生物社会と人間社会の規範の拘束強度の違いとテロリズム


人間の脳は、外部世界の認識に際して『プロトタイプ=標準的原型』からのズレを巧妙に利用し、『不完全な情報入力』を過去の経験や知識によって形成されたプロトタイプで補完して完全なものにする。
例えば、途中で切れた不完全な円や三角形であっても、点線で描かれた人の顔であっても、携帯電話やネットの顔文字であっても、私たちの脳は不足している情報を自動的に補って、プロトタイプと照応させ、それを円、三角形、顔として認知することが出来る。
極端に言えば、『へのへのもへじ』であっても、○を二つ並べて、下に一本の線を引いても、人間の脳は、瞬時にプロトタイプと照応させて、それを『人の顔』として認知する。

これは、意識的な認知ではなく、無意識的あるいは機械的(システマティック)な認知であり、回帰的なフィードバックシステムである。*1

抽象絵画や『そこに何が描かれているかよく分からない』非常に質の悪い知覚入力があった場合に、人間の認知を大きく左右するのは『言語的附帯情報』である。
白黒の斑点が散らばっていて、色々な解釈が有り得る曖昧な絵を見た場合に、隣にいる人から『ほら、あそこの黒い斑点がシマウマの縞に見えるでしょう。左上にあるのは、高い山で・・・』といった説明を受けると、私たちの認知は途端にその言語に誘導されて、そこにシマウマや高い山を見出してしまうのである。
これは、ランダムな点や線の集合である『混沌』からある意味や解釈が成り立つ『秩序』を生み出す一般的な認知の流れであり、その場合に重要な役割を果たしているのは『言語』である。

人間の精神は、その基本的な傾向としては、プロトタイプに基づく前例踏襲であり、過去の体験や経験、学習活動によって得られた既存の認識や従来の価値観の枠組みに強い影響を受け易い。*2

人間は、自然界という物理的環境に生きる生物であると共に、共同体・国家・地域社会・家族という広義の社会的環境で生きる生物でもある。
社会の定義と範囲をもっと広げてみれば、アリ、ハチ、馬、ライオン、高等類人猿なども同種の仲間と共同生活を行う『社会』を持つ生物であり、アリやハチなどは社会性昆虫などと呼称されることもある。
生物個体が構成する社会は、遺伝子によって規定される社会的役割を達成する分業的協力と遺伝子によって命令される社会的規範によって滞りなく機能しているが、人間個体が構成する社会は、遺伝子の命令によって秩序や機能を維持しているわけではないところに特異性があるのではないだろうか。

分業的協力を実現する為には、市場経済システムや社会主義システム、原始共同体の分配システムといった資源(財・食料)の分配システムが構成員の相互承認によって確立されていなければならないし、その経済システムのルールを守るという行為規範が個人に内在化していなければならない。
産業文明社会においては、『お金を払わずに商品を取ってはいけない』というルールを誰もが知っていて、その商品・サービスと貨幣の交換ルールが分業的協力をする為の企業・官庁・個人事業の労働活動を可能にしている。
また、社会性昆虫や共同生活をする動物は、遺伝子によって規定される社会規範に無抵抗に従わざるを得ない為、社会的地位や交配を巡る闘争などはあっても、社会規範自体を自発的に破って身勝手な行動をすることは出来ない。

しかし、人間が遵守する社会規範や行動規律は、遺伝子によって命令される抵抗できない絶対の規律ではない為に、他の生物とは違って意識的にその規範(ルール)を破る事によって、利己的な欲求を満たしたり、政治体制の転覆など政治的な目的を達成しようとする個人も現れる。
お金を払わずに商品を持ち逃げする万引きや相手を騙して不当な方法で金銭を獲得する『オレオレ詐欺霊感商法催眠商法』の詐欺商法など社会規範を逸脱して利己的欲求を満たす人はいつでも居るし、現在の政治体制をテロリズムによる暴力的な方法で変更しようとするテロリスト達も人間世界には存在する。
犯罪行為は他者の権利や利益を不当に侵害する事で人々に損害を与え、野放しにすれば社会に恐怖や不安を蔓延させるので、法によって取り締まられるべきものだし、テロリズムはある集団組織の利益を実現する為の政治体制や政治状況を実現する為に、無関係な民衆の生命や健康を剥奪して、予測不可能な恐怖によって市民社会を支配しようとするもので『政府の正当性の否定』という社会秩序の根幹を揺るがす行為である。

テロリズムレジスタンスの区別が明瞭でない場合もあるが、独裁恐怖政治を行う強圧的な政府で対話可能性が完全に閉ざされている場合などを除いて、暴力的な政治活動はテロリズムと見做すべきであろう。
また、不当な政府権力に対するレジスタンスであっても、市街地において無辜の人々を爆弾や拳銃で無差別に殺戮する事で自らの政治目的を達成しようとする事はその動機が如何に純粋で、その目的が如何に高尚なものであっても許されざる非人道的な犯罪行為である。
オサマ・ビン・ラディンザルカウィといったテロリスト集団がどんなにアラブのイスラム社会の大同団結的な大義名分をかざしても、無関係な人々を犠牲にして政治的メッセージを発し、自爆テロなど無差別的なテロリズムの攻撃によって市民生活を恐怖に陥れる事で政治的目的を実現しようとする手法を取る限り、そこに正当性や説得性が生じる事はない。



一般市民の利益や生命を不当に簒奪する反社会的行為は、決して許す事は出来ないものだが、犯罪行為やテロリズムなどの反社会的行動が存在するのは、人間が規範への盲目的な従属ではなく自発的な行動を選択する事が出来るという事を意味するものである。日本において問題になっているアパシー(意欲減退症候群)やNEETに代表される自発的な社会への不参加=非社会的行動も、人間が他の生物と同じように遺伝子の命令に忠実な行動を取るのであれば起き得ない問題であり、自由な意識的行動を行い得る事が社会現象として表出したものである。

これは、非合法的な個人の行動による規範無視や非社会的な個人の社会参加の放棄だけを意図しているのではなく、議会における論議を経た合法的な法改正や制度改革なども含むもので、人間社会の規範は相対的で可変性を持つものである。
社会規範が相対的なルールで変更可能なものである事、そして、構成員相互の議論という民主的な手続きを経て社会のルールをより実践的で有効性のあるものに変えていける事は、人間の行動が遺伝子によって事前に規定されているわけではない事の一つの証左であろう。

養老孟司のような全ての現象や行動を脳に還元する唯脳論の立場では、道徳的認知や道徳的行動、更には道徳性に準拠した社会的行動をも脳内現象に帰する事が出来るという事になるが、私たちの社会活動を支える他者との関係性は確かに脳の認知機能に大きく依拠しているようだ。
人間の道徳性を支える基盤は、歓喜や苦痛、幸福や悲哀といった実に多様な感情を感じる『人格』にある。

倫理学では、こういった道徳的判断を為す理性を持ち、苦痛や喜びといった感情を抱く自己意識を所有する個人を倫理的に尊重すべき人格と承認する『パーソン論』という倫理的スタンスがある。
このパーソン論は、ヒトのES細胞の再生医療や生殖医療への応用といった医療技術の研究利用を推進し、人工妊娠中絶の倫理的悪性を排除したりする場合の理論的根拠として用いられます。また、脳死をヒトの死として認定し、脳死患者から臓器を摘出して移植手術を実施する事の正当性を示したりする場合にも利用される論理であり、現代の様々な倫理的課題の解決に一役買っているものである。
しかし、パーソン論の根底にあるのは、徹底した人間中心主義と『最大多数の最大幸福』を志向する量的功利主義であり、合理的で理性的な近代的個人を人間の基準とする知性優位主義への偏向です。

パーソン論というのは、簡潔に説明すれば、『生物学的なヒト=人間としての尊厳を持たないヒト』と『倫理学的な人間=社会構成員として認知され、人間としての尊厳を持つ人間』とを厳然と区別する倫理学上の思想です。
トゥーリーの提唱したこのパーソン論は、功利主義実用主義の立場に立てば、非常に便利で効率的なものであり、科学技術の応用や人工妊娠中絶にまつわる人間の罪悪感や良心の咎めを緩和してくる理論でもあります。
ただ、『人間とは何なのか?』『人間の尊厳は発生段階のどの段階から生じるのか?』に答える理論として完全なものだとは私は考えておらず、もう少し人間的感情と理性を十全に働かせながら、哲学的・倫理学的・社会学的に深めて考える必要を感じます。

生殖医療技術が発展する前までは素朴に信じられてきた『生得的な尊厳(inherent dignity)』が、今、パーソン論の人間定義によりぐらぐらと揺れているといった感覚とそれに対する違和感をどうすり合わせていけばよいのでしょうか。

*1:人間の認知は、基本的に過去の学習経験に基づくプロトタイプ参照型のフィードバック回路であり、『認知の無原則な自由』に自由意志の根拠を求めることは端的に間違いであると言えます。また、因果的秩序を超越する人間の自由意志という想定も形而上学的であり、そのアプローチからは人間固有の自由を素朴に信じるという帰結に至る他ないという事になるでしょう。私たち人間は、自然世界の因果的秩序から逸脱する事は出来ませんが、外部世界や他者から決して侵犯されない『主観的な内面世界=自我意識』を持ち、未来に向かう複数の選択肢からある一つを選択できるという自発的かつ創造的な自由意志を持ちます。また、認知は回帰的なシステムですが、その内実は無限のパターンを持つ複雑さと予測不可能性を持ちます。認知から導かれる思考や感情、直観というものまで含めると、正に人間の心の機能は驚異的な独自性と多様性を持ちます。更に、認知は言語的解釈、環境的意味づけによっても左右される柔軟性と可塑性を持ち、そこにこそ人間精神の固有性があるのではないかと考えます。

*2:人間の持つ最も理性的な思考の精華である科学史を振り返ってみた場合に、現代人の立場からは『何故、2000年もの長きにわたって、アリストテレスプトレマイオスの説く天動説が信じられたのだろう』と疑問に思うが、人間の認識は、基本的に既存の認識を常識として受け入れ懐疑する事が少ないという特徴を持つ為というのが一つの答えだと考えられる。先入観や固定観念から自由になることは、どんなに自分が創造的で個性的だと信じている人でも至難であり、完全に従来の価値観から自由に解き放たれるという事は有り得ない。