『坊っちゃん』 夏目漱石 著 を読んで

昨日、久しぶりに夏目漱石の『坊っちゃん』を読んだ。
私は、夏目漱石の作品は、中学から高校時代までの間に大抵読んだのだが、その時期に読んで以来再読したものは数えるくらいしかない。

漱石に関する詳細な文学や評伝の研究には触れた事は殆どありませんが、明治初の国費留学生としてイギリス・ロンドンに留学した当時最高レベルのエリートであった漱石が、ロンドンでは食うに困るの極貧生活に喘ぎ、神経症の一つである神経衰弱(ノイローゼ)に陥ったというエピソードや俳人正岡子規と懇意にして一緒に愛媛の松山や京都などに旅行していたことなどが記憶にあります。
坊っちゃんでは、無鉄砲で神経の図太い自己像が投影されているけれど、実際の漱石は、後年になって何度も胃潰瘍を患うなど、かなり精神的に繊細でストレスに弱いところがあったようです。

夏目漱石(1867〜1916)の同時代人には文豪と軍医としての顔を持つ森鴎外(1862〜1922)がいて、彼は医学の分野で突出した才能を発揮し、当時の医学研究の先進地であるドイツ(ベルリン、ミュンヘンドレスデンなど)へと留学しました。同じような留学経験を持つ両者ですが、漱石がロンドンで寝食に困るような厳しい状況であったのに対して、鴎外はドイツでかなり厚い待遇をされて心身共に充実した留学生活を送ったようです。

そういった漱石の苦難の日々を振り返って、草枕の有名な句を読むと感慨もひとしおといった感じがします。



山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である。
(『草枕』より)

煩雑な世間の人間関係の中で、どのような態度や行動をとっても若干の軋轢や窮屈さはあるし、人の世の住みにくさは今も昔も変わらない。
『智』も『情』も『意地』も、どれか一つを貫き通して生きれば生きるほどにその反発は強くなる。
現代社会でも、智に全てを訴えすぎれば、智を重んじない者と衝突をし、情を強く働かせ過ぎると、人の問題や苦悩に巻き込まれたり利用されたりし、相手に譲らず『意地』を張り通せば諍いや揉め事が絶えないといったことになる。

漱石は、高踏派と呼ばれたりするけれど、それは『草枕』冒頭のような全ての世俗的なしがらみを高尚な芸術的作品へと昇華させるところにあるのかもしれない。
しかし、『坊っちゃん』は高踏派というよりも自然派といった感じで、ありのままの率直な感情の描写が多く、赤シャツだとか山嵐だとかいった渾名を持つ登場人物との現実的な人間関係を気取らずに表現している。
漱石の作品には、『隠された偽善』だとか『社会に迎合した小賢しさ』だとかいうものを持ち合わせている人物に対する冷笑的な皮肉や批判が込められていることが多いが、坊っちゃんではそれが赤シャツに向けられている事になるんだろう。

愛媛・松山での実際の教師体験が『坊っちゃん』創作の素地になっているというが、作品中の松山の町や温泉や学校の様子は如何にも生き生きとして現実感がある。
団子を食べたり、天ぷらそばを食べたり、温泉に入ったりするのが当時の庶民の大きな楽しみであった様子もよく伝わってくるし、現在の松山にも坊っちゃんに掛けた団子やお菓子が多数売られているし、列車もある。
愛媛・松山には、今でも路面電車が走っていて、漱石の時代からある道後温泉があり、何処かのどかでおおらかな懐かしい雰囲気が残っている。
といっても、フェリー乗り場がある松山観光港だとか繁華街や商店街の様子は、中規模のありふれた街並みになってはいるのだが。

坊っちゃんでは、先生として赴任した松山中学でのどたばたとした騒がしい学校生活が楽しく描かれますが、実際の漱石は松山が好きだったはずなのに、小説中の坊っちゃんは江戸っ子で最期まで田舎の松山の町も人間も余り気に入らないというのが面白く感じました。
特に、他の先生たちとの軋轢を人情と道理を理解する陰日なたのない人たちと表向きは人当たりが良いが裏では人を陥れる画策をする人たちとの対立として分かりやすく書いているところに、『隠された偽善』のテーマが読み取れます。

時には、展開の速い刺激的な現代作品を離れて、明治時代の味わい深いスローなペースの古典的文学をのんびり読むのもいいものです。文豪という言葉も現代では死語となってしまった観がありますが、確かに明治・大正・昭和初期あたりまでは文豪と呼ばれるに相応しい人たちがいました。