“国民性の差異”を生み出す文化的環境と経験的学習


ナチスドイツの台頭によるユダヤ人迫害を避けて、アメリカに亡命したゲシュタルト心理学者にクルト・レヴィン(K.Lewin)がいます。
レヴィンは、科学的な還元主義に基づく行動科学的な心理学ではなく、知覚研究を基盤において心理現象の全体性や有機性を重視したゲシュタルト心理学草創期の心理学者ですが、ル・ボンやタルドの群衆心理学とは異なるグループ・ダイナミックスを基盤に置く社会心理学の創設とも深い関係があります。
そのレヴィンが、グループ・ダイナミックス(集団力学)の研究で、ドイツ人とアメリカ人の集団特性を調査した興味深い研究があります。
第二次世界大戦期のデータなので、勿論、現代にその研究成果を直接的に応用する事は出来ず、現代のアメリカ、ドイツの国民性ともかなりの懸隔と格差が生じているとは思います。

レヴィンの実験とは、ドイツ人とアメリカ人が同一内容の失敗の経験という刺激を与えた時に、どのような反応を示すかというものでした。その結果は、アメリカ人は失敗に対する耐性が高く、失敗は成功へと続く学習過程であって、自分自身の能力と気力に課せられた挑戦のようなものであると受け取る事が多く、それに対して、ドイツ人は失敗に対する落胆や絶望の度合いが強く、一般的に強い失敗や挫折に対して挑戦的態度よりも意気消沈の態度を示すことが多かったようです。

国家や共同体に所属する成員の性格特徴や気質傾向を調査するという心理学や人類学の研究には、科学性や客観性が乏しいという理由で、当時においても現在においても余り重視されていません。
国民性という観察不可能な集団的な特性・傾向を、オッカムの剃刀*1で完全に切り捨てて、伝統文化・歴史的背景、気候風土、習俗慣習といった環境要因さえ調査すれば、国民性の差異は解明できるというのが、科学的な心理学や文化人類学の立場でした。

レヴィンの社会心理学的な実験などを踏まえて、グレゴリ−・ベイトソンが思弁的な人類学的研究として強い関心を寄せたのが、個人や集団の『学習によって構築されていく性格』であり、ある行動や発言を生み出す要因として環境と同様に集団・個人の性格を考慮するものでした。
集団を構成する個人の性格(行動特性)が、所属する共同体(国家)によって一義的に規定されるわけではないという事は極めて自明です。
国民単位による固定的な“均一性”は勿論存在しないが、ある傾向としての“法則性”が存在するかもしれないという着想を前提とすることは出来ます。
“国民性という心理的規則性”ベイトソンが言う時、それは全体的な傾向性であり、確率論的に高い頻度で生起する行動パターンの事を意味しています。



しかし、集団的な行動パターンを集団的な心理的規則性という形而上学的な概念で説明する事は不可能であるとする科学的研究者の側からの批判も数多くありました。


  • 共同体の内部に更なる下位文化が生ずる為、共同体による性格の差異よりも、共同体内部の男女間・身分階級間・経済階層間・職業間における性格や価値観の差異のほうが有意に大きく、そちらの行動特性や性格傾向を研究するほうが有益だとするもの。
  • アメリカ合衆国のような“人種の坩堝”と呼ばれるような共同体にあっては、極端な多人種・多民族の混交と異文化交流があるため、一定の性格傾向などを指摘することがそもそも不可能であるとするもの。
  • トラウマ(心的外傷)や遺伝的要因、生育環境など事前に予測できない偶発的要因によって、国民性という類型的な規則性に収まらない異端者や心神喪失者・心神耗弱者の存在が指摘できるとするもの。
  • 伝統、文化、風習、習慣といったもの自体が絶えず時代の流れの影響を受けて可変的である以上、文化的・環境的に規定される国民性や個人の性格傾向というものも継続的に変容し続けるというもの。更に、時代や文化の変化に先進的に適応する『進歩的グループ』と旧態的な文化や伝統にこだわる『保守的グループ』が分化するため、国民性には一定の規則性を求められないとするもの。
  • 国家の領域を策定する国境という概念そのものが、歴史的なものであり恣意的で流動的なものに過ぎないとする指摘。



上述の科学的見地からの批判に対しては、以下のような反論を提示することが出来る。


共同体内部の下位文化(男女・階級・階層・職業)における性格の差異は、男性と女性、支配者と従属者、富裕層と貧困層など対立概念・対立集団の存在を持って規定される。
共同体内部の全ての差異は、対立概念の存在を前提として、相互補完的なパターンを取って成り立ち、片一方のみの習慣体系や性格構造だけで成り立つことは想定できない。
一方の性格特徴や行動傾向が、他方の性格特徴や行動傾向を支えて助長することによって、およそ世界共通の二項対立的関係である『支配する・服従する』『見る・見せる』『保護する・依存する』といった相互補完的な習慣体系を構築することとなる。

安定した共同体には、必然的に安定した社会的差異が生じ、それが習慣体系や伝統文化として根付いている。即ち、下位文化の属性によって割り振られる役割や行動のパターンというものが存在している事が多い。
ポストモダングローバリズム世界においては、自由で民主的な個人によって国家が構成されているので、『不平等性を象徴するような二項対立的関係』は存在しないと進歩的な知識人は主張するかもしれないが、それは明らかに現実認識が欠如していると言わざるを得ない。
自由市場経済のメカニズムによって生活を営む私たちが逃れられない習慣体系あるいは性格構造とは、『買う・売る』という経済的関係であり、その経済活動の結果として『持つ者・持たざる者』が分化してくる。

現実的に、持つ者は持たざる者よりも、社会的に有効性のある影響力と発言力を発動でき、売る者(販売者)は買う者(消費者)に対して一定以上の気配りや配慮を働かせサービスしなくてはならない。
それは、現代の経済社会に適応してしまった現代人の大半にとって、然程苦痛な事ではないし、屈辱感を感じる事でもなく、極めて常識的な力関係であり、職業意識である。
商品やサービスを買う消費者の側が、経済的取引きの場面では販売者よりも立場が優位であるという事を自然に受け入れている人間が大部分である時、それは当該共同体において、特徴的な習慣体系が成立し、その習慣体系が暗黙のルールとして個々人に受容されていることの証である。

この事から示唆されることは、共同体共通の性格特徴は、共同体の下位文化に共通する性格特徴と切り離して考えられるものではなく、下位文化(男女・階級・階層・職業など)の二項対立的関係がどのような生活文脈で登場し、それが成員の大部分に共通承認されているか否かによって、共同体全体の性格構造や習慣体系を明らかにしていくことが出来るという事である。


二番目の批判であるアメリカ合衆国のような多民族・多人種国家でも、あらゆる関係性のパターンや相互補完性のパターンを調べ尽くすことは不可能だが、アメリカという国家の環境に適応した国民性の典型像の概観を把握したり、無限の複雑性や無数の多様性の寄り合い所帯としての特徴を持つものとして解釈することも出来る。


次いで、平均的な国民性から何らかの先天的・後天的要因によって逸脱してしまった心身喪失者や規則違反者、非常識人、犯罪者などの例外的な類型に関しては、簡単に答える事が出来るだろう。
そういった大多数の人間が無意識的に権威性と正統性を認めるような基準、正常と異常を恣意的に区別しようとする国民の意識こそが、集団的な性格傾向や平均的価値観の存在を示唆しているのである。
違反者や逸脱者の存在は、一般的な国民性の存在の不在を意味するのではなく、むしろ、対立項としての一般的な国民の性格傾向や常識感覚の存在の証左として解釈されるべきものである。

一般に承認された社会規範(法規範)や行為規範(道徳性)というものが存在することこそ、その共同体・国家において、大勢の人が正常で健全だと考える価値観や規範が存在することを意味し、国民性という集団的特徴を浮き彫りにする。
どのような逸脱者であっても、異常者であっても、それを識別して判断する共同体内部の一般的価値観や権威的指標がなくては、逸脱しているとも、異常であるとも判断の仕様がないのである。
更に言えば、どのような異常性や逸脱性の持ち主であっても、主権国家内部にあっては、彼が所属する国家の『正常性・異常性』『適応性・逸脱性』というモチーフの外部へと逃れ出ることは出来ない。


四番目の伝統、文化、習慣などは時代の流れによって変化する流動的なもので、固定的な時間軸を前提として国民性を規定することに意義は乏しいとする批判に対しても、現在の習慣体系(法体系)を変化させようとする国民の行動や意識は、現在の国家や法の在り方によって大きく影響されるという点を指摘することが出来る。
つまり、昔ながらの伝統的慣習や価値観を尊重する『保守的グループ』と新しい時代の流れや経済状況に適応した先進的な文化や価値観を取り入れようとする『進歩的グループ』は、表面的な現象としては保守と革新という明確な対立を示しているが、その対立が激しければ激しいほど保守派が守ろうとする『現在の習慣体系と性格構造』、革新派が壊そうとする『現在の習慣体系と性格構造』が同一の現在の国民性として存在することを示す傍証となる。

『国民の心理的規則性の可変性・流動性は、現在存在している平均的な国民性という心理的規則性を否定する批判としては機能せず、未来という時間的位相に向かって私たち国民がどのような変化を遂げていくべきなのかに関する国民相互のパワーゲームなのである。
保守しようとする慣習体系・価値体系は、破壊しようとする慣習体系・価値体系と同一のものでなければ、そもそも利害対立に基づく闘争や議論が成立しない。


国民性という平均的な性格構造や慣習・価値の体系はグレゴリ−・ベイトソンによって、共同体構成員の最大公約数的な性格として提示され、それを簡易化された方法で表現するものとして『支配・服従』『見る・見せる』『保護する依存する』などの二極分化のパターンが持ち出された。
こういった二元論的な説明方法は、『精神・物質』『仮象・本質』『現象・実在』などに顕著に見られる様にプラトンイデア論を始祖として西洋文化や西洋思想にとってのお家芸とも言えるものである。
しかし、二元論では、世界を余りに単純化、抽象化し過ぎている嫌いがある為、世界各国の国民性、平均的な心理的規則性を解明するには、三元システム以上の高度に複雑な関係性の分析が必要とされてくるだろう。

ベイトソンは、20世紀半ば頃の伝統的イギリス社会に典型的に見られる三元システムとして『親・乳母・子』『国王・大臣・臣民』『将校・下士官・兵卒』といったものを挙げているが、これらの関係に特徴的なのは、『単純なヒエラルキー構造』でもなく『相互作用的な三角形構造』でもないところであり、置かれている環境の文脈によって様々な協調や対立を見せながらも、全体としてバランスと秩序を保っているという点である。

現代の日本社会における『父・母・子』の核家族にあっても、理想的な機能的生活体としてあるためには、相互補完的な三元システムであることが望ましいといえるかもしれない。
父と母が協調して子育てに当たり、夫婦の相互尊重や理解を深める一方で、父(母)と子の関係で、母(父)に対する接し方を子に示し、父(母)の長所を子が取り込むという相互的な作用をバランスよく与え合っていく。
そして、『父と母と子が同一の生活コンテキストで交流する時』に、最大のパフォーマンスと精神的安定性が得られるような三元システムを形成することで、家族関係は安息や信頼が収束する安全で安心できる場として確かな価値を有することが出来るだろう。

*1:14世紀のフランチェスコ会修道士のウィリアム・オッカムが提唱した理論選択の原理で、『複数の理論で、同じ現象を説明できる場合には、最も単純な理論こそが正しい理論である』とするもの。『科学的な理論とは、感覚的経験によって獲得できない要素を切り捨てて、単純な思考の筋道を通って正しい結果に辿り着ける理論である』といった経験主義的な理論成立の妥当性に関する原理でもある。