所得獲得の経済活動を巡る倫理的パラドックス:スキーマを介在した価値命題の視線を通して


世界の本質に目を向ける時、私たちは自然世界に対して壮大や優美を感じその摂理に驚嘆するが、一度、本質探究のまなざしをゲゼルシャフト功利主義的な利益社会)としての人間社会へと向けると、閉塞感や不平等感を感じその秩序に何らかの不満や問題を感じる事が多いものです。

誰が考えても同じ結果に至る論理学的な真偽判断や論理的必然の推測に基づく数学の定理証明などには、人間の主観的感情が介在する余地がない為、論理学の真理表に憤慨したり、ピタゴラスの定理ユークリッド幾何学に不平等感に基づく怒りを表明する人はいません。
実証主義に基づいて一般理論を導出する自然科学領域の研究そのものの成果に対しても、不満や憤りを露わにする人はまずいないでしょう。
原理的に人間の主観的な感情や意見の干渉を受け付けず、民主的な数の圧力(政治的意志決定)をもってその成果を覆すことは不可能です。
自然科学の場合に問題となるのは、新たに構築された理論や発見された法則を技術利用する場合の倫理的問題であり、経済的な利害に対する権利獲得の競争でしょう。

世界の本質や経済社会の構造、精神機能のメカニズムに怜悧で精緻な考察のメスを切り込ませる時に、私たちの認知は、真偽に関する事実命題については偏向が少なく、善悪・良否に関する価値命題については歪曲が大きくなります。
社会生活を営む私たちが、『ある現象・制度・行為を正しいものであり、ある現象・制度・行為を間違っていると考える時』には、必然的にスキーマ(知的枠組み)*1を介在して受け取られた現実認識と付帯情報が価値判断を規定していくこととなります。

スキーマは、過去から現在に至るまでの人生の中で集積された情報の集積であり、その情報の集積によって学習された認知傾向そして価値判断の基本枠組みです。
どのように、客観公正な事実認識を自認して、普遍的な価値判断であるカントの定言命法*2に限りなく近い判断や評価を下す事が出来ると確信する自然科学者や論理学者であっても、現実社会に存在する無数の価値判断や利害対立を公正無私の精神で正確・公正に行うことは不可能です。
故に、人間社会における最終的な公的善悪の裁きとして、強制力をもって機能する司法判断は、宿命的に不完全なものであり、一方で判決の正当性に歓喜し感謝する者あれば、他方に判決の不条理に悲嘆し憤慨する者があるのです。

また、自然科学の成果である自然界に関する事実命題を、人間社会の価値判断や倫理規範にそのまま対応させることは自然主義的誤謬』に過ぎず、人間社会の善悪・倫理は、自然界の動物社会や食物連鎖をモデルとして成り立つわけではないことは誰にでも自明の前提であるはずです。

稀に、自然界の自然選択(自然選択)における適者生存を弱肉強食というセンセーショナルな言葉に置き換え、人間の文化文明を進歩発展させる為には弱肉強食の競争原理に従うべきだというラディカルな社会ダーウィニズムナチスばりの大量虐殺を是とする優生思想を主張する人もいるかもしれません。
しかし、人間社会と自然世界を全く同一の道徳律の支配の下に置こうとするのは、人間理性や共感感情を無視した暴挙であり、自然淘汰による進歩以外の相互扶助や社会保障といった別経路を辿って発展することが可能である以上、社会ダーウィニズムや優生思想による進歩史観は端的に間違っていることは明らかです。

現代社会の基本形は機能性と効率性の高いゲゼルシャフトであり、市場原理に基づく経済的諸関係によってライフスタイルの規定される社会ですから、市民の不公正感や不平等感が鬱積して倫理的批判や政治的問題の矛先が向かう大部分は“お金にまつわる問題”です。
特にここ最近、勝ち組や負け組といった皮相的な二項対立図式ばかりがクローズアップされてきたことを受けて、雇用形態による所得格差に拍車を掛ける若年世代のフリーター・NEETの増加現象が指摘され、それを助長する企業運営のあり方(合理性と効率性を最優先にして、人件費を極限まで削るようなダウンサイジングなど)の問題や長時間労働や単純労働を厭う若者の就労意識がしきりに取り沙汰されてきました。そういった雇用環境や若者のライフスタイルと就労意識、経済格差がマスメディアにおける公開議論や経済関連の教養書のテーマとされることも多くなってきました。
公的年金制度や社会保険制度の存続維持が困難であるとの予測もかなり前から指摘されてきており、将来不安の高まりや治安環境の悪化も問題になってきています。

雇用形態や職業選択、経済格差に関する世間一般の憂慮や不満は、“利益獲得の経路の選択と経済階層の固定化”といった要素に還元できるように思います。
利益獲得の経路とは簡潔に言ってしまえば、所得を獲得する手段や方法のことを意味します。

現代社会の経済活動において所得を獲得する方法には、大きく分類して以下の3種類があるのではないかと思います。



1.勤労所得……企業・官庁・病院などに勤務したり、自分自身が実際に働く個人事業を営んだりして、“給与・ボーナス”といった形で獲得する所得のことです。
社会の大多数の人の経済的収入は、勤労所得に依拠しており、近代の学校制度が行う社会適応の為の教育や訓練は、勤労所得を得る従業員や専門家を養成する為のものです。

2.不労所得……マンション・アパート・一軒家・土地といった不動産資本を賃貸することによって、実際に働かずに獲得する所得のことです。特許権の所有による使用料、著作、音楽、創作物、芸術作品など知的財産権の行使によって継続的に得られる印税のようなものも不労所得に含まれます。

3.ポートフォリオ所得……株式・債券・投資信託など有価証券の配当金や売却による差額利益による所得をポートフォリオ所得と言います。一時期、日本でも採用するか否かが議論された401k型年金は、このポートフォリオ所得による利益を老後の生活資金にしようというものですが、市場の動向によって配当や売却益が大きく上下するので、現在の機能している段階での公的年金よりも安定感において劣るとは言えるでしょう。

人間の経済活動に関する価値判断の類型はおおよそ上記3種類の所得に対してどのようなイメージを持ち、どの所得を公正で善良なものであると思い、どの所得を不公正で不快なものであると感じるかによって規定されてきます。
そして、その基本的価値判断の前段階にあるスキーマは、自分の置かれている社会的・政治的・経済的状況や立場によって大きく変容し、認知的不協和を回避する為の種々の心理機制が発動してくることとなります。
誤解のないように断っておきますが、上記3種類の所得獲得の経路についてどれが正しく、どれが間違っているかという事は、共産主義や自由市場主義など極端なイデオロギーに盲目的に依拠しない限りは、客観的・絶対的に判断することは出来ません。
しかし、どのような経済活動による所得を公正なものと考えるのかの個人差は、そのままその人の理想的社会観や世界観、人間としてあるべき姿を描くイデアや道徳規範に繋がってくるとは言うことが出来ると思います。

*1:現在に至るまでの経験と学習によって形成された認知傾向

*2:カントが『判断力批判』で示した定言命法とは、『汝の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ』という理性の命令のことを意味します。