所得獲得の経路と経済階層の固定化の相関関係と正義・公正の原理


id:cosmo_sophy:20050302において示したのは、現代社会の経済活動において所得を獲得する方法には、大きく分類して以下の3種類があるという事、そして、雇用形態・職業選択・経済格差に関する世間一般の不平不満が“利益獲得の経路の選択と経済階層の固定化”の要素に還元されるという事でした。



1.勤労所得……企業・官庁・病院などに勤務したり、自分自身が実際に働く個人事業を営んだりして、“給与・ボーナス”といった形で獲得する所得のことです。
社会の大多数の人の経済的収入は、勤労所得に依拠しており、近代の学校制度が行う社会適応の為の教育や訓練は、勤労所得を得る従業員や専門家を養成する為のものです。

2.不労所得……マンション・アパート・一軒家・土地といった不動産資本を賃貸することによって、実際に働かずに獲得する所得のことです。特許権の所有による使用料、著作、音楽、創作物、芸術作品など知的財産権の行使によって継続的に得られる印税のようなものも不労所得に含まれます。

3.ポートフォリオ所得……株式・債券・投資信託など有価証券の配当金や売却による差額利益による所得をポートフォリオ所得と言います。一時期、日本でも採用するか否かが議論された401k型年金は、このポートフォリオ所得による利益を老後の生活資金にしようというものですが、市場の動向によって配当や売却益が大きく上下するので、現在の機能している段階での公的年金よりも安定感において劣るとは言えるでしょう。


自由市場における競争によって経済格差が拡大し、持つ者と持たざる者に大きく二極分化していくという社会現象に対して、大多数の社会人(勤務者)の反応は一般的に反発的であり否定的であります。
しかし、数学、論理学の普遍的規則を根底におく“事実命題”の真偽を万人が承認せざるを得ないとしても、善悪・正邪、正義と悪、公正や不公正といった個人的価値観や社会的立場が大きく関与する“価値命題”についてジョン・ロールズ(John Rawls 1921-2002 アメリカ)が提示した『公正としての正義(justice as fairness)』の概念を大きく超越する事は至難なのではないでしょうか。


ジョン・ロールズが、彼の代表的著作『正義論』を上梓する事で、政治哲学史倫理学に与えた最大の衝撃そして功績は、19世紀にジェレミーベンサムJeremy Bentham 1748〜1832 イギリス)やジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill 1806〜1873 イギリス)の思想の流れを通して確立された功利主義(utilitarianism)の倫理的正当性』へ厳しく懐疑的な批判のまなざしを向けた事です。

功利主義が、個人の行為規範や共同体の倫理判断として重視するのは、『行為の結果として、幸福感に直結する快楽・利益が得られるか否か=帰結主義という事であり、『自分の好きな行為を選び、嫌いな行為を回避する事が出来るか否か=選好功利主義という事です。

倫理学としての功利主義を明快平易に説明すれば、『快と効用こそ善悪の判断基準であり、あなたの自由な行為の選択の結果として“利益・快楽・幸福”が得られるならばその行為は正しい』という正しさの尺度として説明でき、功利主義を国家・社会の政治運営に応用した場合には、ベンサム『最大多数の最大幸福』が民主主義との整合性の良さもあって勢力と説得力を増してきます。
実際問題として、民主主義国家における財政政策(再分配政策)や社会政策の意志決定には、最大多数の最大幸福のロジックが非常に強い影響力を持ち、大多数の市民の利便性を高め、豊かさを増進するような政治判断は公益性や公正性が高いと評価されることとなります。

功利主義が、人間社会の善悪や良否の倫理的判断基準として圧倒的に優勢であるのは、生物全体に普遍的に見られる生存欲求やフロイトの語る快楽原則に適っている事と、自由民主主義社会の政治的意志決定においては、多数決という原理故に、マジョリティの利益を中心として判断や決定が為されていきやすいからです。
民主国家における個人的利益と公共の福祉(集合的利益)の対立を止揚して統合するのは、非常に困難な政治判断を伴いますが、その困難な判断に付随する苦悩や迷いが、量的功利主義の倫理思想によって緩和されるという風に言い換える事も出来るかもしれません。

ジョン・ロールズは、功利主義批判の前提として、“中国語の部屋”(id:cosmo_sophy:20041229)の例示によるチューリング・テスト批判で有名なジョン・サールの言語行為論の成果を継承した立場をとり、“原初的位置”と“無知のヴェール”という概念装置を用いて、正義の第一原理を定立しようと企てます。
言語行為論の前提を踏まえて功利主義の妥当性を考えると、個別的な行為の結果の利益や損失で善悪を判断するような“帰結主義(行為功利主義)”よりも、一般的に妥当する規則・規範の受容段階において善悪を判断する“義務論(規則功利主義)”のほうが、より正当性や正義性について本質的な説明を与えるものであるとしました。


国民国家及び市民社会は、それを構成する個人が自分の自然権(自己保存の権利)を保護する為に、自由意志に基づく契約を結ぶ事によって成立するという社会の起源に関する言説を『社会契約説』と呼ぶが、ジョン・ロールズの主著『正義論』(1971)は、そのような社会契約説の伝統を汲んで社会正義を考察する書である。

社会契約とは、個人の権利(主権・権力)を一旦、国家や政府といった主権者に委譲若しくは信託するという契約であり、その契約を結ぶ事によって国家権力の正当性が確立され、諸個人の権利は強力な国家主権によって保護されます。
その一方で、大多数の権利侵害というような正当な理由なく国家権力を否定する行動は反逆罪として処罰され、社会秩序を揺籃する行為は犯罪として規制されるようになります。
一度、社会契約が成立して国家・政府が誕生すると、原則として、社会構成員である個人は、選挙による政権交代や議会における法改正といった正規の手続きを踏まない限りは、政府による政治的決定や法的規制に対して抵抗することが不可能になります。

社会正義の実現にとって最も優先すべき事項は、『公正かつ公平な社会運営のルール(規範)の制定』に関する討議であり交渉であるとロールズは言います。
公正な社会運営のルールの制定に関する議論が行われる場所は、自分がどのような能力・資質・健康・容姿・気質を持つ人間か分からず、どのような経済階層・社会的地位・生活水準に所属しているかも明らかにされていない無知のヴェール(the weil of ignorance)に覆われた場所です。
全ての人が無知のヴェールによって個人情報を隠蔽されている原初状態(original position)で、どのような社会正義や社会運営の基本ルールを採択すべきなのかが話し合われると想定すると、その話し合いは必然的な論理的帰結として『正義の二つの原理』へと辿り着きます。

自分がどのような才能・資質・健康を持っていても、どんな経済階層・社会的地位・生活水準に帰属していても、まず最初に望まれるのは、政治的・個人的・精神的な自由が社会構成員全員に認められていることであると言います。
これを『平等な自由の原理』として、正義の第一原理とします。

政治的・経済的・精神的な自由が構成員相互に保障されていれば、必然的に市場経済や生活領域における自由競争が起こり、権力・地位・所得・資産・人的資源・異性などを巡って熾烈な競い合いが見られるようになります。
自由競争は、より強い権力を持つ者、より高い社会的地位に就く者、より多くの所得を得る者、より大きな資産を所有する者、より沢山の人間を雇用する者、より多くの異性を惹きつける者を生み出し、権力・財産・所得・異性獲得の不平等が発生します。

政治的・経済的・社会的な格差の発生は、資本主義経済を採用する自由主義社会の宿命ですが、私たちは自分がどれだけの権力・所得・魅力を持っているか分からない無知のヴェールに覆われた原初状態では、『自分が社会的弱者になる可能性を考慮に入れて、大きな不平等と格差の縮小・是正を求める』ルールを採用する必要性を感じます。
これが実際の政治活動として具現化されたものが、社会保障政策であり福祉国家構想であると言えるでしょう。
これを『格差原理』として、正義の第二原理であるとロールズは考えました。

格差原理は、自由競争の結果生じる格差や不平等をありのままに承認する正義の原理ではなく、『その格差が機会の平等が保証された社会で、公正な競争の結果として発生した格差であること』『社会の中で最悪の生活水準に困窮する人たちの、生活水準を最大限改善する施策を取るべきとするマキシミン・ルールを採用していること』を前提として格差が承認される『公正としての社会正義の原理』です。

無知のヴェールの下では、あなたも私もいつ社会の中で最悪な生活状況に追いやられるか分からないし、生まれながらに絶望的な経済的社会的環境に置かれる可能性が十分にあります。
だからこそ、公正としての正義の構想を実現する為には、自分を最も受け容れ難い生活コンテキストにおいてどのような社会のルールが望ましいかを考えなければならず、その結果として最低ラインの生活環境を最大限改善するようなマキシミン・ルールが採用された社会が公正な社会であるとされます。

このマキシミン・ルールが採用された社会を現実の社会に当て嵌めて考えると、最低限度の文化的生活を保障するセーフティネットが十分に張り巡らされた社会、即ち、何度、自由市場経済の競争で打ち負かされても復活することが可能な社会であるという事になります。


持つ者を勝ち組と呼んで理想化し、記号的印象付けによる付加価値を与え、持たざる者を負け組と呼んで劣等感を煽り、記号的な印象操作を行う目的が、国際的規模における政治的な意図なのか経済的な趨勢なのか、あるいは単に、著作者の印税利得の為なのかは定かではありませんが、人間の存在や精神を認識解釈するフレームワークとして勝ち組・負け組という語を選択することは、カール・マルクス階級闘争の亡霊を召喚するようなアナクロニズム(時代錯誤)を感じます。

哲学史上において二項対立図式によって、世界の根本原理を効率的かつ説得的に展開する理論は、もっともありふれたものである。
アリストテレスの形相と質量、デカルトの延長と精神、カントの現象と実在、仮象と実体、キリスト教神学など宗教が説く聖性と俗性、善と悪、光と闇、近代精神が反目させる理性と感情、東洋思想の根幹にある陰と陽の対立などの二元論(dualism)を用いる最大の理由は、世界の成り立ちや構成を単純化して把握しやすくする為であり、対照的・対極的な概念を配置する事によって直感的に世界像や社会像をイメージする事が私たちの認知フレームに非常に適合しているからです。