民主主義の虚構

最近、衆議院参議院も選挙の投票率が50%を下回り、参政権という近代市民社会が実現した主権在民国民主権の権利を自ら手放す人が増えている。
しかし、民主主義の大原則は社会構成員の大多数の意見を政策に反映させて、少数の特権階級の横暴や独裁を防ぐ事にあるのだが、実際の先進国の民主主義は実質的には『大多数の民意の反映』として機能していない。

投票率が50%であれば、全体の25%の民意が政治に反映されるのみで、75%の民意はスポイルされて無視されるわけである。
当然、これは参政権を自ら放棄して政治に無関心になり、期待も希望もなくなっている国民の自己責任ではあるのだが、なかなか面白い現象だ。
社会を運営する政治権力を行使する政治家や政党は、実際には大多数の民意など全く受けておらず、政治に熱心な団体・組織・企業の構成員が、自分の所属する組織・企業・団体が推薦する政治家に無批判に投票した結果である可能性さえあるのだ。
少なくとも、公明党に投票するのは創価学会の会員以外では非常に奇特な人だろうし、共産党に投票するのは共産党系の組織に属している人かよほど現在の生活に不満があって、資本主義的な体制が嫌いな人だろう。

自分自身の頭で考えて、基本政策、人格、功利、福祉、教育など様々な判断基準を元に投票行動している人の有権者に占める比率はおそらく10%もないのかもしれない。
おそらくは、単純な現状維持=自民を中心とする保守系と単純な現状否定=民主を中心とする野党系という判断しかない。
二大政党制が先進的な政党政治だとか成熟した民主主義国家だなんていう政治評論家の意見を盲信することはやめたほうがいい。
二大政党制とは、有権者の事実上の選択肢を奪う体制であり、いったん、二大政党制になるとアメリカのようにもう大幅な変革や体制の変更は不可能になるという事を意味する。
基本的な枠組みと方向性が決定されている中で、僅かながら政策が異なる自民党民主党という政党しかなくなり、時が流れるにつれて、それはアメリカの共和党民主党のようにそれほど明確な差異がなくなってくる。
例えば、日本で言えば、憲法問題にしても自民党民主党憲法改正を政策理念に掲げれば、二大政党制の場合にはそれにはどんな方法をとっても逆らえなくなる。これが、仮に戦争を可能にする法案だったり、徴兵制度だったり、残酷な身体刑の導入だったりしたらどうなるだろう?
少しでも想像力がある人ならば、二大政党制の抱える本質的な問題点に思い当たるはずなのだ。

しかし、現代の日本のように政治に対する興味関心が乏しく、熱意も枯れている国では、個性的な政策、魅力的な政治家を抱える政党が群雄割拠する状況はもう望めない。
残すは、無個性な二大政党制か、無気力で享楽的な衆愚政治への道しかないのだろうか。
ちょっと悲観的過ぎるが、民主主義制度の抱える限界と、国民の主権者意識の低下はかなり大きな問題だと思う。