現象学的還元を巡る考察:モノが『ある』とはどういうことか?

先日、フッサールの志向性にまつわる『ノエマノエシス』の認識論を簡単に眺めてみたので、彼の著作の一覧を挙げておこうと思います。


フッサール(Edmund Husserl 1859〜1938)の著作
『算術の哲学』(1891)

『論理学研究』全二巻(1900〜1901):最初の現象学に関する書籍で前期フッサールの代表的著作

『厳密学としての哲学』(1911):精密学としての自然科学に対して、哲学を厳密学と位置づけた。絶対的な知の基盤を現象学によって確立しようという野心を窺わせる著作

『純粋現象学現象学的哲学のための諸考想』または通称で『イデーン』第一巻(1913):フッサール後期の代表的著作として、現象学の難解なイメージの元ともなっている著作。志向作用と志向対象・志向内容をレアール・イデアールの概念を用いて厳密に考察する。

『内的時間意識の現象学』(1928):後期フッサールの講義録。実存主義哲学の代表者ハイデガーが編集に携わった著作でもある。

形式論理学と超越論的論理学』(1929):従来の論理学とは異なる超越論的視点から論理学を語った著作。

デカルト省察』(1931):一般的に客観性という不完全な概念が用いられる事を哲学的に反省して、相互主観性の概念を提唱した著作で、コミュニケーション論などにも影響を与えている。

『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』(1936・未完の著作):フッサール晩年の最期の著作である。ヨーロッパの学問的危機を主観的哲学と客観的科学の対立として描写する。

現象学とは、客観的世界の想定を自明とした一切の先入観(ドクサ)を排除(エポケー)して、意識体験に所与として立ち表れる具体的な現象そのものの本質を反省的に探求する学問です。
私達は、自分自身の意識に現れる現象しか知る事が出来ませんが、その主観的な意識体験の中で、先入観や思い込みを排除して、他者とも共通認識できるありのままの現象(間主観的な生活世界)に接近していこうとする試みでもあります。

フッサール現象学的思索を通して、自我の意識生活(主観)と意識される対象(客観)との相関関係を徹底的に考察し、主観的な哲学と客観的な科学の対立分離を阻止する学問の基礎付けも行いました。

現象学の様に、意識の志向作用と志向対象・志向内容を区別して物事を見る事は日常生活の中ではなかなか容易ではありません。つまり、多くの人たちは、フッサールの言う『反省的直観』といった思考方法あるいは情報処理に慣れていないのです。
身近な例で考えれば、目の前に一皿のカレーライスと一杯のお茶があったとしても、それが志向対象であると認識する人は殆どおらず、通常、単なるモノ(実在・物自体)と見なしその存在の客観性を微塵も疑いません。

ありふれた日常生活の中では、私達は通常、現象学的あるいは懐疑主義的に物事を見ていないし、そうでなくてはいちいち面倒な認識論を語るばかりで実際的な行動を何もとれなくなって不便なことこの上ないことになります。

このことから、私達人間は、改めて哲学的思考や厳密な検証を行おうと思う時以外には、素朴実在論を無批判に信用して生活していることになります。つまり、目の前のお茶は私の意識があってもなくてもそこに存在し続けている、私(人間)の意識には全く関係なくモノはモノとして独立して存在しているという事を信じて毎日の生活を送っているという当たり前の帰結に行き着きます。
しかし、厳密な思索の中では、モノは飽くまで主観的存在である私達にとって超越的なものであり、感覚器官によって知覚される事象でしかありません。
とはいえ、他者とそこにモノがあることを言語や身振りによって共通認識できるという意味で、完全な主観的事象ではなく、間主観的な事象であるとは言えます。

まぁ、こういった面倒臭い思考の手続きによって、客観的実在や本質はあるのかないのかと考えるなんて迂遠で無駄なことだと思う唯物論者・素朴実在論者であれば、実践(行動)によって存在を確認すればいいじゃないかという事になるでしょう。
『言葉や理性でひねくりまわすから存在なんて自明な事で躓くのだ』と実在論で押してくる自然科学の研究者や思弁的言説を嫌う人たちであれば、カレーライスを実際に食べてみて、お茶を飲んでみれば確かにそれは実在するのだからそれ以上のことは考える必要がないと言うでしょう。
確かに、時間に追われる忙しい生活の中では、そういった行動的な人たちの実践的な人生哲学こそが時間と思考の節約につながり、生産的な活動に集中できる基盤を作る事に私は同意します。

ただ、現象学をはじめ哲学的言説にプラグマティックな実際の利益や恩恵を求めている人はいないでしょうから、純粋に知的好奇心に従ってこの世界の存在を徹底的に深く考えて見たい人にとっては現象学は面白い学問だと私は思います。

行動で全てを確認すればいいという生活適応的な素朴実在論の常識をいったん保留しようというのが認識と存在にまつわる哲学的思考の始まりなのかもしれません。
素朴実在論の習慣的な前提である客観世界の無反省な実在の定立(目に見えるものは『ある』に決まっているという世界観)をとりあえず判断停止(エポケー)してから、現象学的な反省思考が始まります。

外のモノが当たり前に存在するとしていた視線を、自分の意識の内部に向け替えてモノの存在を意識体験として考えていこうということです。
こういった認識方法の転換の作業を『現象学的還元』だとか『超越論的還元』だとかいいます。
この作業を行うと、それまで超越的客観であった外部のモノが、主観的意識によって知覚認識されて意味付けされるノエマ(知覚されたもの)となります。客観的な『存在』ではなく、主観的意識によって知覚され存在を認知されるノエマ的な『存在者』になるといってもいいでしょう。

こんな現象学の認識論に馴染めない人も、エベレストの頂上付近に偶然落としてその存在(超越的客観)に誰も気付かれなかったキーホルダーが、エベレストに登った事もない私にとって果たして確かに存在していると言えるだろうかという事を考えてみるといいかもしれません。
そういった誰も知るはずのないモノ(超越的客観としての存在)を『確かにある』と断言する時、私達はいつも自我意識を超越した『神の視点』に立っている事に思いを寄せなければならないでしょう。
私達は世界にある全てのモノを直截的に知覚認識することは出来ませんから、私達が何らかのディスクール(まとまりある言説内容)を語る時には少なからず『超越者=神の視点』で存在を語り、主張を述べています。

そういった意識と無関係にある存在(物自体・客観的実在・超越的客観)と意識によって存在が確認された存在者(主観的存在・志向対象・現象事象)を区別しようとするのが現象学的認識であり、その具体的な作業が現象学的還元だということになるでしょう。

意識の志向作用が向けられて知覚される限りにおいて、モノは主観的にその存在を確認され意味付けされる存在者になると考える時、超越的客観としてのモノは人間には掴めないということが何となく分かってくる実感があります。

私の意識と無関係に存在するモノ、誰の意識にも知覚されない忘れ去られたモノ、モノの存在を確かに記憶しているが、いつの間にか喪失したモノ、存在とは実に不確実なものであり、私達が客観的実在と思いこんでいる存在物はその多くがイメージの幻影や記憶の残滓として保存される『表象』に過ぎないと考える時、この世界の客観性の足下が微かに揺らぐ気がします。
そういった実感に興奮や驚嘆が伴い、世界や人間、自我や他者に対する不可思議性が高まってくるところに哲学を含む思索する快楽があるのかもしれませんね。