満足した豚と満足しない人間の差異について

ミルの質的功利主義を端的に示す言葉に、『満足した豚よりも、満足しない人間のほうが良い』『満足した馬鹿よりも、満足しないソクラテスのほうが良い』という言葉があります。
この言葉の意味する内容は、『知性・理性によって感得される快楽・利益』を『本能・感情によって獲得される快楽・利益』よりも高級なものとし、より価値あるものと解釈するということです。

しかし、私は、必ずしも知性至上主義的な快楽の階層構造が正しいわけではないと考えます。それは、人間の幸福の中には、理性よりも感情のほうが多くを占めることもあれば、冷静な理性的思考によって本能的な衝動から得られる快楽を取り逃してしまい後悔することもあるからです。

ミルの言葉は更に思索を深めるならば、『満足した豚よりも、満足しない人間のほうが、よりメタの視点に立っている』ということであり、『満足した馬鹿よりも、満足しないソクラテスのほうが、よりメタの視点に立っている』ということです。
『〜よりも良い』という表現は、『〜よりも幸福である』という意味合いにも取れますが、勘違いしてはならないのは、豚よりも人間が幸福であるとは断言できないということです。

ただ、必ずしも豚より幸福でない人間は、豚よりも自分と世界をより客観的な上位(メタ)の視点から見て考えることが出来るという点に特長があり、『良い』は『メタの視点に立てる=〜について語れる』と解釈すべきです。
メタ(meta)とは、上位・高次・超越性といった訳語が当て嵌められますが、簡単に定義するならば『〜について語れる』としても良いと思います。
言語学では、言語をメタ言語(高次言語)と対象言語に分けて考える事がありますが、この場合には必ずしも上位とか超越性といった意味は含意されず、“ある言語について”分析的・論理的に語る側の言語を『メタ言語』と呼び、“ある言語によって語られる言語”を『対象言語』と呼びます。

これらの事を合わせて考えると、満足した豚は満足しない人間について語る事は出来ないが、満足しない人間は満足した豚について語ることができ、同時にソクラテスは愚者について語れるが、愚者はソクラテスの思想や価値観について語ることはできないとなります。
『〜について語れる』は、『〜について知っている』となり、『〜について知っている』は、『〜に対して優位・メタの立場にたつ』につながっていきます。
16世紀、経験主義の基礎を打ち立てたフランシス・ベーコンが『知は力なり』と宣言して自然征服の方法を自然法則を解明する人間知性に求めたように、『他者への優越の方法』として他者の行動の動機や理由を知り、他者の思考過程や価値観の傾向を把握することに求めたのです。

そうしたお互いの行動の動機や理由を探りあう中で、質の高い快楽と質の低い快楽が分岐することになるのですが、それらの快楽には、本質的な質的格差があるというよりも、快楽を享受する主体者の自己認識にこそ差異があるのです。
それは、単純に考えれば、近代的自己の特徴ともいえる『自己の客観視が出来る主体者=超越論的主観を持つ者』であるかどうかという事であり、『自己と他者との比較による評価』ができるかどうかという事です。

実は、単純な幸福の度合いで比較するならば、自己の客観視が全く出来ない動物や細かい理屈や知識にとらわれずに動物的な本能に従って生きる人たちのほうが『自分以外の他者の幸福に無頓着であり、自分の幸福追求のみに邁進すること以外に興味がない』という意味で、幸福の程度は大きいというシニカルな事実があります。
しかし、近代的な『知の優越欲求』の奴隷になってしまった文明人は『知らない幸福よりも知る不幸』を選ばざるを得ない状況に置かれてしまっていて、主観的な価値観や本能充足の快楽の枠組みに閉じ篭っているだけでは社会生活を営むことが出来ず、生存が不可能となります。

『満足した豚』を憧れて目指しても、私達は他者の存在を無視して単純な本能に従って生きる環境がないために不可能ですし、義務教育を受ける過程において自然に超越論的主観性が形成され、絶えず自己を客観視する癖がついています。
『満足した馬鹿』に憧れて目指しても、いったん、社会的存在として他者との関係性を意識してしまうと自分だけに通用する価値観というものを持つことは不可能になり、本能的欲求である食欲や性欲を満たすにしても金銭や知性、人格的魅力、他者との関係性が必要となってきます。

現代社会で生きる私達は、『満足した豚にも満足した馬鹿にもなれず、ソクラテス(超越論的主観)であることを余儀なくされます。
豚や馬鹿になれたとしても、それは刹那的な満足に過ぎないか、社会的な関係性のしがらみから離れた非日常的なバカンスの環境においてでしょう。
更に、メタレベルの禁欲主義や諸法無我を意識した上で、鈴木大拙のように自らを卑下して『大拙・大愚』と名乗ることはありますが、それはニーチェの無垢なる小児を目指してやまない『権力への意志』の表面的な昇華に過ぎないかもしれません。

何者にもとらわれず無執着で生きる事を自由と考える傾向が誰にでもありますが、そういった無制限の自由は社会内存在あるいは政治的存在としての人間には実現不可能な自由なのです。
それは、即ち煩悩を消尽できない人間の自我と表裏を為すものでしょうし、その『世界・他者から分離した自我』こそが私達が一般に質的功利主義において高級な快楽と呼ばれる『知的思考過程・言語的説明を経た快楽』を生み出す源泉でもあるのでしょう。

趣味嗜好にまつわる低級や高級に拘る自我の強い人間ほどに苦悩が深く、『隣りの芝生は青い』といったような無為な劣等感の補償に心的エネルギーを浪費させる傾向がありますから、程よく主観の檻の中で自我を単純な快楽で包む事も大切です。


何だか、ミルの自由主義と関係ない話になりましたが、快楽の質的差異の根底には他者と自分を強烈に切り分ける近代的自我があり、それが自分らしさや個性の重視、自己主張の必要性といった『現代で称揚される個人主義の価値』の『負の部分・心理的な重荷となる部分』にもつながっていく恐れもあるという事ですね。