皇太子妃雅子さまの公務復帰延期とSO(スペシャル・オリンピック)について

皇室:雅子さま、SO冬季世界大会出席を中止 出発1時間前に−−数日体調すぐれず



宮内庁は26日午前、同日午後からの予定だった皇太子妃雅子さまの長野県訪問を取りやめると発表した。「スペシャルオリンピックス冬季世界大会」出席のため、1年3カ月ぶりの地方での公務として皇太子さまと訪れる予定だった。同庁によると雅子さまはここ数日体調がすぐれず、医師団から「長距離の移動に続く公務はまだ負担が重過ぎる」という意見も出て、出発の約1時間前に中止が決まった。皇太子さまは予定通り訪問する。

皇太子ご夫妻は、26日午後に新幹線で同県入りし、開会式には皇太子さまだけが出席。ご夫妻で27日にフロアホッケー競技を観戦して同日午後に帰京する予定だった。

雅子さまは1月2日の新年一般参賀に出席した後、東宮御所での公務を時折務め、今月中旬には長野県で静養した。22日には都内で公務として文楽公演を鑑賞していた。同庁は「体調には依然として波があり、今は悪い方の状態。静養と公務では同じ移動でも負担が大きく違う」と説明している。【竹中拓実】


皇太子妃の雅子さまは、知的発達障害者の方達への支援や教育に以前から強い興味を持っておられ、日本国内での知的障害者を含む発達障害者に対する協力支援体制の未整備、国民の正しい理解や知ろうとする意識が低いことを憂慮されていたようです。
雅子さまの1年3ヶ月ぶりの地方公務として、知的発達障害者の人たちが普段の練習の成果を発揮する場であるスペシャルオリンピックスが選ばれた事は歓迎すべき事でしたが、今回は心身の回復がまだ十全でないという事で直前のキャンセルとなりました。
遠距離の移動による身体的疲労や大勢の人の前で行う公務に伴う心理的緊張が、順調な心と体の回復過程を妨げるストレスや負担になる恐れがあるという判断であり、抑うつ気分を伴う適応障害では安心してくつろげる環境調整が第一選択の対応になりますので妥当な判断だと思います。

最近、パラリンピックを嚆矢として国際的な規模での障害者のイベントやスポーツ大会が増えていますが、障壁を低くした健常者と障害者の自然な交流の場が増えるのは良い事です。
障害者も健常者同様の生活を送れるような街づくりやバリアフリー社会の構築という理念や計画ばかりが先行して普及する中で、一般の人たちが、精神や身体の障害を持つ人たちの実際の姿や気持ちに触れられる場はそう多くありません。
現在では、デパートやコンビニ、公共施設の駐車場の多くには、障害者専用の駐車スペースが用意されており、公共のトイレにも障害者専用の使い易いトイレが設置されてきていますが、時に、健常者の人がそういったスペースや施設を、『待たずに早く車を停めたい・トイレを早く使いたい』といった個人的な都合によって利用しているケースがあります。
本当に、心身障害者の立場に立って、身体が思うように動かない不自由さの制約があって広いトイレしか利用できない事実や広いスペースでないと停める事が不可能な視覚や運動機能の障害の存在に思いを巡らすことが出来れば、その場の短絡的な利便や安楽を求めて障害者専用のスペースや施設を気楽に利用することは出来なくなるのではないかと思います。

各種の障害を有する方々のスポーツ大会や作品の展覧会、イベントなどの素晴らしさは、健常者のオリンピックや著名芸術家の展覧会における高度な技術や能力の優劣を競い合う素晴らしさとは質的に異なるものです。
障害による不自由さや能力の制限というハンディキャップと無関係に、日々の絶え間ない練習や苛酷な訓練といった努力の蓄積によって、“自分のもてる能力の限界すれすれの成果”を披露・発表することに人々の魂を揺さぶる感動があります。

オリンピックでもプロスポーツでも一流の芸術家の作品展であっても、そこには必然的に『結果の優越』が求められ、平均的能力からの卓越がなければプロスポーツ選手として承認されることはなく、凡庸な標準的創作物との明瞭な差異と評価がなければ芸術家として讃えられえることはありません。
パラリンピックやSO(スペシャル・オリンピック)の開催意義として認知されるべきことは、現実社会で大勢を占める相対的な優勝劣敗の帰結主義功利主義の呪縛を離れて、障害者の方達の自己表現の場、大勢の観衆から注目され評価されるパフォーマンスと交流・対話の場が公共圏に用意されることにあります。

そして、SO(スペシャル・オリンピック)の最大の魅力は、障害者・健常者(観客)・ボランティアが心地良い興奮と熱狂の一体感に包まれることにあります。
見られる者と見る者が織り成す熱狂的な一体感に包まれる時に生まれるものは、『演技者・競技者』と『観衆・ボランティア』が双方向的に肯定的かつ支持的な影響を与え合うダイナミズムであり、そのダイナミズムの渦中において『人間存在の尊厳を深い次元の充足感と解放感によって感得できる』ところに現実の日常生活では獲得し難い感動と勇気の高まりがあるように思えます。

誰もが子ども時代には持っていたあるいは感じていた、一心不乱に頑張って物事を成し遂げるという達成感や自分の能力の限界まで懸命に挑戦することの意義を、私は『過程の美学』と呼びたいのですが、私たちはともすれば慌しく余裕の乏しい生活環境の中で過程の美学を喪失して、『結果の力学』のメカニズムの中へと埋没してしまいます。
雅子さま適応障害の苦難や心痛にとって、SO観戦による『過程の美学』の想起と体感が起こったならば、きっと良い方向での心理的刺激が与えられる事になったのではないかとも思うのですが、未だ心の状態と体調が思わしくないという事でキャンセルとなり残念ですが仕方ありません。

元々、外務官僚として高い知的資質と実務能力を持っておられた雅子さまだけに、皇太子との結婚が現実味を帯びてきた頃から、皇室の一員、将来の皇后としての責任感や使命感を誰よりも強く自覚されておられた事と思います。
通常の生活環境や社会環境の中ではおよそ経験することが想定できない種類の責任感であり、雅子さまのように平均以上の歴史・文化に関する深い造詣があれば、国家や民族の歴史性の一部に象徴的に自らが収まるという重圧感はやはり大きな心理社会的ストレスとなり得るでしょうね。
卓越した有能さや思慮深い知性を持てばこそ、高い要求水準を課せられる外部環境や人間関係から受け取るストレスが蓄積しやすいという逆説的な事態とも言えますが、ゆったりと時間をかけて環境への適応と義務意識の低減を図っていき、周囲の宮内庁の関係者などが不必要なストレスをかけないような対応、振る舞いを注意することが望ましいですね。

国民からの期待や理想化に必死に応えなければならないという意識や一刻も早く回復して公務に復帰したいという強い意志が強度の心理的ストレスになっている事も考えられますが、国民の一部が天皇家に抱くような理想的な家族像や完璧な人格性への過度な期待・要求というのは当事者でなければ分かりえない重圧感や拘束感があることだとは思います。
かなり心身の状態が上向いてきているということですので、漸進的に回復されていくと良いなと思います。
天皇制の存廃議論や女性天皇承認の議論は、現実社会でもネット世界でも頻繁に取り交わされています。
そういった議論もとても大切で有意義だと思いますが、政治的歴史的な問題意識から離れて一人の人間としての皇室の方々を見ると、現代社会において国家・国民の象徴であり、民族の歴史性の具象である天皇家の一員となることは想像を絶する物理的・心理的束縛の環境におかれることでもあり、とても苦労と懊悩の多い公的立場だという思いがあります。





第一章 天皇

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 

第2条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。 

第5条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

第6条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。 

第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2.国会を召集すること。
3.衆議院を解散すること。
4.国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5.国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
6.大赦、特赦、滅刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7.栄典を授与すること。
8.批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
9.外国の大使及び公使を接受すること。
10.儀式を行ふこと。 

第8条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。

適応障害気分障害について詳細に知りたい場合は、id:cosmo_sophy:20050203などをご覧になってみて下さい。

過程の美学について語る流れで功利主義について触れましたので、次項で、過去記事の中の帰結主義功利主義についての記事を再掲しておきます。