ベンサムの近代的な功利主義とエピクロスの古代的な快楽主義


前回、ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義を粗描してみましたが、もう少しベンサムの考えた功利性というものを詳細に見ていこうと思います。
ベンサムの功利性とは即ち近代的な快楽主義(hedonism)です。古代的な快楽主義の代表者にエピクロス(Epikouros B.C.342〜B.C.271)がいますが、エピクロスの意図した快楽は『アタラクシア(ataraxia):平静』と呼ばれるもので極めて精神的な趣の強い快楽です。近代以降の積極的に欲望を満たして行く快楽とは対照的な『平静で魂・心の安定を乱されない消極的な快楽』とでも言うべきものです。

性的なエロス充足の快楽や贅沢な料理を味わう美食の快楽、高級品を購入する快楽といった分かりやすい物質的快楽が『能動的な近代的快楽主義』だとすれば、肉体的な苦痛や病気の苦しみから解放され、何の迷いも悩みも存在しないことを快楽とするのが『受動的な古代的快楽主義』と言うことが出来ます。
エピクロスの有名な行動指針には、まるで東洋思想の老子の隠遁生活の勧めを彷彿させるような『隠れて生きよ・Lathe biosas』というものがあります。これも、安定した静謐な魂・心の状態を維持する為に、世俗社会の仕事や役職には出来るだけ関わらない様にすべきであるというものです。
俗世間の煩瑣な社会活動の中で地位を得ようとすれば様々な競争対立や争いに巻き込まれて、平静な魂安定を失うかもしれないので出来るならば社会活動からは身を遠ざけて隠遁生活をしたほうがよいというのは、積極的に幸福や利益を自分の行動や意志によって獲得していくという近代的な功利主義の立場からは出てこない発想です。これは、やはりエピクロス的な『贅沢を最も必要としない人こそが最も快く贅沢を楽しむ』といった消極的快楽の価値観からきているものだといえます。

そして、エピクロスが最も回避すべき苦悩としたのが、人間の本能的な『死の恐怖』であり『死後の世界にまつわる恐怖や不安』でした。
この死の恐怖に対するエピクロスが出した回答は、至極簡潔で明瞭なものでした。
『われわれが存する限り、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きている者にも、すでに死んだ者にも、かかわりがない。なぜなら、生きているもの所には、死は現に存しないのであり、他方を死んだ者はもはや存しないからである』というもので、確かに死というものは私達が生きている限り実際に経験することはなく、ただ、将来誰もが必然的に死ぬ運命であるという経験的知識に基づく予測によって恐怖の対象になっているに過ぎないからです。死が実際に我が身に降りかかった時には、私達は自分自身が死んだ事さえ認識することはできず恐怖も苦痛も存在しようがないのですから。

ただ、この答えも禅問答的な屁理屈の面があることは否めないでしょう。私達が死を恐怖するという時、死によって現在の関係性や記憶や知覚能力を失うであろう可能性の消滅を恐れているのであって、『私と関係しない死そのもの』を恐れているわけではないからです。
自己の生命の有限性からは誰も逃れられませんが、自我という主体性を失う事によってあらゆる可能性を放棄せざるを得ないという厳然たる運命的な事実を前に私達はただただ諦観あるいは受容することが出来れば死の恐怖そのものは大きなものではなくなります。しかし、自分自身の消滅と合わさって、関係性や記憶の消滅に対する無念さや心残りはやはり残り続けるかもしれません。
反対に、死こそ全ての苦痛や災厄からの解放、全き自由の実現だと考える人がいても不思議ではありません。

余談ですが、そういった本来の古代的快楽とは乖離した形で、エピクロスの名からとったエピキュリアン(快楽主義者)という言葉もあり、これは現代では酒池肉林や放蕩三昧といった快楽主義者を意味する言葉になっているようです。
エピクロス派の快楽主義に対して、キリスト教の教義体系に通じるスコラ哲学にも絶大な影響を与えたゼノンが創始した禁欲主義を標榜するストア派があり、また機会があればストア派のストイシズムについても考えてみたいと思います。

さて、ベンサムの快楽主義の特徴は、彼の著作『道徳と立法の諸原理序説』に端的に表現されています。
ベンサムは、『快楽の増加と苦痛の減少』という自然的欲求こそが人間の倫理判断の指標となると考え、人間社会の善悪を区別して秩序を維持する為の立法行為の原理としても功利主義を用いるべきだとしました。


ベンサムが定義した快楽の分類には以下のようなものがあります。

  1. 感覚の快楽
  2. 富の快楽
  3. 熟練の快楽
  4. 親睦の快楽
  5. 名声の快楽
  6. 権力の快楽
  7. 敬虔の快楽
  8. 慈愛の快楽
  9. 悪意の快楽
  10. 記憶の快楽
  11. 想像の快楽
  12. 期待の快楽
  13. 連想に基づく快楽
  14. 解放の快楽

それぞれの快楽には、更に細かい下位分類がなされ、それぞれの快楽やそれに相対する苦痛は、数量化して計算することが可能なものとして取り扱われます。

快楽・苦痛を数値化する場合には、以下の指標を考えて行うとベンサムは考えました。

  1. 強さ
  2. 長さ
  3. 確かさ
  4. 近さ
  5. 多産性
  6. 範囲
  7. 純粋性

そして、快楽の功利計算は次のように行われます。

●個人が獲得する快楽・利益の量×社会構成員の人数=社会の快楽・利益の総量=社会全体の幸福量

このような功利計算式は、社会を構成する個人を等質的で均一的で無個性な『単位としての個人』として取り扱う事によって成立します。私は、美味しい物を食べることにあまり執着がないという人がいても、海外旅行に行くことが好きでない人がいても、そういった個別的な趣味や選好は考慮に入れず、『平均的個人を想定して一般的な価値観として快楽を得られるものは快楽として数値化』されるということです。
こういった平均的個人像を想定して社会全体の快楽を計量する為には、『何人も一人として数え、何人も一人以上として数えることは出来ない』ということになり、更には最も客観的な利益の基準として『貨幣の所有量』を採用することになります。
国家を運営する為政者は、『社会全体の幸福・快楽の量を最大限高めること』=『最大多数の最大幸福』が目的となり、出来るだけ多くの貨幣(快楽・苦痛を測定する相対的な基準)を個人が所有できるようにすることがその最も近い実現方法となります。

しかし、個別的な価値観や精神的な快楽を軽視して、物質的快楽に偏り過ぎる傾向が量的功利主義にはあり、『最大多数の最大幸福の理念』には少数者の利益や意見を排除したり、『多数者の幸福の為には少数者を犠牲にしても善である』という道徳感情からは容認しがたい歪な結果を導き出す場合があります。

少数者の利益や快楽を無視して、大多数の為に犠牲を強要することで社会全体の利益が増大するならば、その倫理判断は正しいという功利主義の抱える問題を最も先鋭的にしたものに『サバイバル・ロッタリー:survival lottery』問題というものがあります。
サバイバル・ロッタリーというのは、『生命を賭けたくじ引き』とでも呼ぶべきもので、臓器移植のドナーになるものを定期的にくじ引きで強制的に選出し、その人に犠牲になって貰うことで複数の臓器を摘出して10人の生命を救えるならばそれは社会全体の生存率を高めているので倫理的に正しいという功利主義の極端な応用である。
当然、サバイバル・ロッタリーは常識的な倫理観や人権思想、自由主義の立場から反駁され、全体主義的な間違った倫理判断とされるのが一般的な考え方です。
誰でも、自分自身の生命・身体・財産の所有権とそれを自由に用いる権利を持っていて、その人個人の人間としての尊厳を持っていると考えられますから、例え、1人が犠牲になって10人が救われようとも少数者を犠牲にして全体の功利や効用を高めることは許されないと考えられます。

ただ、この議論が本当に有効になってくるのは、臓器移植のような非現実的な思考実験ではなくて、例えば、アメリ同時多発テロのような状況で、旅客機で自爆テロを起こそうとしているテロリストを事前に捕捉したときに、乗客を犠牲にして高層ビルに突っ込む前に安全な開けた場所に撃墜させることは容認されるのかといった問題に対してでしょう。
そして、おそらく現実の政治判断では、数十人の乗客の犠牲で、数千人の人間の生命が助かるならば、旅客機を戦闘機で撃ち落すことが決議され実行されることになるでしょう。そういった究極的な判断の難しい事態では、少数者の犠牲は倫理的に容認されるという事が功利主義的な倫理判断が優勢であることを示唆しています。

サバイバル・ロッタリー問題については、以下のサイトに詳しく説明してありますので、興味のある方は見てみてください。

http://www.arsvi.com/0e/lottery.htm

功利主義には、個人の基本的人権の侵害の恐れや少数の利益・快楽の切り捨て、社会を構成する個人の均等化・平均化などの問題点がありますが、やはり最終的な判断において私達は功利主義的判断を為すことが多いということは言えそうです。
ただ、個人の生命・身体・財産を犠牲にして全体的な目的を達成するという全体主義の陥穽に陥らないように私達は警戒していかなければならないと思います。