に近しいものにより深い愛着や同情を覚えてしまうのは、人間の性(さが)の一面であり、克服し切れないエゴイスティックな隣人愛の現れです。
隣人愛による差別的な愛、家族の一員が苦しむのを顧みず、他国の見知らぬ他人を優先して救うといった感情は、人間の精神構造や遺伝的特性上、期待できるものではありません。
また、そういった隣人愛を放擲した高尚な人類愛、神のようなアガペー(博愛)を家族や恋人や友人知人に期待したいと思う人はまずいないでしょうし、それが現時点での(あるいは永遠に超越できないかもしれない)人間の愛情の形であり、人間的な倫理の実践なのではないかと考えます。

例えば、観覧船が転覆して冷たい海中に家族諸共投げ出された時に、あなたが一枚の板に捕まりその板の浮力が支えられる人数が限られている事態にあって、愛する家族を救うのか、見知らぬ他人を救うのかといった選択を迫られて、近親者を救助したいという利己的欲求を捨てて、見知らぬ他人を救うことが倫理的に正しいのかといえば現時点の倫理ではそうではないのではないでしょうか?
人間は、社会的動物として、人生の途上で出会う様々な他者との関係性の歴史を生きています。
関係性の強度・深度、関係性の歴史の長さ、生物学的な遺伝子保存欲求といった幾つかの変数によって、私たちは究極の事態に至っては、関係性の重み付けをしてしまう事になります。関係性の重み付けが全くない情況というのは、自分以外の周囲の他者が全くの初対面である場合などに限られるでしょう。

この種類の倫理的葛藤をテーマにした命題には、古代ギリシアの哲学者カルネアデスが考案した『カルネアデスの板』というものがあります。
それは、法律の講義の緊急避難の為の他害行為による違法性の阻却といった説明にも用いられる事もありますが、簡単に言えば、船で遭難して、一枚の板が浮いていた場合に、自分が助かる為には他者を板から振り落とさなければならないという状況であなたはどう行為するのかといった問題です。
この問題は、単純な自己生存欲求の葛藤の事例ですが、おそらく私が前述した関係性の重み付けの葛藤よりも葛藤の度合いは低いでしょう。

生存欲求(生への執着)の強弱には個人差がありますが、他人の為に自己の生命を失う事を恐れない人は究極的な事態に立ち至れば相当の割合でいると思います。こればかりは、平常時のアンケートで質問しても意味がない問題で、実際にその究極的事態に立ち至らねば軽々しく自己の決意を表明するレベルに留まってしまうでしょう。
しかし、先日のドン・キホーテの放火事件の際に、契約社員やアルバイトの方々が、お客の安否を確認する為に燃え盛り濛々と煙を吐き出す店舗に迷いなく駆け込み、瞬発的に利他的な行動をとったように、自己の生命執着を瞬時に脱却する倫理判断(エゴイズムの即時的棄却)は人間の歴史上、数多く見られた行為です。勿論、事例が多いからといってその行為の倫理的な価値や人間の取り得る尊厳ある行為の価値が微塵も減じるわけではありませんし、私も含め実際にその行為が出来る自信のある方はそういないでしょう。

しかし、関係性の重み付けの脱却、自分の愛する家族や恋人への隣人愛の捨象による人類愛の実現というのは、エゴイズムの即時的脱却以上の二重の困苦を伴います。
つまり、自分が見知らぬ他者を見捨てて、隣人(家族・恋人・友人知人)を助けようと判断し実行すれば助かったはずの隣人の生命を敢えて見殺しにして、それ以外の他者を救うというのは、人類愛という絶対的な倫理の実践を達成する以前に隣人を捨象するという倫理的禁忌を踏まなければなりません。
そして、その倫理的判断は、俯瞰的客観的な視点から『正しい善なる行為』であると評価されても、本人の主観的な慙愧の念と自責感、罪悪感、絶望感は永遠に死ぬ時まで拭い去ることが出来ないでしょう。何より、本人の内面的良心をずたずたに切り裂くのは、『信頼を寄せる隣人の懇願』を無慈悲に振り切ったこと、人類全体に共通されている禁忌としての『信頼関係を破綻させる裏切り』を行った事に収斂されます。


私たちが、20世紀から現在に至る『地球温暖化やオゾンホール拡大や島嶼部の海水面上昇や度重なる異常気象』で学ぼうとしている倫理学的成果は、人間の物質的豊かさを際限なく追求する『経済至上主義の限界と自然環境との共生』でしょうか。

私たちの価値判断は、世界認識の変化や歴史的経験の意識化、自然環境の変化、そして、科学技術の進歩と無関係ではいられません。
過去の中心的価値観であったもの(帝国主義・人種差別・優生思想・自然科学万能主義・市場原理主義・男尊女卑)が、政治・経済・文化・科学技術・社会構造・倫理観・世界観・歴史過程といった様々な諸要素の変数が変化することによってめくるめく勢いでコペルニクス的転回を遂げ、棄却されるべき間違った『周辺的価値観』として退けられます。

自然的事実は倫理的善悪に直結しないし、論理的真偽判断は倫理的善悪と相関しない、あまりに人間的なるもの、それが倫理であり道徳です。
私の個人的定義としてですが、倫理をカント的な内面の理性的良心と定義し、道徳を社会通念として共有される常識的な善悪観と定義したいところです。
個人的な倫理と社会的な道徳には、必ず幾許かの空隙あるいは乖離が見られるのではないでしょうか。
社会的な道徳に強制力を持たせれば、法規範となり、その条文に定められている悪しき行為を行えば、実際に自由を束縛され量刑に基づいて処罰されます。

道徳的な善悪観は、自然的事実の様に普遍的な様相を私たちに見せてくれません。故に、私たち人類は、歴史の過程において幾度も幾度も取り返しのつかないような倫理的な過ちを冒し、人間精神の可能性の悲観の場に立ち合います。
しかし、人間的な絶望や無力、倫理的な重罪や大過について、自然世界は一切関知しません、どのような過ちを冒そうとも人類が絶滅しない限り、人間の意識によって認識される時間はこの地球を流れます。

生物学的な生命の価値とは、遺伝子という自己複製子を増殖させること、自分のコピーを次世代へとより多く確実に継承していくことであり、生物個体は利己的な遺伝子の乗り物に過ぎません。
倫理・道徳・善悪といった価値判断を捨象して生物学的に考えれば、人間という生物種の生きる価値も『自己保存欲求と自己の遺伝子の複製と増殖』にあると解釈できますが、人間は生物種というまとまった単位で見る事に余り価値を感じる生物ではなく、『私は、人類という種の保存を成功させる為に、長く生き、より多くの子孫(自己の複製子)を残す為のみに生きている』という利己的遺伝子に操縦されているような個人はまずいません。
それに対して、意識的な自己の遺伝子の保存という目的を掲げていなくても、迂遠な人間関係や職業活動や社会生活を送りながら、結果として自己の子孫(複製子)残すように人間は生きる事になるという帰結主義的な反論もあるでしょうが、それでもやはり種の保存や自己複製子の保存といった観点よりも、『自己の人生固有の価値』というものを志向しながら生きる『本能的欲望の奴隷ではない動物』である点に人間生命の特異性を見たい思いがあります。



私は、『人間の価値(倫理道徳)は、認識の転換によって変容する』と、前半で述べましたが、これと類似の事を普遍的価値の定立を退けた実存主義哲学者ニーチェが述べています。


現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義者に反対して、私は言うであろう。
否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
私たちはいかなる事実『自体』をも確かめることはできない。
おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう・・・。
総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界には別様にも解釈されうるものであり、それは己の背後にいかなる意味をも持ってはおらず、かえって無数の意味をもっている。


フリードリッヒ・ニーチェ  『権力への意志』   


価値は、卑近な価値なれば物質の実用性・実益性の程度を意味するものであり、経済的な価値なれば交換・労働・需要・ブランドといった要素にその根拠を持つものであるが、人間的な価値は、個人の認識によって左右されつつも『真・善・美といった普遍性』を志向するものである。
その普遍的な価値を内在化させてより良き生へと不断の革新運動を展開し、現状を更に善き情況へと前進させんとする情熱と意志、他者に普遍的価値を強要しない寛容(他者への相対化)によって、価値は無益な衝突や犠牲から解き放たれるのではないだろうか。