『私』が『私』であるとはどのようなことか?脳と意識を巡って。


心と脳の相互的な関係について議論されている時に、頻繁に対立軸として採用されるのが、唯物論と観念論の歴史的対立であり、自然科学全般の基本的な研究手法と言える『還元主義』とクワインが説くような『ホーリズム』の手法的対立です。
心は脳と同一のものなのか否か、意識は脳が生み出す物質性に依拠するものなのか否か・・・この問題に現代の脳神経科学の成果を用いて明確に正答を出すことが出来るでしょうか。
私は、『“私”という自己同一性』の故に、心の客観的な機能と脳の局所構造の対応は解明できても、心の全てを特に主観的な私の意識全てを脳に還元して考える事には超克し得ないアポリアがつきまとうのではないかと思います。
また、『心』と『脳』の相関や対立の問題は、その問題が語られる文脈や考察方法、そして、どういった目的意識を持って『心』を分析しているのかに依存すると考えています。

唯物論を採用する科学的世界観の枠組みにおいては、感覚器官によって観察可能なものしか知識の対象に出来ませんから、『霊、魂、身体から独立した精神』は原理的に検証不可として退けられます。
自然科学の世界においては、『心』は『脳』という物質基盤に依拠した複雑多様な機能の集合体である事は確かな事ですし、これは客観的な次元で他者と共通確認できる科学的知識として評価されるべきものです。
また、観察可能な事象(一部の宇宙論素粒子論では、観察不可でも純粋な数理学的検証に拠っていますが)を取り扱う自然科学の出す回答は、一般的な日常生活の経験と無矛盾であることが多いです。

脳という物質的基盤なしに心だけが宙に浮いた存在として観察されることは、原理的に有り得ない事ですし、精神障害による症状と脳の損傷や器質的・機能的障害が有意な相関関係を示していることからも、私たちの心は脳の状態の影響と無関係ではいられません。

ただ、人間の脳が心の機能を生み出す必要条件であることはおよそ確からしいと認めるとしても、『私の脳』と『観察対象としての他者の脳』を同次元では語れないというところに『心の独自性』があると思います。
つまり、『私の自我意識』と『脳の機能としての一般的な心』は必ずしも同一視できません。

これは、心が知覚する質感としか表現し得ないようなクオリア問題などとも連接してきます。
『私という意識について・私が見ている色艶の感じについて・私が触っている感触について・私が匂っている良い香りについて・私の喜怒哀楽について』、厳密に他者に伝達する手段が存在せず、私と他者の感覚を比較して確認するには言語的な了解以外の方法がないことによって生じる問題です。
少なくとも、どんな人間でも『自分以外の他者の脳に依拠して、意識を生み出した人間』は、この世界に存在しません。


完全に意識(心)を物質的基盤に還元できない事の思考実験として例え話に良く出されるのが、『一卵性双生児やクローン人間の自己同一性問題』です。

唯物論的な自然科学者はこう言います。
『心は、脳の電気的・化学的な情報伝達活動の結果として生み出される機能であり、脳を組み立てる設計図は遺伝子を保存するDNAに書き記されている』
しかし、何故、理論的には全く同じ遺伝子を所有する一卵性双生児において『自我意識が共通しないのか?』、何故、人工的に“私”と全く遺伝情報を所有するクローン人間には『私の意識が継承されないのか?』という問いには物質還元主義的な心理観では答えることが出来ません。
実際には決して実現できない事ですが、『私の脳を人工的に再現する場合に、原子レベルに至るまで全く同質同量の別の脳を複製出来たと仮定して、そこに私と同一の意識が生じるか?』といえば『NO』でしょう。

全ての『感覚・思考・感情・直感といった心の機能』とされるものの標準的な指標は『私の意識の内部』にしか存在しない事を思う時、脳によって解明される心の世界は飽くまで『誰のものでもない、言語的に同意された心のプロトモデル』に過ぎません。
脳科学が明らかにするもの、それは『私の意識』ではありません、それは、私とあなたを全く同じ意識を持つと仮定した上で、言語的に共通理解され得る『我々の意識』です。

今、述べた様に、脳神経科学や人工知能などの物理的科学の抱える本性的な限界が露呈するのは、『脳の科学的研究』ではなく『私の意識の主観的内容と質感』においてであると言えるのではないでしょうか。
脳科学の研究成果をどれくらい重視するか、それは『あなたの語る言語表現を、私の心の中で起こる現象としてどれだけ信頼することができるか?』に依存しているとも言い換えることが出来そうです。

今回は、大雑把に、脳(物質)に還元され尽くすことがないであろう『私の意識』について考えましたが、同種の問題意識がトマス・ネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか?』やジョン・サールの『心の再発見』などで述べられています。