ブログにおける議論の促進と抑制の原理


むだづかいにっき♂さんに、何でもかんでも総ブログ化計画:【募集9】批判や反論……を題材にした“批判や反論……大人の対処法は?”という興味深い記事があったので、インターネット内のブログやウェブサイトの掲示板などにおける議論の促進と抑制について考えてみたいと思います。

まず、議論の場に参加する論者達に、『議論とは何か?』という合意が相互に出来ていない場合には、議論に誹謗中傷・罵倒・侮辱といった議論する内容とは無関係のノイズが多く混入してくる可能性があり、建設的な価値創造的な議論は出来ないでしょう。


議論といいながら議論になっていないこともあります。一部の掲示板では、攻撃・誹謗中傷を「議論」や「表現」といった言葉で覆い隠し、それを無視したりすると「逃げた」とか言い出すような人たちだっています。また、議論の論点が全然かみ合っていなかったり、いつのまにか人格攻撃に走ったり、あるいは人格攻撃ではないのに人格攻撃しているかのように論点をずらしていったり。ちょっとした言葉づかいでもずいぶん変わってしまいます。

何でもかんでも総ブログ化計画

『議論とは何か?』を考えると、二人以上の人間が、ある議題について話し合うことに過ぎず、最終的にどのような結末に至るかは保障されていません。
民主主義政体の議会における議論は、議論過程において激しい批判や暴言があろうとなかろうと、最後には多数決に基づく決議を取る事によって合意を形成することが前提とされています。
ブログにおける批判や反論が、ブログ炎上といった非建設的な泥沼の結末に行き着きやすい原因の一つが、政治的意志決定のように合意形成の手順が定められていない事、つまり、何処で議論が終わるのかが不明瞭な事だと思います。
罵倒や誹謗中傷が飛び交う他者否定の泥沼状態に嵌まり込むケースの多くにおいて、“議論の落とし処の遅延”が行われ“議論の目的の喪失”が起こっています。

更に言えば、議論本来の目的が喪失されることによって、そもそも合意を形成する必要性のない問題である“個人の価値観・信念・人格性”へと問題意識が遷延していき、“議題に対する見解”ではなく“議題に向かう態度”へと反論内容が移っていきます。
具体的には、文献書籍を参照したり、事実の有無を関係者に確認したり、数学的な計算や統計処理をする事で、客観的に真偽を検証することが可能な問題を議論している場合には、“議題に対する見解”に終始して、丁寧な言葉遣いで誤謬や不足を指摘すれば議論が紛糾することはないように思えます。
そこで、指摘された方の態度(素直に間違いを認めないとか態度が尊大で傲慢であるとか)を問題にし始める事によって、“議題に向かう態度”に問題意識が移っていくことになります。

しかし、客観的に真偽を検証することが可能な問題というのは『天体の観測結果から、プトレマイオスの天動説よりもガリレオ・ガリレイの地動説の方が科学的に妥当である』『元素記号周期表は、H,He,Li,Beから始まる』『ヨーロッパにおける近代国民国家概念の誕生は、1648年のウェストファリア条約の締結による国家主権の相互承認とされる』といった自然科学や歴史年表などに関する理想的な極めて稀なケースです。
実際には、『どちらの立場に立っても意見を述べることができ、ある程度、反論に堪える根拠を提示できる政治・経済・歴史解釈・倫理道徳などの問題』を巡って説得力・信憑性の大小を競い合っているものが多いですので、主観的な価値観や問題解釈の優劣が問われている事となり、自然に議論はヒートアップしていく可能性が高まります。

ヒートアップした議論で用いられる挑発的な『議論からの逃走』という非難は、正々堂々とした態度の否定、直面する問題と向き合えない臆病さ、自らの誤謬や見識の低さを認められない器量の小ささといった『人格的価値の引き下げ』と密接に結びついていますから、“逃げた・逃げないの次元”で問題を語りだすと収拾がつかない事態に立ち至り、議論すべき内容が出尽くしても引き際を定めることが難しくなるかもしれません。

一旦、議論に深入りして、相手の中核的な価値観や譲れない強固な信念に踏み込んでしまうと、必然的に、主観的な価値観と事象解釈の優劣を競い合う『引くに引けない事態』に立ち至る可能性がありますから、その事態を恐れるあるいは面倒に思う人は『議論に対する抑制』が起こります。



どうも議論そのものを嫌がる風潮があるのではないかという話になりました。でも、その社長さんは、意見の食い違いがあるならとことん議論すればいいんじゃないか、という考えを持っていました。もっとも、議論の仕方が下手な人が多すぎる、という結論にはなったのですが。

何でもかんでも総ブログ化計画

私は、インターネット内部の個人運営のブログ、ウェブサイトなどの言説空間において必ずしも議論そのものを嫌がる風潮が支配的になっているとは思わないのですが、議論そのものを敬遠する『議論に対する抑制』が起こる原因は、大きく分けて3つあると思います。

2ChやYahoo!などの掲示板を拝見すると、建設的であるか否かは別として、他者と議論する事、意見を戦わせる事にある種の快楽を感じる人は、相当数居ると思います。
ただ、企業が運営している掲示板では、むやみやたらに激論を戦わせる人であっても、自分が運営するブログや掲示板では穏やかな対話をしていたりする事も多いのではないかと推察します。
それは、自分のブログでは匿名性の恩恵を十分に得られず、ブログの継続的運営に支障を来したり、的外れな暴言を吐いて自分自身の人格評価を下げる事を考慮してのことでしょう。



個人運営のブログ・ウェブサイトにおける議論抑制の原因

1.ブログの継続的運営が困難になるのではないかという懸念

匿名であっても、HNと人格的価値が密接に結びついているような人である場合には、HN人格が罵倒されたり否定されたりする事で、自尊心や表現意欲を喪失し、ブログ閉鎖に至る可能性がある。
議論当初から、あからさまな悪意を示して、まともな議論を行う意図のない俗に言う“アラシ”を誘引して、自分のブログ・ウェブサイトがアラシの罵詈雑言で埋められるのではないかという不安。

2.議論そのものに有効性や価値を見出していない場合

議論する事によって得られる“多面的な見解”や“新たな視点”、“思考・解釈の深化”“他者と語り合う楽しさ”といったものに有効性や価値を見出していない為に、議論そのものをすることが無意味だと考えている。
科学主義的価値観や論理実証主義のスタンスを取っている人の場合には、客観的に真偽を検証することが不可能な形而上学的な命題について言い争う事に徒労感を感じる事もあると思われる。
この考え方に至っている運営者の場合には、コメント欄を閉じている場合も多いだろう。

3.議論を行う時間的・精神的余裕の不足

相手からの真摯で適切な反論、綿密な資料調査・文献読解に基づく誤謬の指摘、精緻な論理的思考による矛盾の指摘、説得力のある客観的根拠を提示した批判などは謙虚に受け止め、改めるべきところは改めるが、その反論・指摘・批判に対して丁寧に適切に返答するだけの時間的・精神的余裕がない為に、議論を深めるモチベーションが低くなっている場合。
または、自分なりに十分な熟考・考察を施して書き上げた記事であり、その記事を公開した瞬間に、その人の中で、その問題意識が既に完結している場合には、再考や議論をする意欲が湧かない事もあるだろう。
問題意識や興味関心が次々に湧き起こってきて、絶えず次の問題やテーマについて考えたいと思っているような人も、長期戦に展開する恐れのある議論を抑制する傾向があるだろう。

ブログにおいて、激しい反論の応酬や批判のやり取りを敬遠する人達の心理過程としては、『議論による認識深化よりも対話による同調欲求が強い状態』と言えるのではないかと思います。
一般的に、共感的友好的な人間関係によって成り立つ閉鎖的コミュニティ化が進行すれば、明示的な批判や反論は起こりにくくなり、議論をするにしても最低限の礼節や好意を前提として穏やかな雰囲気の中で行われる事になります。
その場合には、議論本来の目的である『多面的な見解の提示』『新たな認識の発見』『思考・解釈の深化』『より良い結論の模索と適切なレベルでの合意形成』といったものは重視されなくなりますが、安心して自分の意見や考えを発表でき、同調欲求の充足によって自己肯定感が強化されるメリットを得ることが出来ます。


議論好きな人、議論を促進する傾向がある人にも、二通りの目的意識があるのではないかと考えています。
そして、その二通りの目的意識によって、建設的で価値創造的な議論になるのか、破滅的で相互否定的な議論になるのかが規定されてくることとなります。


建設的で価値創造的な議論を促進する傾向がある人の目的意識と性格傾向

1.個人の人格評価よりも議論の発展深化に興味があり、大勢の人の意見・考えを聴く事に意義があると考えている。
議論によって自らの正当性や優越性を顕示しようという優越欲求に基づく意図が、あからさまには感じられない。

2.議論本来の目的である『多くの人の多様な意見の中から、新たな情報や知識を吸収して、より良い事象や問題の認識に至ること』を絶えず念頭に置いており、反論や批判をする相手の中に自分に対する悪意を認知しない。
つまり、社会心理学で言うところの『悪意帰属バイアス』を、議論の趣旨に立ち返ることで最小限に抑えている。

3.相手に不快感や屈辱感を抱かせる挑発的な言語表現を選択せず、言葉遣いが洗練されていると同時に、相手への敬意や友好を暗黙裡に感じさせる文体・言い回しである。

4.相手に自分の意見・考えへの同意・承認を無理に求めず、強引な合意形成や結論の提示を行わない。

破滅的で相互否定的な議論を促進する傾向がある人の目的意識と性格傾向

1.議論の発展深化よりも相手の人格評価を引き下げる事や、自分自身の意見の正当性や見識の高さを相手に突きつける事に関心を持ち、意欲的である。
大勢の人の多面的な意見・考えを聴いて、自分の認識を深めたいというよりも、自分の意見や考えを大勢の人に聴かせて、承認や評価を得たいと考えている。承認や評価への欲求充足の道具として、優劣判断を前提とした議論の場を利用している。

2.議論本来の目的である『多くの人の多様な意見の中から、新たな情報や知識を吸収して、より良い事象や問題の認識に至ること』には無関心であり、反論や批判をする相手の内面に自分に対する悪意や侮辱を頻繁に認知する。
相手が悪意に基づかず、親切で間違いや勘違いを指摘してくれた場合でも、『自分に恥をかかせるつもりで誤謬の指摘を行った』というような悪意帰属バイアスに基づく認知を行ってしまう。

3.相手に不快感や屈辱感を抱かせる挑発的な言語表現を意図的に選択し、言葉遣いが粗野であると同時に、相手への敵意や嘲笑の思いを明示的に表現した文体・言い回しである。

4.相手に自分の意見・考えへの同意・承認を無理に求めて、強引な合意形成や結論の提示を行おうとする。一方的な勝利宣言や遁走宣言など。


私達が他者と対話や議論を行う心理の背景には、『自分自身が現在までの人生で積み重ねてきた知識・経験・価値観が、客観的に正しいものであって欲しい。自分の知識・経験・価値観が、他者にもある程度通用する普遍性を備えていて欲しい』という承認欲求が必然的に存在しています。
それ故に、議論における他者からの肯定的評価や好意的態度は、私達に承認欲求が満たされる快楽をもたらし、共感と連帯による満足感へとつながっていきます。

しかし、その甘美な承認欲求と拮抗するアンビバレントな形で『自分一人の思索では思いつかなかった新たな視点や解釈が存在するのではないかという期待・今までに得られなかった有意義な知識や見解に遭遇することが出来るのではないかという好奇心』も存在しています。

議論により自らの誤謬や錯誤を指摘されることによる進歩発展、新たな見解やより適切な価値観を提示されることによる劇的な認知の転換には、自己の知識・経験・価値観が一時的に否定される若干の痛みや不快が伴います。
しかし、悪意のない認識の発展深化につながるような批判によって得られる果実は、承認欲求の充足によって得られる果実とは一味違った長期的な価値や充実をもたらすかもしれません。