志向・指示するものと志向・指示されるもの

インマヌエル・カントが主観としての認識によって把握される『現象』と主観的意識から独立した客観としての『物自体』とを区別したように、哲学的思考の中ではしばしば意識(作用)と対象、更に対象の意味(内容)を区別して考える。

この二項対立的な図式の哲学的思考の歴史は古く古代ギリシアアリストテレスの時代にまで遡ります。アリストテレスは、形而上学に関する記述の中で『思惟(ディアノイア)』と『思惟されたもの(ディアノエトーン)』といった用語でこの事を表現しています。

フッサールは、更に厳密に意識と対象の関係を考えて、『志向作用』『志向的対象』『志向的内容』といった3つの概念に分類しました。
現象学では意識の志向性を非常に重視しますが、それは『意識は常に何者かについての意識である』という前提に立っています。
また、カントの哲学の中では、意識と物質(実在)との間の関係として認識が考えられましたが、現象学では、意識と物質(実在)=志向対象の関係以外にも意識と想像(イメージ・表象・非実在)の関係も取り扱われます。カントは、想像の中にしか存在しない、空想の中でしか意味を持ち得ない対象(イメージの産物)を存在するものとして取り扱っていないようです。

フッサール現象学では、ドラゴンやゾンビ、霊魂、天使といった想像の中でしか存在せず、頭と言語の上でしか意味を持ち得ない表象も『志向的内容=意味されるもの・志向されるもの』としてその意義を認めている。
志向的内容とは、想像物を含む『現象』の内容ですが、現象を更に厳密に考えると『そこにおいて客観である現象が成立する意識作用』と『客観としての現象そのもの』に分けられます。
ここら辺から少しこんがらがって、概念の指し示す内容を把握するのが困難になってくるのですが、『そこにおいて客観である現象が成立する意識作用』というのは、志向的質量と呼ばれ、『客観としての現象そのもの』は志向的本質と呼ばれます。

こういった細かい用語まで正確に覚えるのは大変ですが、私達が何気なく見ている世界の現象を徹底的に深く理解しようとすると、世界(対象)を見ている私の意識の中で現象が成立して、その意識内部の現象とは別に客観としての本質的現象そのものが存在するという事になるといった感じでしょうか。

現象をそこにおいて成り立たせる作用としての『志向的質量』は、表象する、判断する、懐疑する、検討するといった『作用の様相である志向的性質』を含んでいますが、そういった志向的性質の中で最も重要で最も本質的なものは『表象する=イメージする。記憶や印象を使って内的対象を想起する』という事です。

自然科学的な認識やカント的な認識では、イメージや記憶によって生起する『表象』よりも直接的な感覚器官によって外的世界を認識する『知覚』を重視するところがフッサール現象学とは違います。
何故、現象学において、表象が知覚よりも本質的で確実なものとされるのかの根拠は、知覚のように信憑性を保証する他者の同意や直観的確信を必要とせずいたってシンプルで明瞭性があるからという事になります。

前期フッサールの『単純表象』は、後期『イデーン』になって『根源的信念・根源的臆見』と呼ばれるようになります。

こういったノエシス(志向するもの)とノエマ(志向されるもの)の伝統的な哲学の認識論的な枠組みは、カントやフッサールだけでなく、様々な哲学者に見られますが、古典的な認識論がただ『認識する』のに対して、現象学の認識は『何かについて認識する』という志向性が見られることが最大の違いと言えるのではないだろうか。