人間社会の“脅し”と自然世界の“脅し”のアナロジーの不適切性


id:cosmo_sophy:20050210において、人間固有の言語的なコミュニケーションの新たな可能性の地平としてのメタ・コミュニケーションについて粗描しました。



恐喝未遂:俳優・萩原健一容疑者を逮捕 出演料1050万円要求の疑い−−警視庁

http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2005/02/07/20050207ddf041040015000c.html

先日、恐喝未遂容疑で逮捕されたショーケンこと萩原健一容疑者の逮捕前の記者会見や詩文の盗作問題で活動を停止していた安倍なつみさんの復帰会見などでも、興味を持って見ていた視聴者は、テレビから流れてくる映像から何らかのメタメッセージを受け取っていたと思います。

逮捕前の萩原健一氏の表情や言語表現は、状況や相手に即した柔軟性を失い、瞬きの数が極端に少なく、大きく見開いた目からは防衛的な威圧と切迫感が伝わってきました。
相手の言葉に矛盾のない答えを返せない余裕の無さが、早口でまくしたてるような弁舌につながり、情緒の不安定感が、正確な発音と音韻を乱して甲高く声を裏返させてしまうのは、危機に直面した人間の生理的機構から説明できます。

どんなに普段平静な人でも、真に差し迫った闘争や危機の前では、不安を感じてその不安を回避する為に心拍数や呼吸数が変動し、情動の制御が不完全になります。安定しない情緒や思考が、緊張を生み出し、声の調子の変化や手足の振るえ、大量の発汗などになって表面化してきます。
この事件の場合には、明らかな違法行為に対する防衛といった趣きや過去の心理的に依拠していた姉の死去の影響などが強いと推測されますが、こういった生理学的な不安反応は、本人の意見や態度が正しいとか間違っているとかいう真偽判断とは別に起こってきます。ですから、一般的な社会行動において、発言時に声が震えるから嘘を言っているとか、大量の汗をかいているから何かを隠しているという判断は妥当ではありません。

暴力的発言の正当性を示す為に採用した襟巻きトカゲを例示しての生理的防衛本能による恐喝行為の説明は、自由連想的な意味で外部世界に根強い不信感と被迫害感を感じる萩原健一氏のメタメッセージであるように私には思えました。
四面楚歌の現在の状態の中で、彼は彼が長い期間過ごしてきた芸能界(映画界)で経験的に獲得した常識判断を一般化させようと試みました。

しかし、萩原健一氏が黒澤明氏を引き合いに出したような過去の常識が、既に現在の映画の世界内部での常識から懸け離れてきている事、映画界(芸能界)の内部のみで通用すると信じられてきたような封建的構造による暴力や罵倒が社会的に容認されなくなってきている事によって、萩原氏の説くスタッフやキャストに対する暴言や威圧の正当化の論理は通用しません。

当然、襟巻きトカゲを持ち出しての“自然界の自己防衛”暴力団の存在をちらつかせる“防衛目的の恐喝行為”のアナロジーの論理は、“人間社会の法秩序・価値判断”と“自然世界の摂理や生存闘争”を同等と見なしている時点で誤謬であり、破綻していると言えるでしょう。
自然界の適者生存や自然淘汰を、人間社会の経済競争や対立紛争のアナロジーとして用いる事は、自然主義の誤謬であり、自然的事実は人間的価値を保証しません。

それ故に、視聴者の人に今回の問題の是非を考えて貰って、法的判断とは別に、自分が取った行為の不可避性や常識性を承認して欲しいという萩原氏の必死のメッセージは、大多数の視聴者には届かない可能性が高く、メタメッセージの部分でも、精神的な危機や混乱に対する同情や心配は得られても、道義的な正当性の承認は得られなかったのではないかと思います。

“脅し(threat)”は、確かに自然界の動物には日常的に見られる行動で、同種の高等な類人猿や犬などは、実際に戦わずに相手に対して威嚇的な唸り声や構えを見せて警告シグナルを相手に発します。自らの潜在的な攻撃能力をアピールすることで、形成された階層構造の秩序を維持して無用な闘争を避けようとします。
人間社会における明示的な脅しは、自然界における実際の攻撃につながらない脅しとは、質的に異なります。

恐喝行為を行った人間の弁解としてよくあるパターンが、『本気で脅すつもりはなかった』というものですが、人間同士のコミュニケーションでは、『本気の脅し』か『擬似的な脅し』かの区別が、遺伝的に規定された動物の威嚇行為とは違って明確ではありません。
人間社会における脅しは、本人が事件発覚後に『本気で脅すつもりはなかった』と言っているとしても、それを言った時点では『相手に擬似的な脅しではなく、本気の脅しである』と認識させなければ望んだ通りの結果を引き出せません。

本当に擬似的な脅しである事、自分の威圧的な言葉が本気ではない事を明示しようと思う場合には『今から言うことは全部冗談なんだけど…、今から言うことは全て本気ではないんだけど…』と前提しなければならない。
しかし、そういった違法性を阻却した脅しは、エピメニデスのパラドックスクレタ人は、嘘つきだ』のような自己矛盾的フレームの設定であり、全く有効性がない事は明らかです。

劣位の犬が優位の犬の唸り声に対して弱点であるお腹を見せて服従の意を露わにするように、動物の形式的な威嚇と服従の行動は、実際に相手と戦い合わない擬似的な脅しではあるが、お互いの集団内での地位や上下関係を確認するという意味で有効な脅しと成り得ます。
一方、人間の威嚇や恐喝の場合には、擬似的な脅しがいつ本当の傷害や暴行に結びつくか分からないという意味において、有効な脅しは絶えず相手を実際に傷つける現実性を背後に秘めていなければならないものです。
法的手段に訴えるなど合法的な威圧を除いて、暴力的な威嚇や恐喝が一般的な社会的地位の確認手段として認知されていない事とも合わせて、脅しが本気であっても擬似的なものであっても、自然界のように有効な集団内の秩序維持として機能することはないでしょう。

唯一、高等な威嚇や圧力を与えるコミュニケーション方法として、メタメッセージにおいて暗示的に『自分に危害を加えれば、それ相応の報復を覚悟してもらう』といったメッセージの与え方がありますが、こういったメタコミュニケーションにおいて相手に圧力や影響力を与える人物は、社会的立場や実力関係が相手より既に圧倒的に優位である場合が殆どでしょう。
暴力的な威圧や威嚇に出る場合には、それ以外に相手に強制的な影響力を行使する手段がないという事をも同時に意味しますから、メタメッセージにおいて相手が要求に従わざるを得ないような圧力を掛ける事は非常に難しいとも言えます。

擬似的な脅し、相手に何らかの心理的不安を与える事によって自己の目的を達しようとする行為の発達過程における原初的な形態は、子ども時代に親にモノや世話をねだる時の『泣き真似』や『ぐずつき』にあると言われます。
家族など身内や気のおけない相手に対しては、メタコミュケーションが高度に発展していることで、演技的な脅し、遊びとしての脅しと通用しますが、他人に対しては本気の脅し以外の解釈は通常成り立ちませんから、脅しによる不合理な要求達成の行動パターンは一定の発達段階で脱却するのが望ましいでしょう。