メタレベルの言語的コミュニケーションの特異性と可能性


人間の言語的コミュニケーションの特異性というものが何処にあるのかと考える時には、対照的な一般化された抽象レベルの存在が思い浮かぶ。
それは、現実世界に存在する個別のバラバラな事物に、“概念”によって秩序を与え、共通理解を可能にする事でもある。
厳密に見れば、あの犬とこの犬は違う種かもしれないし、私が食べたマーボー豆腐とあなたが食べたマーボー豆腐の味は全く異なるものかもしれないが、概念は、一般的な“犬”の姿や一般的な“マーボー豆腐”の味を、最も効率的に共通認識させる事が出来る。
そして、そういった言葉によって提示される概念の共有こそ、相互的なコミュニケーションに欠かす事の出来ない成立条件である。

概念(言葉)と事象(現実)の対応の秩序が完全に混乱して、自分の話す言葉によって示される概念が相手の持っている概念と一致しない時に、私たちは『相手と分かり合えない。あの人の話す事は支離滅裂で筋道が分からない』という感想を持つに至る。

また、人間の言語機能は、言語と事象の“一対一の対応”という単純極まりない構成で説明できるものではなく、“一対一の対応”の言語とは人間以前の進化史の中に立ち現れた“動物的な言語”でありコミュニケーションである。
動物は、基本的に事象や行為に対してメタの意味付けを行わないし、意味を読み取る事もない。
パブロフの古典的条件付け(レスポンデント条件付け)ではないが、動物は本能的欲求に駆動され、外部刺激に対して機械的な反応を見せる事が多く、遺伝子を継承するという自己保存欲求の束縛から通常抜け出す事は困難である。

人間が何故、パブロフやワトソンが当初予測していたように、機械的なS-R結合によって行動決定しないのか、または外部からの刺激の統制によって人間の行動をコントロールする事が非常に困難なのかという問いに対する答えは、自由意志の有無といった形而上学の議論を行わなくても、上記した事から必然的に導かれる。

人間は、言語を単純な事実を記述する、あるいは指し示す『指示的(denotative)』レベルでのみ使用しているのではなく、指示的レベルはあくまで言語の始点に過ぎない。人間が意思疎通のツールとして使用する言語の最も特異な本質は、暗黙裡に進行する“メタメッセージの交換”である。
メタメッセージの交換とは、簡単に言えば、相手の意図や動機をより高次の地点から読み解いて、表面的に提示された言語メッセージをお互いに深読みし合う事である。

人間は、理性的な学習をすればするほどに、換言すれば、世界を言語的・記号的・科学的により高度に抽象化された形で理解すればするほどに、生理的本能や遺伝子保存欲求を高次の視点から俯瞰する事が出来るようになる。
高度に発展した文明社会において、直接的に本能的欲求や生理的本能を表現することはタブー(禁忌)とされ、過度に利己心や本能的欲求を曝け出す事は、人格評価を下げて、他者からの軽蔑や否定を招きやすくする。
この本能の直接的開示のタブーの根底に横たわる性・暴力・金銭に対する倫理学的な判断や根拠については、また機会を改めて考えてみたいテーマである。


しかし、文明化された社会において生理的本能・利己的欲求は消滅したのでも衰退したのでもなく、それらは“メタコミュニケーション的なコンテキスト(meta-communicative context)”に変奏されて、洗練された外観と手続きを経て充足されるようになる。
あるいは、種々の社会制度や文化活動の内部へと取り込まれて昇華されたり、市場経済のメカニズムの中で貨幣と商品という関係で交換する事でビジネスとしての装いを取って満足させられるようになる。

メタコミュニケーション的なコンテキストは、実に複雑多様で華麗な劇的転回を私たちにもたらす。

例えば、思春期の男性が好意を寄せる女性に向ける『今度の休みに一緒に食事に行かない?』というメッセージは、単純な“食事の共同行為の遂行”を意味するものとは通常受け取られない。
それは、メタコミュニケーションにおいて、男性側は『食事をきっかけにもう少し親交を深めたい』というメッセージを発し、女性側は『自分に対して何らかの好意的感情を抱いているのかな』というメッセージを受け取ることを暗示する。
それは、友情に近い好意の場合もあるだろうし、恋愛感情そのものの好意の場合でもあるだろうが、少なくとも共同行為を取る義務や必然性、経済的利得がないにも関わらず、食事・ドライブ・映画・ショッピングなどに意図的に誘うことは、否定的感情ではなく肯定的感情の表れだと通常解釈される。
二人きりで会うのか、第三者を交えて会うのかという状況や会う時間帯が昼なのか夜なのかといった設定によっても、お互いの隠された意図や欲求を密かに読み合うメタコミュケーションが観察不可能な内面世界で加速している。

そして、そのメタコミュニケーションにおいてある程度、相互の欲求や利害が一致していると洞察された時、人は初めて直接的な恋愛や性的欲求の明示的コミュニケーションにある種の確信を持って踏み出す事が出来る事になるだろう。
告白が上手く行くかどうか、プロポーズが上手く行くかどうか、ビジネス交渉が上手く行くかどうかに関して、全く事前に予測できない偶然性に支配された“空白から結果が生じるギャンブル的場面”が存在しないわけではないが、多くの場合において、人々は、自らの発言や行為が相手にどのような影響を与え、どのような返答が返ってくるかをメタローグ的なやり取りの中で結果を予測していることが多い。
そして、多くの場合、長期間の交流がある相手とのメタコミュニケーションは高度に洗練化されていき、相手の心情や意図を発言の断片や態度の微妙な変化から洞察することが可能になってくる。

このように、日常生活場面における何気ない会話や表情、態度などからお互いの隠蔽された意図や欲求を読み合う行為が得意であるか否かによって、人間関係の巧拙や進展が規定されてくる側面が確かにある。
あまりにも、相手のメタメッセージを読むことが苦手で不器用な場合には『気が利かない。相手の感情に鈍感だ。勘違いすることが多い』という対人コミュケーション能力の低評価につながっていく恐れがある。
これは、個人的な恋愛関係や夫婦関係などに限定されるものではなく、感情を排したようなドライで合理的なビジネス交渉においても例外ではなく、営業交渉能力の高い人物というのは、メタコミュニケーションの次元で相手の好意的関心や肯定的評価が自分にどれくらい寄せられているのかを無意識的に察しながら交渉を進めている。

それに対して、メタコミュニケーション的なコンテキストにおける否定的感情のメッセージの伝達というのも存在する。
メタコミュニケーションの否定的感情伝達としては、『仕事など義務的な連絡場面以外の電話などには留守電で対応する。メールアドレスは教えるが返信はしない。好意を抱けない相手の恋愛欲求のメタメッセージを先読みして、メタコミュニケーションにおける発展を事前に阻止する。電話番号やメールアドレスを変更して教えない。形式的な必要最小限のコミュケーション以外には感情を排して応答する。』などが想定できる。
そして、私たちは、メタコミュニケーション次元での相手の感情や意志の『隠喩的・直喩的な表れ』に対して基本的に敏感である。
それは、メタコミュニケーション次元のコンテキストを読み間違えれば、自分自身が手ひどい打撃を受けて傷つき、あるいは甚大な損失を蒙る可能性があるからである。

人間は、他者の言語的・非言語的なコミュニケーションを、動物的次元のサイン(徴候)から、シグナル(指示記号)へと進展させて解釈する。その為、サインに対して機械的に行動を決定することは生理的反射などを除いては極めて稀である。
シグナルの解釈の結果として、各人各様の現実認識と行動基準があり、あるメッセージをありのままに信じる事も疑う事も出来る、更に、肯定的であるのか、否定的であるのかの状況認識をメタメッセージの読み込みによって補強して自らにより良い結果をもたらす行為判断の指針にすることが出来る。
ある人物や書物から発話され記述されたありのままのメッセージを真実であるとして信じることとは、疑念を知らぬ純粋な愛情であり、冒涜を恐れる敬虔な信仰の姿である。

人間のコミュニケーションの可能性は、精神内界において力動的に変化し葛藤するメタコミュニケーションと概念創出と操作によって、より高度化され精緻化されていった。
生物の進化史において、高等なコミュニケーション機能である『感情移入、取り込み同一視、投影』を獲得したのは人類以外に存在しない。
人間は他者の存在や感情や反応を、現実世界に実在する他者以外に、自己の精神内界にも写像して構築する。
人類のコミュニケーションの可能性の地平が加速度的に切り開かれた時、即ち、内面に確固とした存在感を示す“継続的な表象”となった時に、人類は他の生物にはない他者との関係性による歓喜と絶望を体験することが可能になったのである。