言語と論理と世界について考える

論理学の入門書をいつか暇を見つけてもう一度じっくりと読み直してみたいとウィトゲンシュタインの言説の周辺を巡りながらふと考えた。
『論理的に物事を考えなさい』とか『物事は論理だけでは決まらない』とか日常的に様々な事が言われていますが、実際には人間は論理を外れては物事を考えられないはずなのです。
つまり、自分自身の論理を無視して言葉を話した場合には、とても奇妙な感じがするし、他者にも意味を伝えられない。

また、『論理的な態度』と『感情的な態度』を対立させる人も多いですが、本来、論理的な態度とは言語の規則的な必然性に従い正しい推論をするという意味であり、感情的な態度とは相手に対する同情や共感を中心として社会的な公益や道徳とは異なる特別な取り計らいをするといった意味で用いられます。
つまり、感情的な態度は必ずしも論理的な態度の対極ではなく、感情的な人は感情的な人なりに論理に従った行動をしています。

例えば、『私はわがままな人とは一緒に遊びたくない』『彼女はわがままである』『故に、私は彼女とは遊びたくない』という思考過程や『私は自分に逆らう相手を罵倒する』『彼は私に逆らって反論した』『故に、私は彼を激しく罵倒した』という思考過程は、その行動の結果は感情的なものですが、思考過程を冷静に辿れば普遍性はないものの、一定のその人特有の思考過程を辿っています。


哲学的問題を、言語表現や概念の分析を通して考察する学問を『分析哲学』といいますが、分析哲学アメリカやイギリスといった英語圏で流行し発展しました。

分析哲学には、『論理分析学派』と『日常言語分析学派』というものがあります。

  • 論理分析学派

フレーゲの命題論理や述語論理からラッセルの記述理論につながる流れの学派である。
哲学的な問題で解決困難なアポリアは、日常言語の表面的な形式に惑わされて生じるので、正しく論理的な流れを追って分析すれば解決する事が出来るとする。

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』では、日常言語の命題を究極的な構成要素まで論理的に分析する『論理的原子論』が提唱された。
ウィトゲンシュタインはこの方法によって形而上学的の命題が無意味であることを証明できると考えていたのである。

ただし、同じ論理分析という作業をしたラッセルとウィトゲンシュタインは根本的な言語に対する認識が異なっていて対立している。

  • 日常言語分析学派

一般的に世界の論理形式や言語の普遍的規則は、日常言語を用いた会話のやり取りの中で習得される。ウィトはそのような日常言語への信頼感をもって、言語ゲームの記述と分析を通して、日常言語の概念や使用によって生まれる哲学的問題を解決しようとしたのである。
ウィトゲンシュタインは、伝統的な哲学の難問は、間違った言語の認識や使用法によって生じると考えた。