ヒュームの因果関係の認識を巡って。実在論と観念論

人間の知性は外部世界をどのように認識しているのか、あるいはどこまで正確に現象や事物を把握することが出来るのかという問題は、認識論や存在論の主要な命題として長い哲学の歴史を通して考え続けられてきました。
この哲学的命題の主題を簡潔にまとめれば、『人間の意識・思考は、意識・思考から独立した客観的な実在・実体・本質を認識することができるのか?』という認識論的命題と『人間の感覚器官における知覚の背後にあるような感覚的経験から独立した客観的な実在・実体というものは存在するのか?』という存在論的命題にまとめることが出来ます。

こういった問題意識は、哲学に興味を寄せた事のある人にとっては非常にありふれたものですが、哲学的な物事の考え方に慣れていない人にとっては奇妙で不必要な問題意識に思えるかもしれません。
まぁ、普通の常識的な考え方や見方をする人に、『目の前の椅子やお菓子は存在しているのか?』という質問は成り立たないばかりか、精神機能の異常を疑われかねない唐突でおかしな質問です。
私達の生きている世界の常識では、私達の目に見える物・肌に触れる物は、『存在する事物』と判断され了解されるのですから当然の帰結です。
目の前に見えるコップは、コップそのものとして存在していると認識することに大多数の人に異論反論はないでしょうし、それに真顔で反対する必然性も必要性も日常生活の中ではまずありません。
生活活動や実践活動において、感覚器官による知覚・認識は、そのまま知覚される事物の存在の確認につながることになります。

しかし、哲学的に『事物の存在』を考察する時には、厳密性や明証性・確実性を徹底しようとするので、少し強迫症的な懐疑主義の趣きが出てきます。
つまり、人間の感覚器官における所与としての知覚・認識が不完全であり、錯覚や誤謬・錯誤がありふれたものとするならば、私達の目の網膜に物が映るからといってその物そのもの(“物そのもの・物自体”というのはカントにとっての実在)を正確に厳密に認識しているとは言えないという考え方があります。

人間の感覚器官による知覚は、現象を認識する事は出来るが、存在(実在・実体・本質・物自体)を確認することは出来ないという哲学的な問題意識は、よく主観と客観の対立問題(主客問題)として考えられたりもします。
私の意識による思考や知覚は主観的な心理作用であり、私の意識から切り離されて独立した物自体・客観・客体を直接的に認識する客観的認識は不可能であるという考え方を観念論・唯心論と呼び、その反対のこの世界は意識・観念に先立つ物質によって成り立っていて、私達の感覚器官における知覚は物そのものを認識することが出来るという考え方を唯物論と言います。

もっと切り込んで考えると、私達が目で見たり手で触れたりして確認出来る現象・事象である感覚的経験・知覚とは別に、私達の意識や思考から独立した事物の実体・本質である実在が存在すると考える事を『実在論』と言います。
そして、実在論の説く『物そのもの』である実在を、人間の知性・意識・思考では認識不可能であるとする立場を『不可知論』といい、私達の日常感覚で納得しやすい立場だとも言えます。
不可知論とは、私達の感覚器官では知覚することが出来ない『神・真理・霊魂・正義・善悪』などの形而上学的対象を私達は思索して判断したり評価したり信仰したりすることは出来るが、原理的にその存在や正しさを認識することが出来ないとする立場です。
『神は存在するのか?』『真理は人間に把握できるのか?』『宇宙には境界があるのか?』『絶対的な善悪はあるのか?』といった形而上学的命題に対して誠実に答えるならば、人間の感覚・知覚・理性ではその問題に対して客観的な正答を与えることは出来ないとする不可知論に達する可能性が高くなると考えられます。つまり、それらの対象の存在や正誤は、科学的な方法論では確認することが原理的にできないということになります。

人間の知性や精神の中では、客観世界を正確に認識できないと考えた不可知論の哲学者に、イギリスのデイビッド・ヒュームとドイツのインマヌエル・カントがいます。
ここでは、懐疑主義的な因果関係の認識論を展開するヒュームを例にして、人間が認識する原因と結果をヒュームの思考の文脈の中で厳密に考えてみるとしましょう。
勿論、ヒュームの思弁的思考が必ずしも正しいわけではありませんが、哲学の思考方法の典型的な例示としてヒュームの因果関係に関する考察はなかなか魅力的で分かりやすいものだと思います。


ある出来事Cがある出来事Eの原因であるための必要十分条件は何であろうか。18世紀のイギリスの哲学者、デイビット・ヒュームは、CとEが近接していること、CがEに時間的に先行していること、そして最も重要な条件として、CとEの間に必然的な結びつきがあることを挙げている。

ヒュームは、因果関係は客観的に存在するという当時の常識に反して、因果関係が心の中にあると考えた。実際、原因と結果は知覚できるが、原因と結果を結びつけている因果関係を直接知覚することはできない。CとEとの因果関係は、Cの後にEが頻繁に現れるために、想像力が習慣的に二つの観念を結合させることで形成される。したがって、因果についての信念は、蓋然性の域を出ない。

結合が必然的であることは、因果関係であるための必要条件ではなくて、因果関係ではなくなるための十分条件であると考えている。原因と結果の結合は、主観的であるがゆえにその必然性が疑われるのではなくて、必然性が疑わしいからこそ、主観は、出来事を原因と結果に分割するのであって、原因と結果の結びつきが必然的になると、原因と結果は、原因と結果ではなくて、一つの出来事になってしまう。

ヒュームは、不可知論者の中でもラディカルで徹底した不可知論を展開したと言えます。
彼にとっての、感覚的経験とは客観的な実在を知覚することなどとは全く関係のない『単なる印象の知覚とその印象の記憶への取り込み』に過ぎず、誰もが当たり前と思っている原因と結果の関係である因果関係も経験を繰り替えす事による観念の結合であり習慣的に形成される認識パターンに過ぎないと考えました。

カントの哲学では、人間の意識から独立した『物自体・物そのもの・客観的実在』の存在そのものは認めるのですが、人間が認識できるのはそれが人間の感覚に与える「現象」であって、物自体は認識できないと考えました。また、カントの物自体の究極的な存在や倫理的行為の根拠は神に行き着くものでもあります。

私達の身の回りに溢れている『事物の存在』について、あれこれと自分なりの哲学的思索を巡らしてみることもなかなか楽しいですし、世界をより良く認識するための思考の訓練にもなりそうです。