命題論理学と世界の写像としての言語

論理学とは、正しい推論の在り方を対象とする学問であり、現代論理学は、形式的な体系が示す様々な性質や真偽判断に関するものと考えられる。
論理学の中には、いろいろあるが、僕はそんなに論理学に明るくないので、代表的な命題論理学をかじった程度しか知らない。
命題論理学というのは、真偽判断可能な命題(文章)の推論や真偽判断に関する論理学の一分野である。

命題論理の形式には、証明不要で極めて自明な『公理』と命題に普遍的な『推論規則』が存在すると考えられる。
その公理と推論規則に基づいて『定理』が導き出される。定理とは、公理よりも自明性や確実性において劣るもので、証明可能な命題論理式のことと定義される。公理そのものは疑うことに意味がない論理の前提とでもいうべきものである。『直線の角度は180度である。三角形は、3つの辺で作られる図形である』などは公理で、それは証明する必要がない。

要素命題記号には、真理値(真または偽)を割り当てることができて、命題論理式は、構成要素である要素命題記号に何らかの真理値を付与したとき、自らの真理値も決定される。これを『真理関数』と呼んだりする。

命題論理式の、要素命題と真理関数を簡単にわかるように表にしたものが『真理表』というものである。
また、真理関数には、命題を構成する要素がどのような真理値をとっても、必ず真となる特殊なものがあり、これを『恒真式(トートロジー)』といいます。
トートロジーは一般的な日常の言葉では、『どんなときにも正しい表現、いつも真である表現だが、同じ内容を繰り返しているに過ぎず論理的に無意味な言明』とされて、『同語反復・同義反復』といいます。
『生きている生物には、生命がある』『学校に勉強の為に通っている人は、学生である』『人間は、虫ではない』などはトートロジーで、いつも真なる命題(文章)ですが、実際には主語と述語で同じ内容の表現を変えただけであり、情報量は増えず無意味な命題といえる。


ウィトゲンシュタイン写像理論では、言語は世界そのもの写像であると考えられていて、世界にあるものや起こる出来事は全て必ず一群の要素命題からなる一定の真理関数にまで分析することが可能である。
そして、有意味な命題・真理関数の形式的な秩序こそが論理であり、論理は単なる言語としての形式の特質だけではなく、実際の世界の写像形式として存在している。

僕たちは、世界との相互的な関係の中で、言語記号を使用して、世界を記述し表現し理解している。
人間存在の最も基本的な存在様式、認知方法として『言語による世界理解』があるとウィトゲンシュタインは考えた。
論理とは、僕たちが経験によって学習し習得するアポステリオリなものではなく、経験に先立ってあるアプリオリ(先験的)なものなのだ。論理は、写像が従うアプリオリな規則であり秩序だと考えられる。
ウィトゲンシュタインの論理学は、『論理哲学論考』以降は、言語の使用の問題すなわち言語ゲームの考察へと向かっていくことになる。