『痴呆』から『認知症』へ――行政用語の変更

痴呆の新呼称は「認知症」 厚労省、行政用語を変更
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041119-00000208-kyodo-soci

痴呆に替わる呼称を検討していた厚生労働省の検討会は19日、「認知症」を新呼称にする方向で大筋合意した。来月に予定している検討会報告書の取りまとめを受けて、同省は行政用語を「認知症」に変更。来年の介護保険制度改正でも法律用語として使う方針だ。これを機に医学界も用語の見直しに向け検討に入る予定。
 ただ、痴呆という言葉は広く浸透しており、普段の生活の中では引き続き使われる可能性が高そうだ。
 検討会は候補を6つに絞り込み、9月から国民の意見を募集。その結果、適切な認識ができない痴呆の特徴を表した「認知障害」が最も多く、「認知症」「記憶障害」「アルツハイマー」「もの忘れ症」「記憶症」の順だった。ただ、「認知障害」はすでに精神医学分野で使われているため、今後混乱する可能性があるとして、2位の「認知症」がふさわしいと判断した。
共同通信) - 11月19日19時57分更新

今回は、行政用語としての痴呆の名称変更で新たに『認知症』という用語が造語されたわけですが、精神分裂病統合失調症への名称変更と合わせて、こういった病名の改正の流れは差別問題を考える人権思想と種々の障害者に優しいバリアフリーな福祉社会の構築に後押しされてのものですね。
私はこういった国民のコンセンサスを経た形での病名の見直しは行き過ぎた言葉狩りにならなければ望ましい事だと思います。

健常者であっても、自分が病気になったり心身の障害を負った場合にその病名のスティグマ(烙印)を押される可能性は絶えずあるわけですから、病者・障害者の立場に立った時にその病名で呼ばれる事に嫌悪感や被害感がないだろうかと想像力を働かせる事は必要でしょう。
痴呆症の老人という言葉からはすぐにボケ老人というイメージが浮かんでしまうように、ボケてしまってその人の固有性(自我意識)がなくなるという人格的な全否定や人間としての尊厳の低下という価値判断が慣習的に内在化されていますので正式な病名としては余り適切でないでしょう。
自分がボケ老人と呼ばれる事への抵抗が、アルツハイマーを発症して自我同一性に支えられる人格を喪失してしまえば起こりようがない為に、最低限の人間の尊厳は社会や地域、家族が擁護するしかなくなるのが難しいところではあります。

高齢化社会の最大の問題は、老人介護問題だと言われますが、その中でも最も困難な高度介護はアルツハイマー型痴呆ですね。
介護保険などの社会保障制度や資金援助だけではその介護を十分に実施する事が難しいですし、経済的に余裕があってアルツハイマー専門の老人介護施設に預託出来なければ、その介護作業と生活の世話の大部分は結局、家族が見る以外に方法はありません。
アルツハイマーは現段階では不可逆的な精神障害とされ不治の病ですので、介護し世話をする家族が非常に疲労困憊します。
更に高齢化社会では、介護する人が同じくらいの年齢の配偶者だけしかいなかったりするので、介護疲れによる共倒れを防止するために、行政の福祉施策におけるソフト面での人的支援は必須です。特に、アルツハイマー専門の知識教育と介護訓練を受けた人材の育成と派遣を、高齢者世帯に対して優先的に迅速に行う必要があるでしょう。

老人性痴呆は高度な精神病の一種でもありますが、脳の器質的病変(萎縮や神経細胞の減少やシナプス結合の乖離)や脳の血管障害によるところが大きいので精神療法は有効性が殆どなく、薬物療法抗精神病薬などを用いて痴呆の進行を出来るだけ遅くしようという維持療法のレベルに止まります。

最新の薬理研*1でも、痴呆症状の中心である記憶障害・同一性(人格)の障害・判断力思考力の障害・認知全般の障害からくる徘徊行動や攻撃的行動、失禁などの問題行動群そのものを完治させる方向の研究はあまり芳しくない(一度、大きく萎縮してしまい大量に減少した脳のニューロンや崩壊したシナプス結合を可逆的に再生させることは原理的に不可能であるとする医学的見解もあります)ようですが、症状の進行を停止させる方向での研究はかなり有効なものがでてきているようです。*2

現代社会の病理学で病名を考える場合には、出来うる限り差別感情を喚起するような価値判断を名称に込めない事と事実としての病態を的確に名称で表現できている事が重視されるのでしょうが、今回の『認知症』はアルツハイマー病(アルツハイマー型痴呆)の典型的な症状の一つである外界の事物が何であるか思い出せず認識できないという認知障害をそのまま病名にしたものです。
認知機能は記憶機能に支えられている側面が強いですから、認知が障害されているという事実は当然記憶機能にも『病的な物忘れ』『新しい物事に対する記銘能力の喪失』といった障害が現れる事が想定される事になります。

最も大きな問題というか周囲の悩みの種となる症状は、私は『アイデンティティの喪失=自分が誰だか分からず、過去の人間関係の全てが忘却され、会話が成立しないこと』だと考えます。
配偶者や家族にとっての痴呆の絶望的な悲しみというのは、今まで大好きだった人、尊敬していた人が予告なく突然に人格的同一性を失ってしまい、それまで親密な関係で相互に信頼し合っていたのに簡単な意思疎通さえ不可能になってしまうところにあるのではないかと感じます。
釈迦も説くように生老病死の四苦の存在は人間の人生における真理ですが、老いる前に何らかの原因で命を落とさない限り、誰もが老いの宿命からは逃れられません。
死ぬまで元気な身体と正常な精神を維持して安らかに老衰し天命をまっとう出来れば幸いなのでしょうが、高齢化社会における痴呆問題が私たちに問い掛ける人間の生の意味や生の終わり方の問題は余りに重いですね。


DSM―Ⅳによるアルツハイマー型痴呆の診断基準

A.以下の2つによって明らかとなるさまざまな認知障害
(1) 記憶障害(新しいことの学習障害と以前に学んだ情報の想起障害)
(2) 以下の認知障害のうち少なくとも1つ
a. 失語(言語障害
b. 失行(運動機能が正常にもかかわらず運動活動を遂行することができない)
c. 失認(感覚機能が正常にもかかわらず物体を認知、同定することができない)
d. 実行機能の障害(計画、組織化、筋道をたてること、抽象化の障害)

B. 認知障害による社会・職業上の働きの障害、また以前の社会・職業上の機能水準からの有意な低下

C. 緩徐な発症と持続的進行

D. Aにみる認知障害は以下のものによらない


DSM―Ⅳによる脳血管型痴呆の診断基準

(1) 進行性の記憶や認知障害をきたす中枢神経系の状態(脳血管障害、パーキンソン病ハンチントン病、硬膜下血腫、正常圧水頭症
(2) 痴呆をきたす身体症状(甲状腺機能低下症、ビタミンB12葉酸ナイアシンの欠乏症、高Ca血症、神経梅毒、HIV感染症
(3) 物質惹起状態
E. この障害は、せん妄の間のみに生じるということはない
F. 他のⅠ軸障害によっては説明されない


A. 以下の2つによって明らかとなるさまざまな認知障害
(1) 記憶障害(新しいことの学習障害と以前に学んだ情報の想起障害)
(2) 以下の認知障害のうち少なくとも1つ
a. 失語(言語障害
b. 失行(運動機能が正常にもかかわらず運動活動を遂行することができない)
c. 失認(感覚機能が正常にもかかわらず物体を認知、同定することができない)
d. 実行機能の障害(計画、組織化、筋道をたてること、抽象化の障害)

B. 認知障害による社会・職業上の働きの障害、また以前の社会・職業上の機能水準からの有意な低下

C. 局所性の神経徴候と症状(深部腱反射の亢進、伸展性足底反応、仮性球麻痺、歩行障害、四肢の筋力低下)、脳血管障害を示唆する検査所見で、それが病因的にその障害と関連があると判断されるもの(皮膚や白質を含んだ梗塞巣)
D. この障害は、せん妄の間にのみ生じるということはない

*1:アルツハイマー型痴呆の生理学的病態と発現機序は、数多くの要因が関与しており非常に複雑である。生理学的病態としては、脳組織全体の萎縮・脳の神経細胞ニューロン)の減少・アセチルコリン系やヒスタミン系など神経伝達物質の異常などが典型的なものとして挙げられます。また、アルツハイマーの解剖学的知見では、脳の老人斑の増加形成が見られ、Aβ(アミロイドβ)蛋白の蓄積や異常神経原繊維の蓄積が原因になっています。

*2:脳の老人斑を形成するAβ蛋白と神経伝達物質の障害とは有為な関係があり、Aβの増加を抑止することが根治につながると考えられますが、現代では神経伝達物質アセチルコリンの枯渇を改善する薬剤やGABA(γアミノ酪酸)、ノルアドレナリンなどを増加させる薬剤などが研究されています。大脳皮質におけるAβ蛋白の蓄積や沈着が大きなアルツハイマーの発現機序になっていると考えられています。