『遊びと空想の理論』からの連想による精神分析の“場”の特殊性


現実と想像の境界線が朦朧として、曖昧になる精神状態を呈す統合失調症精神分裂病)に対するサイコセラピー、カウンセリングの本質が何処にあるかを考えると、それはメタ・コミュニケーションの傾向や性癖の変容にある。
これは、カウンセリング及び心理療法一般にも通用する定義であり本質であるが、言語的あるいは非言語的なアプローチによって、クライアントの行動や心理を適応的な方向へと変容させる事に意味がある。

私たちは、外界や他者からのメッセージを認知のフレームを通して内容や意味を思考して理解する、そして、自分の伝えたいメッセージを作成して伝達する場合にも一連の思考規則、認知パターンに依拠しているのが普通である。
統合失調症の場合には、メッセージを受信する場合の認知のフレームが歪曲されており、その為に相手や事象が伝えてくるメッセージをありのままに受け取ったり、適応的・常識的に受け取って解釈することが出来難くなる。当然、メッセージの受信が正しく適応的に行えないのであれば、メッセージの送信にも非適応的な思考規則や誤謬の多い認知パターンが介在して意味不明なメッセージを作成して送信してしまうことになる。
その結果として、支離滅裂な発話行為とコミュニケーションである『言葉のサラダ』の症状が顕在化してしまうのである。

カウンセリングの場面におけるコミュニケーションの特異性とは、カウンセラーとクライアントの間で相互にやり取りされるメッセージの集積が、時間的・空間的に限定されていて、一定の契約関係の枠組みの中で進行することである。
1回の面接に費やされる時間と、面接が設定される場所が事前に取り決められており、時間当たりのメッセージのやり取りに必要とされる料金体系が設定されているといった、日常的な会話場面では想定出来ない情況という意味でカウンセリングや心理療法とは“特別な場”なのである。

グレゴリ−・ベイトソンは、精神分析的な心理療法のプロセス』と自然界で観察される『遊び』のアナロジーを指摘しているが、犬や猫がじゃれ合って噛み付き合う『闘いもどきの遊び』から導かれる“現実(本気)との類似性”こそ精神分析的な心理療法の本質であると看破している。
ベイトソンが、『遊びと空想の理論(A Theory of Play and Fantasy)』という論文で、精神分析療法の面接場面を構成する重要な要素概念として指摘したのは、『転移(transference)』であった。
精神分析の転移と逆転移が持つ治療的意義についての詳細な説明は、このブログの過去記事で何度か行っているが、id:cosmo_sophy:20041218などを見てもらえれば概略は掴めると思う。



精神分析を受けているクライエントが分析者に対して、過去の重要な人間関係で体験した強烈な感情を向ける事を感情転移という。反対に、分析者が相手の感情転移に引き込まれて、自らの過去の記憶や体験にまつわる感情をクライエントに向けてしまう事もあり、これを逆転移という。転移には、好意や愛情を向ける“陽性の感情転移(恋愛感情転移)”と憎悪や嫌悪を向ける“陰性の感情転移(憎悪感情転移)”とがあるが、精神分析療法では感情の自由な発露と情的な実感的体験が治療の為に重要なものと考えられているので、感情転移が全く起きないクライエントは精神分析にあまり適応していないと言える。


ベイトソンの創意溢れる慧眼が見つめたのは、分析者とクライアントのコミュニケーションの中で現れてくる転移による『愛情・好意』『憎悪・怒り』といった感情の非現実性であり記憶回帰性、そして、幻想構築性である。
転移感情は、過去の時空において実際の親に向けられた感情とは似て非なるものであり、“自然界の闘いもどきや擬似的な脅し(id:cosmo_sophy:20050211)”と類縁関係にあるものに過ぎない。
ベイトソンは、精神分析場面で生じる荒々しく強烈な感情が、実際の生身の感情ではない、つまり、真実の愛憎の情動ではないからこそ治療的に有効活用できるのではないかと語る。
転移感情が真実の愛憎そのものであるならば、分析者は決してそれらを解釈の題材と割り切って受け続けることは出来ないだろうし、クライアントの側も愛憎の感情に飲み込まれて衝動に思考と行動を支配されるままになってしまうだろう。

精神分析において“転移の解釈”を行い、転移を題材として徹底的に語り合うことが意味を持つと考えられるのは、抑圧された情動のカタルシス効果の側面からのみ語られるべきではなく、面接場面を前提的に覆う『これは(現実場面ではなく)精神分析である』というメタ・メッセージである。
現実世界(過去の実際の情動)と分析場面との境界線が無意識的に引かれている事によって、過去の記憶や表象と連関している転移感情を、情動的に体験する一方で知的に操作することも可能となる。

また、現実世界と境界が設けられているということは、現実的な常識的価値観を考慮に入れず発話することが出来るということであり、精神分析やカウンセリングの場面では、『コミュニケーションの規定や規則が柔軟化されている』と考えることも出来るだろう。
コミュニケーションの一般規則が柔軟化されている最も分かりやすい例示としては、精神分析自由連想と夢判断(夢分析を挙げることが出来る。

私たちの現実世界におけるコミュニケーションは、『厳密な文法や意味による規則』と『厳格なコンテキストによる利害関係』によって束縛されている為、通常、夢や空想、幻想の内容を会話の場面で好きなだけ、思いのまま話すことなどは常識的な態度からの逸脱を意味するシグナルとして働くことになる。
社会的場面や対人関係の情況といったコンテキストを無視して発話することは、私たちには許されていない、もしくは何らかの社会的職業的不利益を招いたり、対人関係を損なったりする。
自由連想夢分析の根底的な意味や本質的な価値が何処にあるのかを考えると、それは意図的な『言葉のサラダ』の誘発であり、常識や固定観念や利害関係に左右されない特別な場面で、『精神内界の抑圧・隠蔽された観念・欲求・概念・感情』をランダムに暴露することにあると言える。

私たちは、社会生活の公的場面において、一般的に『嘘をついてはいけない、矛盾や不整合があってはいけない、法や道徳を逸脱してはいけない、常識的価値観や世間の大勢に反発してはいけない、他人の気分や感情を害してはいけない……』など意識していない部分で、様々なコミュニケーションの制約を受けていて、自らの真意を言語化して相手に全て伝えるコミュニケーションを行う事は通常無い、若しくは現実的制約によって許されていない。
グレゴリ−・ベイトソンは、精神分析やカウンセリングの意義を、そういった現実的制約状況の枠外にある特別な場に求め、特別な場における精神内界の自然性との対峙を重視する。
矛盾や支離滅裂や社会的に抑圧される欲望と向き合う時に、必然的に生起する『抽象化のパラドックス(逆説)』を分析して理解していくことで、過去の情動や現在の苦悩を受容して、比喩的表現に含まれる空想性や幻想性を現実と切り分けながら整理していくことが出来ると考えた。

しかし、クライアントの認知のフレームの設定と分析者の認知フレームの操作や制御との関係については、認知理論や認知療法で大雑把な理論的把握が為されているに過ぎない。
最終的に、認知のフレームを適応的なもの、自分を苦悩や絶望に陥れないものに変容させて行く為には、外部や他人の操作のみでは限界があると考えられる。
様々な角度からのメッセージの交換とメタ・メッセージの応酬の中から有意義な自己認識を得て、自己の主体的な決断へと繋げていくこと、そして、内観的な洞察を深め、認知に基づく行動・思考を現実的で妥当性のあるものへと緩やかに推移させていくことが望まれる。