フランスの哲学者ジャック・デリダ死去

仏哲学者のジャック・デリダさん死去 -asahi.com-

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フランスの著名哲学者ジャック・デリダさんが8日深夜から9日未明にかけて、膵臓(すいぞう)がんのためパリの病院で死去した。74歳だった。AFP通信などが伝えた。

1960年代以降、プラトンからニーチェハイデッガーまでの西洋哲学全体を先鋭的に批判・解体し、西洋中心主義を問い直す「脱構築」の思想を展開。テキストを異なる視点から読み替える手法は、世界の思想・文学などの研究に大きな影響を与えた。

30年、アルジェリアユダヤ系家庭に生まれた。パリ大学講師や高等師範学校教授などを歴任後、83年、当時のミッテラン仏大統領の支援を受け、パリに国際哲学院を設立し初代院長に。同年、同大統領の文化使節として来日。翌年には、東京と神奈川で開かれた日仏文化サミットに参加するため再び日本に来た。

差別や移民などの問題にも積極的に発言し、94年に設立された「国際作家議会」では、迫害されている作家のために「避難都市」の呼びかけなどをした。近年ではイラク問題にも積極的に発言していた。

著書に「声と現象」「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」「他の岬」などがある。

数日前からジャック・デリダ死去のニュースが気になっていたのだが、デリダを簡単に要約して語る事は無理なので、取り上げる事を躊躇していた。
デリダの思想は、デリダの著作から長い期間、離れていたものにとって容易に語ることが難しいし、その評価は読み手によってバラバラなものとなりやすい。兎に角、その原書は難解だし、東浩紀デリダ解説書『存在論的、郵便的』なる書物も回りくどい言い回しと独特な用語が多く、デリダを全く知らない人が読んでも理解することは敵わないだろう。

デリダは、パラノイア(偏執症)的にテキストのエクリチュール(書かれたもの)の読解と脱構築(『パロール・音声』の『エクリチュール・記号、文字で書かれたもの』に対する伝統的な優位性の否定)にこだわった哲学者で、本人が自称しているわけではないがポスト構造主義の哲学者と言われる。
デリダは、伝統的な西洋哲学あるいは形而上学の真理探究の営みをウィトゲンシュタインとは異なる思考の過程を経て無意味・不可能であると先鋭的に批判した人物である。

プラトンアリストテレスから始まり、カント、ヘーゲルニーチェサルトルハイデガーなどに至る普遍的実在や絶対的真理あるいは実存的生き方、相対的虚無主義の克服を希求する知の営為は、エクリチュール(過去の歴史において書かれたもの)を元にして為さざるを得ない以上、『知の郵便制度』の不完全性に阻まれて不可能だというもので、それは現代の相対的価値観(人それぞれ、ばらばらの価値観が対等に分散し並列する)全盛の時代に生きる私達には意外にすんなり受け入れられるものである。

オリジナルの思索者によるパロール(音声言語)による確認が不可能なエクリチュール(文献・書籍)から真理を発掘しようとする思想の考古学的な営みは、ある意味で真理や創造性からは最も遠く、哲学からも遠いと思う。
哲学史(過去の先哲の思想をなぞり記憶すること)と哲学(自分の頭で世界や人間の根本原理やなりたちを考えること)の違いは良く言われるが、哲学史の研究とはそのまま現代に残された過去のエクリチュールの研究である。
過去のエクリチュールには、それを実際に考えた思索者のオリジナルな真意を問い質す機会がないし、同時代人であってもパロール(音声言語)は原則的に一回性の性質を持っていて聞き逃したらおしまいなのだ。

エクリチュールの不思議な事は、例えばプラトンの『国家』『饗宴』などの2000年以上も昔のテキストがほぼそのまま残っていて現代の私達が目を通して理解できるところだ。しかし、その理解はもちろん、オリジナルなプラトンの真意そのものに到達する事は出来ないし、単なる読み手の解釈としかいいようがないものである。
オリジナルなエクリチュールの集積であるテキスト(文献書籍)は確かに時代を超えて、知を伝達・郵便してくれるのだが、そのテキストにはオリジナルの作者の真意やその記述が為されたコンテキストが不在である。

エクリチュールにおいて、それを記述した主体者(本人)とその時代状況におけるコンテキストは飽くまで不在なのである。
プラトンの思想の場合でも、その時代状況を推察するのにプラトン以外の歴史学者の文献を参考にして為されたりする。
エクリチュール研究を進めていくことは、オリジナルな思索とコンテキストの解釈の解釈の解釈の解釈の・・・と無限遡及する営みに飽く事なく挑んでいくことなのかもしれない。

そして、普遍的真理に到達できないという結論が分かっていても、私達の知的好奇心はそこでエクリチュールを完全に焼き捨てて独力で思索できる方向には働き難いのだ。どこまでも、知識の意味の痕跡あるいは過去の思索のコンテキストの亡霊を探して私達は漂泊していく・・・特に、読書好きの諸子にとって書物を完全に投げ捨てて、自らの頭だけで哲学することは難行苦行であろう。

しかし、それにしても、1960年代の哲学者にはジャック・デリダミシェル・フーコージル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリなど魅力的な思想家が多くて、哲学史的には密度の濃い時代だったといえるでしょう。