フランダースの犬

フランダースの犬 Copyright (C) 2003 Kojiro Araki (荒木 光二郎)
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今日は、童心に返ってというわけではないのだけれど、何となくウィーダの『フランダースの犬』が読みたくなって読み始めると一気に読了してしまった。
小さな頃にテレビアニメで見たフランダースの犬は、貧しくて過酷な運命にある誠実で純粋な少年ネロと可愛がってくれるネロに忠実で優しい力持ちの愛犬パトラッシュの悲しく切ない物語といった印象だったが、この物語の裏には封建制度が抱える不条理や身分差別による実らない悲恋があるという感想を持った。


ネロとパトラッシュは、この世で二人きりでした。

 彼らは、実の兄弟よりも仲のよい大の親友でした。ネロは、アルデンネ(訳者注ーベルギーの地名)生まれの少年でした。パトラッシュは、大きなフランダース犬でした。どちらも年は一緒でした。けれども、ネロはまだ若く、パトラッシュはもう年寄りでした。彼らは生きている間、ほとんど一緒に暮らしていました。どちらも両親を亡くし、非常に貧しく、同じ人の手で養われていました。初めて出会った時から彼らを結びつけたきずなーーそれは共感のきずなでしたがーーはあったのでした。そして、その共感のきずなは日を追う毎に強まり、彼らが成長するに従い成長し、しっかりと切り離すことができなくなりました。そして、ついには、お互い深く深く愛し合うようになったのでした。

―――――(中略)―――――

二人にとって、パトラッシュは、すべてでした。
 二人の宝庫であり、穀倉。
 二人の黄金の店であり、富の杖。
 二人のパンーーかせぎ手であり、召使い。
 二人の唯一の友だちであり、慰め。

『ネロとパトラッシュは、この世で二人きりでした』というのは、何と悲しくて何と切ない物語の始まりなのだろう。
ネロにとっての広大な世界、ベルギーの社会がどこまでも非情で、渇いた砂漠のように殺伐としている事を象徴的に示していると同時に、絶対に裏切らずに最期まで側にいてくれた優しくて信頼できる忠実なパトラッシュとの愛情を表している。
とりたてて、犬好きでない人でも、パトラッシュのひたむきな忠誠心と思いやり、人間の感情や考えを何とか洞察しようとする姿には、心を打たれるのではないかと思います。



フランダースの犬は、皮は黄色で、頭と手足は大きく、まっすぐに立ったおおかみのような耳をして、足は曲がり、何世代にもわたる厳しい労働によって発達した筋肉を持っていました。パトラッシュは、フランダース地方で何世紀にもわたって先祖代々酷使される種族の子孫でした。奴隷の中の奴隷であり、人々にこき使われる犬畜生であり、荷車を引くのに使われる獣でした。彼らは、荷車の苦々しさに筋肉を痛め、道の敷石で心臓が破裂して死んでいったのでした。

中世の強制的に労働に駆り立てられる悲惨な境遇の犬たち・・・奴隷の中の奴隷として、散々に罵倒され、身体を鞭で打ち据えられて働かされる犬たち・・・こういう歴史的な動物虐待や虐殺に触れるときに、ピーター・シンガーという倫理学者の『動物の権利(animal's right)』について考えたくなります。


幸か不幸か、パトラッシュはとても丈夫だったのです。パトラッシュは、鉄の種族の生まれでした。その種族は、情け容赦のない労苦に従事するために長年繁殖させられたものでした。そういうわけでパトラッシュはひどい重荷を負わされ、むちうたれ、飢えと渇きに苦しめられ、なぐられ、ののしられて、すっかり疲れ切ってしまっても、何とかみじめに生き長らえることができたのでした。こうした苦しみが、もっとも忍耐強く、よく働く四つ足の犠牲者に対してフランダースの人間が与える唯一の報酬でした。

―――――(中略)―――――

パトラッシュの持ち主は、ときどきパトラッシュの腰に鞭をぴしっと打つ以外は、パトラッシュのことなど気にもとめずにぶらぶらと歩いていました。このブラバント生まれの男は、道ばたで居酒屋をみつけるたびにビールを飲むために立ち寄りました。けれども、パトラッシュが運河で水を一口飲むために一瞬でも立ち止まるようなことは、許したりはしませんでした。パトラッシュは、こんな状態で、かんかんでりの中、焼けるような街道を歩いていきました。パトラッシュは二十四時間何も食べず、もっと悪いことには、十二時間近くも水も飲んでいなかったのでした。ほこりで目がくらみ、むち打たれた傷は痛み、情け容赦のない重荷に感覚がなくなり、パトラッシュはよろめいて口から少しあわをふいて倒れました。

 パトラッシュが倒れたのは、日差しの強烈なまぶしい光を浴びた、白い、埃っぽい道の真ん中でした。パトラッシュは病気で死にそうになり、動かなくなりました。彼の主人は彼が持っていたただ一つの薬を与えましたーーそれは、パトラッシュを蹴り、ののしり、そして、樫の木の棍棒でなぐることでした。これらは、これまでもしばしばパトラッシュに提供されるただ一つの食べ物であり、報酬でもあったのです。しかし、パトラッシュはどんな拷問も悪態も、手の届かないところにいました。夏の白いほこりの中で、パトラッシュはどう見ても、死んだように横たわっていました。しばらくして、いくら肋骨をけとばしても、いくら耳元でどなりつけても役に立たないと分かり、このブラバンド生まれの男は、パトラッシュが死んでしまったか、死にかけていて、誰か死体の皮を剥いで手袋を作らない限りはもう役に立たない、と思いました。そこで、別れのはなむけにはげしくののしり、引き具の皮ひもをとりはずし、パトラッシュの体を道路の脇の草むらまでけとばしました。それから激しく怒り、ぶつぶつと不平をこぼしながら、上り坂をのろのろと荷車を押していきました。このように死にかけた犬は置き去りにして、ありがかんだり、カラスがつついたりするのに任せておきました。

何の報酬も期待できず、何の希望も将来に抱く事が出来ず、ただただ乱暴で卑劣な主人に虐待されるパトラッシュの姿が痛ましく、悲しい。動物がただ人間の為の道具として使用される現実は現代にもあるけれど、必要以上の苦痛や虐待を与える事はやはり非難されるべきであり、法的にも規制されるべき問題なんでしょうね。
しかし、何故、人間は戦争にしてもこういった動物虐待や人間の虐待、いじめ、無差別快楽殺人などにしても、かくも残酷で無慈悲になれるのだろうか・・・平和ぼけした僕のような日本人には他者を徹底的に攻撃して痛めつけ、屈辱を与える為に罵って侮辱し、長い時間にわたっていたぶり続けるという感性や人格がなかなかピンとこないものがあります。


この傑出した巨匠の偉力は今でもアントワープの町に残っています。狭い道に入り込むといつもルーベンスの栄光がそこかしこに感じられます。そして、どんないやしいものでも、ルーベンスの栄光によって変容するのです。曲がりくねった道を進むとき、淀んだ運河の水のそばにたたずむとき、そして騒がしい中庭を過ぎるとき、ルーベンスの魂が私たちにまとわりつき、ルーベンスの堂々とした美の幻影が、私たちのそばにあります。そして、かつてルーベンスの足取りを感じ、ルーベンスの影を映した石だたみは、今にも起きあがって生き生きした声でルーベンスについて語り出すように思われるのです。ルーベンスのお墓があるというだけで、アントワープの町は今も有名です。

「あれを見られないなんて、ひどいよ、パトラッシュ。ただ貧乏でお金が払えないからといって!ルーベンスは、絵を描いたとき、貧しい人は絵を見ちゃいけないなんて、夢にも思わなかったはずだよ。ぼくには分かるんだ。ルーベンスなら、毎日、いつでも絵を見せてくれたはずだよ。絶対そうだよ。なのに、絵を覆うなんて!あんなに美しいものを、覆って暗闇の中に置いておくなんて!絵は、人の目に触れることがないんだよ。誰もあの絵を見る人はいないんだよ。金持ちの人が来てお金を払わない限り。もし、あれを見ることができるのなら、ぼくは喜んで死ぬよ。」

「ネロや、おまえが大きくなって、この小屋と小さな畑を自分で持って、自分で働いて、近所の人からだんな、と呼ばれるようになったら、私も安心してお墓にいけるというもんだよ。」
 ジェハンじいさんは、ベッドに横になりながらよくこういったものでした。というのは、ちょっとした土地を自分で持って、まわりの村人たちからだんな、と呼ばれるのが、フランダースの百姓にとって、最高の夢だったからです。ジェハンじいさんは、兵士として若い頃はいろんな場所をあてもなくさまよって、何も持ち帰りませんでしたが、年をとると、同じ場所につつましやかに満足して暮らすことが、望みうるもっともいい運命であると考えるようになったのです。けれども、ネロは何も言いませんでした。

 その昔活躍したルーベンスやヨルダンス、ヴァン・アイク、そのほか驚異の種族と同じ天分が、ネロの中に息づいていました。近年では、緑のアルデンヌ地方ーームーズ川がディジョンの町の古い城壁を洗うところーーは、英雄パトロクロスギリシャ神話の英雄で、アキレスの親友)を描いた偉大な芸術家を生み出しています。けれども、その画家の才能は我々の時代に近すぎて、その才能を適切に判断することは難しいのです。

「おまえは、いつもこんな馬鹿なまねをしているのか?」
 粉屋は尋ねましたが、声は震えていました。

 ネロは、赤くなってうなだれました。
「ぼくは、目に入るものは、なんでも描きます。」
とネロはつぶやきました。

 粉屋は、黙っていました。それから、粉屋は1フランを手に持って差し出しました。
「今言ったように、これは馬鹿げたことだぞ。とてもよくないことだ。時間の無駄だ。けれども、この絵はアロアそっくりで、お母さんは喜ぶだろう。この銀貨でこの絵をおれに売ってくれ。」

「こうするのが一番いいのだ。あの若者はほとんど乞食同然だ。おまけに、夢みたいなことばかりなことばかり考えている怠けものだ。これから先、どんな間違いが起こるかも知れないからな。」
 粉屋の年齢からみれば、粉屋は賢明でした。そして、ごくまれに、特別のはれがましい儀式のようなことがないかぎり、ネロに対して扉を開けようとはしませんでした。そのような儀式のときは、二人が暖かく笑いあったりするようなことはできませんでした。

 けれども、ネロは不満を言いませんでした。おとなしくしているのがネロの習慣でした。年取ったジェハン・ダースは、これまでもネロにこう言ってきました。
「わたしたちは、貧しいんじゃ。神様がくださるものを、よいものでも悪いものでも、受け取らなければならないよ。貧しい者は、選択をすることができないんじゃよ。」

少年は、年とったおじいさんを尊敬していましたので、いつも黙って聞いていました。それにもかかわらず、よく天才少年の心がとらえられる、ある漠然とした、甘い希望がネロの心の中にささやきました。
「貧乏人だっ て、時々は選ぶことができる。だれからも『だめだ』などと言われないように偉くなることを選ぶことだってできるはずだ。」
 ネロは今でも無邪気にそう思っていました。

アロアの両親はこんどはじめてネロを招待しないことにしたのです。この日は皆に夕食が振る舞われ、粉屋の納屋で子どもたちがはしゃぎまわってアロアの聖徒祭を祝うのでした。ネロは、アロアにキスし、心から固く信 じた様子でアロアにこう言いました。
「いつか、将来、きっと状況は変わるよ。いつか、アロアのお父さんが持っている小さな松の板の絵が、同じ重さの銀と同じ価値があるようになる日が来るよ。そうなれば、お父さんもぼくに対して扉を閉ざしたりすることはないだろう。ただ、いつもぼくを愛していて、アロア。ただ、いつもぼくを愛していて。そうすれば、ぼくは偉大になってみせる。」
「じゃあ、もし、わたしがあなたを愛さなかったら?。」
 かわいらしいアロアは、女の子によくありがちなことでしたが、目に涙を浮かべて、ネロの気をひくように、ちょっとすねたように尋ねました。

ネロの目はアロアの顔からそれ、遠くをさまよいました。そこには、真っ赤と金色に染まるフランダース地方の夕焼けの中にそびえる、大聖堂の尖塔がありました。微笑がネロの顔に浮かびました。とてもやさしそうで、けれどもとても悲しそうな笑顔でしたので、アロアは、はっとしました。
「ぼくはそれでも偉大になるよ。」
 ネロはそっと小さな声で言いました。
「それでも偉大になるか、死ぬかだ。アロア。」

「あなたは、私のことなんか愛していないのよ。」
と、ネロを押しのけて、小さい駄駄っ子は言いました。

いつか、遠い将来、ネロは故郷に戻ってきて、アロアの両親にアロアをお嫁さんにもらいたいと申し込むんだ。すると、断られたりせずに、喜んで受け入れてもらえる。一方、村人は、みんなぼくを見ようとして群がってきて、互いにこう話している。
「あの男を見たかね?あの男は、まるで王様のようなものだ。何と言っても彼は偉大な芸術家で、世界中に名前が響きわたっているのだから。けれども、あの男は、昔は貧しいあのネロ少年だったんだよ。乞食同然で、飼い犬に助けられてやっと食べていけた、あの子なんだよ。」
 そして、おじいさんには毛皮のついた、紫色の服を着せてあげて、聖ヤコブ教会の礼拝堂にある、「聖家族」の肖像画みたいな絵を描こう。それから、パトラッシュには、金の首輪をかけてやって、右側に座らせるんだ。そして、みんなにこう言うんだ。
「かつては、この犬がわたしのただ一人の友だちでした。」
と。

 それから、大聖堂の尖塔がそびえて見えるあの丘の斜面の上に、大きい白い大理石の宮殿を建てて、すばらしく華やかな庭園を造ろう。でも、自分で住む んじゃなくて、何か立派なことをしたいと思っている、貧しくて友人のない若者たちを呼び寄せて住まわせてあげるんだ。そして、若者たちがぼくを賛美しようとしたら、いつもこう言うんだ。
「いや、感謝するならぼくにではなく、ルーベンスに感謝してください。ルーベンスがいなかったら、ぼくはどうなっていたか、分からないんだから。」
 こうした美しい、とても実現できそうもない、けれども無邪気で自分の欲を離れた、ただただルーベンスへの英雄的なあこがれに満ちた夢は、歩いているとき、ネロはとても身近に感じていました。悲しいアロアの聖徒祭の日でさえ、ネロは幸せでいられました。その日、ネロとパトラッシュは二人きりで小さい、暗い小屋に帰り、黒パンの夕飯をとりました。一方、粉屋には、村中の子どもたちが歌ったり笑ったり、ディジョンの丸い大きなお菓子や、ブラバントのアーモンド入りのしょうがパンを食べたりしました。そして、大きな納屋の中で星の光に照らされて、フルートやバイオリンの音楽と一緒に踊ったりしていました。

フランダースの犬』では、少年の野心と理想そしてアロアへの無垢で純粋な恋心が語られながら、それを唯々諾々とは許さない峻厳で冷酷な現実が一方で描かれ進行していく。
この作品は、大人が読んでも、子どもが読んでも、この社会に生きることがどういった意味を持つのかといことについて深く考えさせられる名作であり、止め処ない深い感動と清らかな悲哀を残してくれる。