アメリカと日本の関係。幕末史を振り返りながら。

現在、蜜月関係にあるアメリカ合衆国と日本国の初めての出会いは、『太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった4杯で 夜も眠れず』の有名な狂歌に表現されるように驚愕と恐怖を伴う屈辱的な出会いでした。
強力な軍事力の象徴である蒸気機関で動く軍艦黒船*1を従えたペリー提督に、幕末の日本は対抗する手段が事実上ありませんでした。
たった4杯の高級なお茶(上喜撰)で眠気が飛び不眠になるように、たった4隻の黒船(蒸気船)による開国の要求に日本は平和の惰眠から目を覚まされ、開国以外に選択の余地のない隘路に追い込まれました。
永遠に続くかのようなのんびりとした徳川幕府鎖国体制の酔夢から、一気に現実の厳しい国際情勢の只中に身を置くこととなり、帝国列強の利害と謀略が渦巻く『世界』に対峙せざるを得なくなったのです。

日本も国内の意見の割れや過激な攘夷派の運動もあって、出来る限りの粘り強い交渉をしようとしたのですが、結局、開国を余儀なくされて、1854年日米和親条約*2、1858年に日米修好通商条約*3という不平等条約を結ばされる事となりました。

アメリカと結んだような不平等条約は、他の帝国主義列強であるロシア、イギリス、フランス、オランダと結ばれ、それらを総称して当時の年号をとって『安政5カ国条約』と呼ぶことがあります。
日本国内で、『開国派』と『攘夷派』の意見の割れがあったと書きました。
開国派には、幕府の井伊直弼が代表格として存在し、井伊直弼吉田松陰橋本左内や水戸学派の過激分子など尊皇攘夷派を処刑して『安政の大獄』を断行して幕府の権力を誇示しようとしますが、結局、桜田門外の変で暗殺されます。
欧米列強との戦争を経験した長州藩薩摩藩*4は攘夷の無理を悟って、事態は尊皇攘夷思想の『尊皇』の部分が前面に出た『倒幕開国』の方向へと流れていきます。

野蛮な外国を打ち払うべしという『攘夷』の理念は、元々、中国の儒教朱子学の思想に起源をもちますが、攘夷の理念は、自国が世界の文化・文明の中心地であり、最も進歩した優れた国であるという中華思想と密接に結びついています。

当時の幕末において攘夷思想の実践が不可能だったように、現代の世界情勢の中においても中東のイスラム諸国や東南アジアやアフリカの開発途上国アメリカを攘夷することは不可能ですが、過激派のイスラム原理主義者やテロリストは暴力やテロでアメリカを中心とする外国勢力を打ち払い撤退させることが出来ると盲信しているところに不幸があるのかもしれません。
欧米から発信される市場経済に基づく物質文明や自由民主主義のグローバリズムの荒波は、過去の黒船以上に強力で圧倒的な勢いを持ちますが、かつてのように直接的な軍事力で威圧する形を取るのではなく、民衆の自由や物質への憧憬や欲求を飲み込んで各国へ流れ込んでいくところに大きな違いがあります。

かつて、太平の眠りを覚ましたアメリカと日本は、現在、政治的・経済的・軍事的に密接に関係していて簡単には離れることが出来ない同盟関係にあります。
この関係を幕末のような不平等な関係や一方的な従属あるいは依存の関係に陥らないようにうまく調整しながら主権国家として独自の政治理念や存在意義を掲げ、アメリカを国際的孤立に追い込まないようにする対等なパートナーを目指していって欲しいものです。

また、尊皇攘夷思想や日本の伝統的政治体制を考えるには、権力の二重構造として、天皇の権威と将軍の権力、現代では天皇の権威と議会の権力について触れなければならないでしょう。

*1:ミラード・フィルモア大統領により特命大使に任命されたペリーの率いる軍艦・黒船は、鋼鉄製の不落の要塞であり、海上から内陸地を攻撃できる艦砲に対処する手段が日本にはありませんでした。浦賀に来たペリーのような帝国主義列強の軍艦による威圧的な外交を『艦砲外交』と呼ぶ事もあります。

*2:日米和親条約は神奈川において調印され、下田、箱館(函館)のニ港を開港して、米国艦船に石炭・水・食糧などの補給を行う事とした。下田に米国総領事館が置かれ、この条約締結を端緒に、神君(徳川家康)以来の鎖国の祖法が破れ、次々に帝国列強と同様の不平等条約を結ぶことになる。

*3:日米和親条約を更に発展させ外国の権益を拡大することを認可した本格的な不平等条約としての体裁を持つものが日米修好通商条約である。既に開港していた下田、箱館に加えて長崎、神奈川、新潟、兵庫の4港を開港することになり、それら開港地には外国人居留地を設立することになる。更に、領事裁判権を規定して日本国内において外国人が犯罪を犯した時に自国の法律と裁判で裁く事が不可能となる『治外法権』を認める事になる。外国からの輸入品への関税率を定める関税自主権も失う。通常、幕末〜明治期に至る不平等条約とは、『治外法権』と『関税自主権の放棄』の内容を含む条約を意味する。

*4:長州藩薩摩藩も初め、強固な攘夷思想を持っていたが、長州藩は馬関戦争で、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの連合軍に敗れ、薩摩藩もイギリスとの薩英戦争に敗れた事で、現在の日本国では圧倒的な軍事力を擁する列強諸国には勝てないと悟る。日本国の独立を守り一層の発展を期す為には、弱腰で無力な徳川幕府を打倒して、政権を天皇に返上し、近代的な中央集権の統一国家を建設する必要があるとして、長州藩薩摩藩土佐藩肥前藩などを中心に尊皇思想と倒幕思想が融合した開国倒幕運動の気運が高まる。この倒幕運動が、戊辰戦争へと結実して明治政府が誕生する。