大阪教職員殺傷事件から社会システムを通して少年事件を考えてみる。

大阪教職員殺傷:襲撃対象は元担任か 逆恨みした可能性も



大阪府寝屋川市立中央小で14日、教職員3人が殺傷された事件で、殺人未遂容疑で現行犯逮捕された卒業生の無職少年(17)が、6年生の時の担任だった男性教師を襲う目的で同校に侵入した疑いの強いことが大阪府警寝屋川署捜査本部の調べで分かった。少年は「いじめに遭った時に助けてくれなかった」と供述しているが、捜査本部が調べたところ、いじめの事実は確認できなかった。少年の供述に整合性もなく、捜査本部は少年が逆恨みした可能性もあるとみて、15日、同市内の少年宅を殺人容疑で家宅捜索し、同校の現場検証を再開した。


17歳の少年による凶悪犯罪は、『理由なき犯行・動機なき凶行』というレッテルを貼られてセンセーショナルな話題を提供して、世間の人々に漠然とした社会への不信、若者への恐怖、NEET精神障害者など社会的マイノリティへの偏見を植えつける。
漠然とした少年犯罪への恐怖は、金銭や性的行為、怨恨、復讐といった明確な目的や動機のある犯罪よりも、常識的な欲求や社会的価値観の領域からは理解不能な犯罪に対して否応なしに高まっていく。
漠然とした少年犯罪への恐怖と警戒が最高潮に達したのは、1997年の神戸須磨児童連続殺傷事件を引き起こした酒鬼薔薇聖斗を名乗る14歳の少年に対してではなかったのではないかと考える。

酒鬼薔薇聖斗と名乗る少年が、何故、あのような冷酷で残忍な常軌を逸する殺人事件を起こしたのかの動機は明確にされることはなく、結局は、『行為障害(Conduct Disorder)』という反社会的行動の集積を言い表すだけの精神障害概念に全てを還元してしまった。
行為障害という精神障害の分類は、単純に、反復し持続する反社会性を持つ暴力的な行為や残虐な虐待行為を列挙して、道徳的判断能力の欠如や社会規範の無視を意味するだけのものであり、何故、行為障害による残酷で異常な問題行動が生起するのかの原因や理由についての言及はない。
行為障害は、発達段階の過程における道徳意識や社会規範の形成の障害であり、善悪の分別をする責任能力の欠如を示す発達障害であるが、知能や運動能力など他の発達障害を併発せず、脳の器質的病変も通常認めないものである為、何故、行為障害が発症するかの原因は不明若しくは遺伝的要因や環境的要因などの複合因性と考えられる。
行為障害は、『小児期(児童期)及び青年期に通常発症する行動及び情緒の障害』にICD(国際疾病分類)で位置づけられており、18歳以上であれば反社会性人格障害という分類に当て嵌まる事になる。

発達障害の下位分類である行為障害を診断することによって少年犯罪の問題が改善したり、動機や原因が解明されたりすることは無いが、私たちは『理由・原因のない犯罪』や『解明されない心の暗黒』を最も恐れる。
実効性や科学性のない障害概念であっても、『あの人は、行為障害であったから、あのような猟奇的で陰惨な犯罪を起こしたのだ。あの人は、精神に異常があったから、特段の理由なく殺人を犯したのだ』という因果関係が説明されることに一般市民は安堵し胸を撫で下ろす。
正常と異常は本来、非常に曖昧で微妙な境界線上を揺らいでいるが、一般社会では正常と異常は極めて明瞭な線引きの元に切り分けられると便宜的に考えられている。
それは、動機を理解し共感出来る範囲を逸脱した事件や現象を説明する時の最後の切り札として精神異常という概念を保持しておく為であるとも言える。

今回の寝屋川市立中央小学校の教職員殺害事件は、精神障害のラベリングの問題とは現在のところ無関係だが、事件報道の初期には青年が精神科の通院歴があること、そして、ゲームを趣味としていたことが青年に関する情報として語られていた。

ゲームに熱中し過ぎると脳の衝動性の制御に関わる前頭葉の発達に障害が生じるといったエビデンスに乏しい擬似科学が一時話題になったが、これも現代社会の理解困難な事件や犯罪をゲームの流行とゲームへの耽溺といった社会現象に原因を求めて安心しようとした心理機制の表れかもしれない。
暴力性や衝撃性、性的描写の内容があるゲームが、青少年に有害な影響を与えることが全くないとは断言できず、ある行動の誘発に対する影響は少しはあるかもしれないが、ゲームそのものが直接的に殺人行為や傷害行為の引き金となることは考え難い。

部屋に篭ってゲームにのめり込んでいる人間が、殺人を犯す可能性が高いという仮説に妥当性を認めるならば、真夜中にコンビニで買い物をする人間は、殺人を犯す可能性が高いという仮説も同程度の確からしさは持つだろう。そして、競馬場や競艇場に通い詰め消費者金融で借金をする人間が、何らかの犯罪行為を犯す可能性よりも前述の可能性はおそらく低い。
特定の生活形式や趣味嗜好、習慣的行動を犯罪行為の生起率と結び付けようとすれば、ある程度マイナーな趣味嗜好や性的興奮に関係するような習慣的行為ならば、もっともらしい説明をつけて犯罪と結びつけることが可能である。

ここで、私たちは主観的な価値判断が、社会システムが要請する中心的価値観の定立に巻き込まれ易いことに留意する必要がある。
私たち一般市民の殆どの人格は、個人単位では善良で誠実で深い配慮を有しているが、社会という集合的な主体になると偏見や固定観念に基づく『異質性の排除の論理が権力として作用してくる。
現代の自由な民主社会では、封建制度に基づく身分差別や固定的な支配と服従の構造はないが、マジョリティとマイノリティの力動的な排他的構造は依然として残っている。いや、残存しているという言い方は正しくない。マジョリティとマイノリティの不均衡で非対称的な対立と排除の関係は、社会システムにとって必然なもので、マジョリティの内部においても中心と周縁の領域が絶えず分節され、人々はより中心的価値に近い有利で優位な位置づけを得ようとせめぎ合っている。

経済の市場原理と社会の権力構造のシステムは、競争と協力の反復によって『優越欲求に根拠づけられる他者との差異』を欲望する諸個人によって自然に支えられている。
他者との競争による優勝劣敗、他者との協力による組織構築が生み出すものは、『資本と権力の偏在』であって、『資本と権力の最適配分・資本と権力の平等化』ではない事を意識するところに人生の厳しさや現実の無情さを感じる人々は多いだろうし、急速なアメリカ主導のグローバリゼーションに反対する論者達の主要な論拠もそこにある。
『資本と権力の偏在』は意識的に努力して成し遂げられたり、強引に政治権力で維持している社会的事態ではなく、人間の本性的な『他者との差異に快を見出す自然的欲望』によって支えられている為、その偏在そのものを意図的に修正することは恐らく不可能だろうし、資本と権力の偏在の存在が倫理的に悪であると断じる合理的根拠もそれほど強固ではない。
極端な奴隷的従属を強いるほどの資本や権力の偏在は、確かに悪であり税制や政策によって偏在を緩和させる必要があるだろうが、資本主義を前提として国際社会に参画する以上、一定の格差を生み出しながら技術的・経済的に前進して消費者の利益にも繋がるという資本の論理を無視する事は出来ない。


少年犯罪の話から随分と話が脱線してしまったが、社会構造や経済システムから青少年の精神的な不安定や衝動性を読み解く事も可能ではないかという思いから、社会システムが生み出す中心と周縁の領域化の話をしてみた。
教育制度や社会環境の劣悪化が青少年の精神を侵害すると考える識者がいるように、現代社会に充満する情報が青少年の心身の発達に犯罪を誘発するような悪い影響を与える可能性は否定できないし、遺伝的要因に多種多様な変数を持つ環境的要因が加わって現在の人格や性格が形成されていくのだから、環境変数として働く有害情報を数え上げることにも微小ながらも意義はあるだろう。しかし、有害な環境的要因を一つ一つ数え上げればどれだけ膨大な数になるか測り知ることは出来ないし、それらの有害情報や劣悪な社会環境とされる要因全てを現代社会から排除することは不可能であり非現実的である。

インターネット、ゲーム、映画、マスメディア、街中に溢れる性関連情報など、現代社会に生きる青少年は確かに、数十年前に生きた青少年とは比較にならないほど広大無辺な情報の渦中の中を生きている。
そして、雑多な情報への暴露の結果、社会構造や経済システムについての知識を比較的早い発達段階で得てしまう事が多く、自分の人生全体の見通しや将来の可能性(社会的地位や経済的位置付け)に関して極めて早熟な理解と予期を見せる。
将来の自己像に対して敏感に反応して悲観的になったり、理想的な自己像から遠ざかる事に神経質になって、少しでも人生の進行で失敗や挫折があれば投げやりな衝動的行動に出たりする。
そういった環境や発達段階に対する不適応状態は、中心から周縁の領域へと自己が駆逐されたと感じる時に生起することが多いのではないかと思う時がある。
ここでいう中心とは、統計的に大多数の人が歩むような人生の過程でありレールである、現代社会でいう中心的領域は流動的で可変的ではあるが、高校卒業や大学入学、安定した企業や官庁への就職といった過程は中心的領域に位置すると言えるかもしれない。

一生を人並み以上の水準で無難に送れる、あるいは豊かな生活が保証される(と思い込んでいる)中心的価値観から離れていくように感じる時、つまり、『他者との差異の欲望』がパラドキシカル(逆説的)に満たされるような社会的状況に置かれる時、人は孤独感の深淵に沈み、対処の難しい焦燥感に駆られる事がある。
そういった孤独感や焦燥感を大多数の人は何らかの合法的かつ適応的な方策で切り抜けて、あるいは恋愛や結婚、友人関係といった人間関係から得られる支援や激励を得て、人生を自分なりの方法で豊かな実りあるものにしていこうとするが、自我機能の発達が十全でない場合には不安感や欲求不満が高まり行動化(アクティング・アウト)が反社会的な方向で起こる可能性があるかもしれない。
そういったやり場のない悲観的な絶望や衝動的な破壊性が反社会的な行動になるかならないかの閾値は、個人差が大きいだろうし、事前に危険な衝動的行為を予測して防止するのは事実上不可能であるか身近にいて詳細に当人の発言や行動などを見守る事の出来る人以外には困難である。


学校や教育制度に対する怨恨や社会に対する憎悪が犯罪の直接的な動機になっていて、社会を震撼させて、人々に精神的に強烈な打撃や脅威を与えてやろうという意図を持って起こす犯罪が近年増加しているように思える。
こういった犯罪は、個人の人格性や精神状態のみに責任を求めても、後発する模倣犯罪や類似犯罪を抑止することは難しいかもしれない。勿論、法的な処罰という側面では、個人の責任能力が認められる限りは、その犯罪行為の責任は個人に帰せられなければならないが、再犯を防止する為の心理的ケアだけでなく、社会的経済的自立の為の制度的支援なども必要となってくるだろう。

個人の人格形成や精神状態の変容にある程度関与できるのは、義務教育の年齢くらいが限度で、それ以降は教育者や両親の人格や精神への影響よりも社会環境や情報環境、個人的な対人関係の影響のほうが大きくなってくる。
しかし、青年期後期くらいにあっても、社会的な孤立状態から脱け出す事を援助してくれるような家族関係や友人関係は非常に有意義なものだろう。
そして、人生で最も体力や気力が充実する青年期に不似合いな人生に対する絶望的な悲観や将来に対する無力感に捉われないで済むような雇用環境・社会構造を整備していかなくてはならない。
これは個人単位の自助努力では不可能なことであり、政治的・経済的改革といったマクロな視点での改善策も提示していく必要があるだろう。

今回の大阪の教職員殺傷事件では、本人が語った動機として小学校時代のいじめが語られているが、その事実は現段階では確認出来ていない。
いじめという集団社会における力動的な排除と虐待の現象は、人格形成上最も重要な過程にある小学生や中学生の段階で生じる事が多く、いじめが契機となって人生全体のリズムや流れが狂わされてしまう事も多い。

いじめが現実に起こっていなかったとして、いじめが何かのメタファーなのか、反社会的な衝動性を培った根源的現象のアナロジーなのか分からないが、社会的な動物である人間にとって、帰属する共同体や社会、集団に居場所がなくなるような排除的作用はいじめ同様に、人間の精神を萎縮させ、絶望的な気持ちに追い込んで無気力にさせる効果がある。
人間は、どんなに強いと自認する人であっても、完全に孤独では生きていくことが出来ない、個人的な単位であってもよいし、集団的な単位であってもよいので、何らかの他者との親密で信頼感のある関係を持てることが犯罪行為へ突き進もうとする心理の抑止力となるのではないだろうか。


自分が犯罪を犯して他者を傷つければ、警察に逮捕されて留置されたり投獄されたりする事になるが、そういった自分の行為や状況を深く嘆き悲しみ、我が身の如く苦悩して煩悶してくれる他者がいること、意外にそういった自分を愛し信頼してくれている他者がいることが犯罪の抑止力になっていることは多いのではないかと考えている。

自分を愛し信頼してくれている他者がいるという事実は、自然な論理的帰結として、私が殺そうとしている人にもその人を愛し大切にしている他者がいるという連想へと向かう。
“人間の複雑な感情と信頼のネットワーク”へと実感的に注意が向く時、人は人を殺す事の究極的な悪性を知り、存在が不意に欠落する事の悲哀を深い次元で感得することが出来ると私は信じたい。