東秀紀 『荷風とル・コルビュジエのパリ』新潮社

東秀紀 『荷風ル・コルビュジエのパリ』新潮社を読んで、かなり昔に読んだ記憶のある永井荷風を再読したくなってきた。
現代作家にはなかなか見られない特異な作風とテーマを持った耽美派の作家である。作品が個性的なだけではなく、その人格や生き様も一風変わった実に妙趣のある洗練されたものだった。


近代化されたシステマチックな都市である東京を軽蔑し、辛口の風刺を効かせながら小説を綴った永井荷風(1879〜1959)。
永井荷風は、明治以降の東京は嫌いだったが、江戸時代の江戸はとても好きで、華やかで粋な雰囲気の漂う色街も愛していた。

フランスの作家ゾラに強く感化された荷風は『あめりか物語』『ふらんす物語』『冷笑』などの作品を発表して、耽美派を代表する気鋭の作家としての地歩を固めた。
1910年には、慶應義塾大学の教授の地位にありながら、『三田文学』を主催することになる。
荷風は、近代日本の国家体制や庶民の風俗、文化といったものに悉く反意を露にして、厳しく批判した。その鋭い批判精神は小林秀雄などにも通底していくのかもしれない。

荷風ル・コルビュジエのパリ』の書物の中では、20世紀初頭に活躍したパリの芸術家コルビュジエとの比較で話が進められていく。
江戸時代以来の風景のうちに具体的な理想都市空間を見い出そうとした荷風は、パリの路地や墓地といった『暗色世界』に強く魅せられ、多大な影響を受けたという。


狭い路地だが、人々の生活の匂いがふんぷんとし、古くからの記憶がこめられている街角。人々が生まれ、成長し、泣き、喜び、そしてひっそりと死んでいく場所。
さまざまの痕跡と景観が、想像力をかきたて、物語を育んでいく小路。
オスマンの改造の際に取り壊しを免れた、そういう「暗色世界」のパリこそが、住民たちにとって住みやすく、離れがたいものにしている、この都市の本質であり、文明の本質であり、文明の圧力や技術の発展を越えて、なおパリを生き続けさせていくものだ、と荷風は見て取ったのである。

一般的にパリと聞くと、僕達日本人は、お洒落なお店が軒を連ねて、美味しいフランス料理屋が腕を競い、綺麗で機能的なホテルが立ち並ぶ都会的な街などという俗物的な想像をしてしまうが、パリという街は20世紀初頭に城壁が破壊されて取り壊されるまでは、実はかなり後進的な中世の街であった。

しかし、その後進的で無骨な街、殺風景で十分に文明化されていない時代のパリこそが永井荷風にとっては理想的な街だったという。
その荷風が理想としたパリの街がどのようなものであったかというと、狭い道路をもっていて、一つの区域や建物にブルジョワジーから労働者まで雑多な人間が同居している。そして、働く場と生活する場が混在したコンパクトで高密度な都市空間ということになる。

何となく、現代に生きる日本人が聞いても懐古趣味をそそられる『そんな牧歌的で緩やかな時間が流れる街がかつてはあったよな』と思わせられる街なのである。
働く場所と生活する場所の切り離し、つまり、殆どの社会人が会社勤めをするサラリーマンになることこそが、『日本における近代化の証』だった側面を僕らは無視できない。
東京都心部では、他県に住んでいて、東京のオフィスまで二時間も三時間もかけて通勤している人たちがざらにいる。もう、現代で会社員をしている限りは、『働く場所と生活する場所を一致させること』はなかなかに至難なことなのだ。
中には、家族と離れて、一人で黙々とオフィスで働くほうが落ち着くとおっしゃる人がいるかもしれないが・・・(笑)

荷風は中世的な愛想のない飾らないかつてのパリが好きだったのだが、コルビュジエはそうではなく、近代化されたお洒落で快適なパリこそが理想的な都市だと考えていた。
そうだ、近代化されたパリこそは芸術とファッション、そして先進的な文化の中心地であり、全てのムーブメントや流行の発信地であった。
マチスピカソといった斬新で革命的な芸術家たちも近代のパリを愛した。未だ嘗てなかった新しい芸術が胎動し、新しい発想の萌芽が次々に芽生えていたのがパリなのだ。

そういった近代のパリを理想としたコルビュジエはこういった。『住居は住む機械である』と。

近代化された美しい都であるパリは、『あらゆる人と情報が集中し、展開する世界都市』だった。更には『古典と前衛の芸術が共存し、理性的な精神と感性的な情緒の交差する都』だったのだ。あぁ、こういった文章を書き付けているだけで、近代西洋思想や藝術、都市文明に魅力を感じる僕は、不思議な昂揚感に包まれる気がする。

コルビュジェの理想都市は、高層建築や高速道路に象徴される便利で豊かさを明示するものであり、機械化・工業化された最高に高度な未来社会を楽観視したものであった。当然、それは中世フランスに憧れる荷風の趣味とはまったく対照的なもので折り合わないものだった。

ロンシャン礼拝堂ラ・トゥーレット修道院ヴェネツィアの病院(未完である)を手がけたコルビュジエは、かつての機能主義や効率最優先とは異なる精神的な方向に修正し、より高い次元で完結させようとしたのだった。とりわけラ・トゥーレット修道院は、『人々が自然とともに生き、日々の安らぎと平穏を祈る中世都市の再現』としての集合住宅だった。


住居とは家族にとっての神殿である。その中にこそ、人間の幸福の大きな部分があると私は信じている。なぜ私がそれ程人間の幸福にこだわるのかは分からないが、人間の痛みを和らげる努力をすること、生きる喜びをもたらすことを私は愛している。

機能主義と合理主義をより高い次元に昇華しようとしたコルビュジエが、最後に辿り着いたのは、近代建築の目的は、人間の痛みを和らげ、生きる喜びを生み出すべきものだという境地であった。
実に清浄で素晴らしい建築理念である。

永井荷風の中世趣味とコルビュジエの合理的なモダニズムは、一見、正反対の対立物に見えるが、事はそう簡単明瞭ではない。
両者の目的は『人間の生の豊かさの想像』を建築や文明で支えようとする点で、強く共鳴し通底している。