中世都市とは。

永井荷風が好んだという中世都市とは単純に言ってしまえば外敵から自分達を守る為に『囲われた町』である。しかも、その囲われるモノは物理的な壁だけに限る必要はない。
例えば、日本の中世の商業都市・大坂の堺は石や土の壁に囲まれているのではなく、堀という『水の壁』に囲まれた都市であった。

イタリアの中世の商業都市ヴェネツィアも、アドリア海という無尽蔵の水の壁によって自分達の都市を守っていた。
中東地域やアフリカなどの乾燥した土地では、果てしなく広がる砂漠や荒涼とした岩石群あるいは岩山が壁となり都市の周囲をぐるりと囲んでいた。所謂、天然の要害である。

ユダヤ教キリスト教の都市文明観の原型は、大洪水を逃れ出たノアの方舟にあるといわれる。ノアの方舟も周囲を激しい濁流と広大な海洋に囲まれた都市と見立てることが出来るのだ。

都市は囲まれる事によって外敵から身を守ると同時に、内部の共同空間を現出する。
人が玄関の扉をあけて家へ入ったとたんに自分の家の内部を身体化するのと同じように、都市門をくぐって一歩足を都市内に踏み入れた時に、市民たちに故郷のくつろぎを、あるいは母胎のなかの親しさを一挙に身体化させてしまう」ものとして『囲われた中世都市』は成立するのだ。
中世都市は『囲われた土地』としての内密性・防御機能とは別に、同じ都市に住む居住者どうしの濃密な交わりに満たされるというゲマインシャフトの側面を併せ持つ。


ヨーロッパ中世都市の大部分がそうであるように、都市の道路は、まがりくねった見透しのききにくいものの方がふさわしい。なぜ都市の街路はまがりくねっているのだろうか。極く単純にいえば真直ぐな道を通すにはある程度集中化された権力が不可欠なのだ。…しかし都市にはそうした権力の集中は禁物であった。理念としては、同じ船に乗り込んだものとして運命をひとつにしていた都市民たちにとって、例外的に生きのびる唯一の権力者というイメージはやはり許せないものであるはずであった。道は細くまがっていることによって生き、自由なのだ。…この紆余曲折をくりかえす街路に面して『囲い地』の中に自らを閉じ込めた者たちの住居や商店や仕事場をおさめた、二、三階建の建物が建ちならぶ。このように街路に直面して連続する家屋とその街路の屈曲は、生物の内臓の管のようなものに見える。…市民は街路を通過するコミュニティの栄養(とりすましていえば情報といったことにな
ろうか)をそこから吸収するのである。

上記は、長谷川堯 『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』中公文庫 から抜粋したものであるが、これも中世の建築文化を知るには優れた書籍で面白い。