田代まさし被告の公判:プライバシーの権利と性嗜好障害


田代まさし被告:第2回公判
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20041218k0000m040113000c.html



覚せい剤取締法違反(所持、使用)などに問われた元タレントで無職、田代まさし被告(48)=本名・田代政=の第2回公判が17日、東京地裁(上岡哲生裁判官)であり、被告人質問で田代被告は「実刑を覚悟している。芸能界もあきらめ、家族もあきらめ、一社会人として普通に働いて生きていきたい」などと述べた。

 田代被告は、覚せい剤取締法違反罪で02年2月、東京地裁で執行猶予付きの有罪判決を受けており、実刑は確実とみられる。次回公判は1月27日で、結審する見通し。【牧野哲士】

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 田代被告の第2回公判に用意された一般傍聴用の27席に対し、希望者は137人に上り競争率は約5倍となった。報道用の傍聴席を持たないスポーツ紙記者が傍聴券を求めて多く並んでいたが、「法廷に立つ田代まさしを見てみたい」などと話す市民も多かった。

 開廷40分前に傍聴券の抽選が行われ、並んでいた都立大4年の男子学生(22)は「法学部の学生だけど純粋に興味だけで」と語り「小学生のころ『バカ殿』とか見てたから、何でそんな風になっちゃったんだろうか、と思って」と傍聴希望の理由を話した。男性が約9割を占めていたが、「こんなに集まるとは思わなかった」と話す都内在住の女性(22)もいた。

 1980年に「シャネルズ」のメンバーとしてデビューし、お笑いタレントとして「志村けんのバカ殿様」に出演するなど順調な芸能活動をしていた田代被告。しかし度重なる懲りない犯罪に世間の注目を集めていた。2001年、米TIME誌がその年を代表する人物を選ぶ「PERSON OF THE YEAR」のネット投票において、組織票によるいたずらで一時得票数1位を獲得したことなど記憶に新しい。

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■2000(平成12)年9月

 東京都目黒区の東急東横線都立大学駅の改札付近で、カメラを隠したスポーツバッグを抱えて帽子、サングラス、白いマスク姿で女性のミニスカート内を盗撮。「『ミニにタコ』というダジャレの映像が作りたかった」と釈明。東京区検は都迷惑防止条例違反で在宅のまま略式起訴し、東京簡裁は同日、罰金5万円の略式命令を出す

■01年6月

 芸能活動を再開

■01年12月

 自宅近くの東京都大田区のアパートに住む男性会社員の入浴をのぞいた疑いで現行犯逮捕。さらに自宅で覚せい剤の粉末約0.9グラムを押収され、覚せい剤取締法違反容疑で再逮捕

■02年2月

 東京地裁覚せい剤取締法違反(使用、所持、譲り受け)に問われた初公判が開かれ、起訴事実を全面的に認める。被告人質問では「芸能界への復帰は100%無理で、一社会人として罪を償いたい」と謝罪。東京地裁は懲役2年、執行猶予3年(求刑・懲役2年6月)を言い渡す。テレビでの仕事が一切なくなったため、ビデオ映画制作の世界に転向

■04年6月

 東京都杉並区の都道で、乗用車をUターンさせたところ、後ろから走ってきた男子専門学校生のオートバイと衝突させ、左足の骨を折る重傷を負わせる

■04年9月

 執行猶予期間中に東京都中野区でバタフライナイフを不法所持していたとして銃刀法違反容疑で現行犯逮捕。一緒にいた女性のリュックサックに、覚せい剤約2グラムと大麻樹脂約4グラムを隠し持っていたとして覚せい剤取締法違反などで再逮捕


新聞記事を流し読みしている中で、盗撮事件や風呂の覗き見で世間を騒がせた田代まさし被告の、覚醒剤取締法違反(所持・使用)の公判記録を偶然、目にした。

盗撮という違法行為は、法律に基づく刑罰はそれほど重い犯罪ではなく、刑法そのものには盗撮を含む覗き行為全般を規定する法律が整備されていない。
盗撮は、通常、『軽犯罪の覗きの規定』が適用されて処罰されるが、量刑は拘留もしくは科料であり、最も軽い罰則になる。もしくは、各都道府県が独自に定める迷惑防止条例によって取り締まられるのだが、科される刑罰は、違法行為の悪質性に比して相対的に軽微である事がほとんどである。

これは、端的に言って、公共圏における性犯罪や迷惑行為を事前に抑止し、個人のプライバシー保護を尊重して対策を取るべき国家の怠慢であり、重大な法体系上の不備・瑕疵ではないかと思う。
現在、小型カメラ、カメラ付き携帯電話や無線機器など情報通信機器の急速な発達により、インターネットやAVビデオ、ポルノ専門雑誌等の媒体において無秩序に氾濫しているとされる盗撮や痴漢の映像・画像の存在そのものが犯罪行為のれっきとした証拠であるのに、その惨状に結果として頬かむりをするような政治や法曹の無関心さは気に掛かるところである。
そこに本人が気付かない内に極めてプライベートな生活場面が公開されていても、通常、盗撮や痴漢といった行為に特別の関心や欲求を募らせている人たち以外は、自分達のプライバシー被害の実態を知る事すらないだろう。

『本人が気付く事なく迷惑を受けていないならば、盗撮してもいいではないか?』という盗撮マニア側の理屈は、一見、ラディカルな自由主義を逆手にとった正当性があるように見せかけていながら、市民が安心して生活できる公共生活圏の維持という『プライバシーの権利』を著しく毀損するものであり単なる屁理屈の域を出ないと考えなければならないだろう。
特に、問題なのは、田代まさし氏の様な個人の偏向した性的嗜好を満たす観賞の用途に用いる盗撮もさることながら、ビデオや画像、ネット配信の流通販売を目的とした組織的な盗撮犯罪であると考えられる。

個人が他人の目から秘匿したいと考えている極めて私的な生活行動・裸体・室内・家庭内環境は、法的に保護されるべき人格権に帰属するプライバシーの権利であり、その権利を侵害した上で商業利用して経済的利益を上げるという事は法的にも倫理的にも許されざる事態であると言えよう。
何だか、政治家や企業経営陣のプライバシー保護の裏の意図が見え隠れする胡散臭い個人情報保護法や国民の監視体制確立の用途に流用できる住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)整備には、政府は異常に熱心だが、『プライバシーが保護される安寧な市民生活』という本来の目的に立ち返って欲しい。
私は、勿論、マスメディア(テレビ・新聞)や巨大企業によるプライバシーの不当な侵害(表現・言論活動の自由の範疇からの逸脱)やインターネット空間における個人情報流出や漏洩も節度を持って規制する必要があると考えているが、個人や小規模集団(犯罪者集団)からのプライバシー侵害の問題にももっと真摯に取り組んで欲しいし、公人でない私人(一般市民)にとっての私的領域への侵犯行為の大半はマスメディアによるよりも個人によるほうが多いように思える。

プライバシーの権利は、安寧な社会生活を万人が送れる事を目的とした『大多数が秘匿したいと考える私的な領域への他者の干渉を排除する権利』である。
政治家や著名人、公職に就く者などの情報開示に際しては、プライバシー保護と公共の福祉概念とが衝突するケースも多々あるだろうが、私生活の微細にわたって個人の情報の全てを暴き立てることは単なる『大衆の野次馬根性への迎合』であって、問題・事件の本質と関係する私的領域の情報に絞って開示すべきではないかと考える。
日本人の精神性として、犯罪者に対する社会的制裁の意味を込めた情報開示の要請があるという事も理解しているし、実際問題として、社会的制裁の程度がどれくらいが妥当なのかは非常に見定め難い。そして、視聴率が報道内容の中心的指標になるマスメディアに対して、適正な自制を求めるのはそれ以上に難しい事だろう事も容易に推察できる。

田代まさし氏の話題からプライバシーの権利の説明へと大幅に話がずれたが、覗き・盗撮行為に対する社会的制裁という視点を取れば、それは法的処罰に比較して余りに大きい。
田代まさし氏が、芸能人という立場での社会復帰に失敗し、窃視癖という盗撮や覗きを行う性的嗜好異常を矯正できなかった原因の一つとして、『性犯罪一般に対する厳しい社会的制裁』があるだろう。
勿論、立ち直って社会復帰が出来なかった一番の原因は、本人の能力以上の仕事を課された事による精神的重圧と本人のストレス耐性の弱さ、ストレスマネジメントの拙劣さにあると考えてはいる。

私は、田代まさし氏の窃視癖は、生物学的原因などによって規定されるトランスセクシャリズム(性同一性障害)や性嗜好異常としてのサディズムマゾヒズムなどのように完全に不可逆的で生涯を通じて矯正が不可能なものだとは思えないところを現在も持っている。
あるいは、職業生活の遂行、社会役割の享受という部分で本人の耐性を大きく越えた精神的プレッシャーやストレスが掛かることで、そのストレス反応に付随する形で異常な性的嗜好が現れ、その性的嗜好を満たす事で本来の苦悩や葛藤を代理的に処理し、ストレスを発散していたのではないか。

私は、相対的に見て、社会的に高い地位にあるとされている大学教授をはじめとする教育関係者や警察関係者、上級公務員が犯す割りに合わないわいせつ事件、性犯罪、セクシャルハラスメント(セクハラ)について、色々と心理学的に考える部分はあるが、総じて、その犯罪の基底において、『社会的関係性という現実状況からの生物学的快楽による逃避』の防衛機制が働いているように感じている。
客観的に傍観者から見れば、素晴らしい業績を収めて、裕福な経済生活を送っているように見えても、本人の自己アイデンティティが現在の社会的地位に十分に違和感や苦悩なく確立されていない場合や家庭生活や友人関係における精神的ストレスの緩和が円滑に行えない場合にこういった性犯罪による失脚の陰が迫るのではないだろうか。
要求される社会的態度・発言・振る舞いを柔軟に受け入れなければ、現在、享受している社会的立場に居続けることは難しくなる。それは、相対的に増していく社会的責任や高い水準で要求される人格的価値によって、更に過大な心理的重圧になっていくことだろう。
田代まさし氏が、犯行実施以前に胃潰瘍などの心身症を患っていたという証言があったが、それも、社会的現実と責任に適応する自我意識や態度を維持する事が本人の能力を超えていた一つの現れかもしれない。

彼の社会的復帰を願っているが、家族からの心理的支援が期待できそうにない事がとても気に掛かる。その知名度が余りにも高いことがかえって職業的な再生の不利になることもあろう。
あらゆる犯罪の更生に共通することではあるが、家族や恋人、両親からの心理的な支えや復帰を信頼してくれる気持ちが大きな後押しになることがある。
人間の罪には、どれだけ贖っても贖いきれない重篤な罪もあるだろうが、田代まさし氏の犯罪は人生全てを投げ捨てて自暴自棄に陥って破滅に突き進むほどの罪ではないだろう。
証言した時のような『もう、自分の人生なんてどうでもいいから、薬物や女性の快楽に溺れようと思った』という基本的な逃避の心理傾向の是正を中核に据えて、新たなる人生の建て直しに全力を注いで欲しいと願う。

何人も、真に対峙すべきは社会でも他者でもなく、自己の精神である。
自己の精神に真摯に向き合って、進むべき道を模索し、行うべき行動を『内なる道徳律』に照らして判断する。
内なる道徳律が普遍的に妥当しない堕落した自己中心的なものにならないよう、絶えず、深き内省を行い、客観的なものの見方を作り上げる為の『他者との語らい』も必要になってくるのではないかと思います。





プライバシーの権利の発展については、以下のサイトが概略をまとめてくれている。
http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/041102/
http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/041102/02.html


まず古典的なプライバシーがどんなものかを紹介。古典的なプライバシーとは、ごく限定的に、社会(public)に対する個人の私的領域(private)の保障のことを指していた。だから、光があれば影があるように、人間と社会が存在するところには、すべてプライバシーの問題があるということができる。そういう意味で、社会を形成して以来、潜在的にはずーっと、人間はプライバシーの問題と関わってきたわけだ。それは、おそらく欧米的な「私的領域」の概念が存在しなかったといわれるアジア圏においても同様だと思う。

19世紀の末に「プライバシー」という名前を与えられるまで、プライバシーに関する法は、個別の法として存在していた。(1) 自分の住居への理由のない侵入や捜査を排除する権利すなわち「住居の不可侵」、(2) 理由もなく逮捕されない権利すなわち「身体の自由」、 (3) 自らの意思に反して発言を強制されない権利すなわち「内心の自由」、そして、 (4) 自分の手紙や日記などを勝手に公表されない権利や、他人の作品に勝手に自分の名前を使われない権利としての「著作権」などのそれぞれの権利にもとづいて、いま「プライバシー」と呼ばれている諸利益が保護されてきた。また、(5) 私的な事柄を公表されたことで社会的な評判が低下した場合は、そうした事柄を公表した人を「名誉毀損」で訴えることもできた。だから、今でもプライバシーといわれる包括的な権利を、個別の権利に還元して考えることも十分にできる。その例としてイギリスの態度が挙げられる。

EUからの圧力で現在はどうなっているかは知らないけれど、少なくとも私が調べた範囲では、同じ英米法を採用しているイギリスにおいては、法的権利としてのプライバシーを認めていなかった。理由は、プライバシーとして主張されている個々の法的利益は、伝統的にさまざまな権利や法理によって保護されてきていて、それらの伝統的法で保護されている以上、プライバシーなる不確定な概念を採用し 法を安易に拡張することは望ましくない、とイギリスの法曹が考えたからだ。私もこの立場に近い。だから、プライバシーについては消極論者です。

20世紀のはじめころのアメリカの法廷も、プライバシーなる法的利益をなかなか認めようとはしなかった。が、いくつかの裁判においてプライバシーを認めるような判決が出た。それらは、現在では「肖像権」として知られる、個人の肖像を無断で商業利用することを禁ずる法的利益として認められた。だから、プライバシーは、現在では知的財産権の枠組みに入っているところからスタートしているわけだ。で、それから約50年。プライバシーを根拠にした財産的・精神的損害に対する救済はいくつも裁判所で認められてきたが、その中核であるプライバシーとは何なのかは、あまり明確にされなかった。いくつかの学説が、これを整理あるいは定義しようとした。でも、なんだか曖昧だった。それに乗じて、いろんな「プライバシー」の主張がされた。英米法においては、法文に基づかずとも、自らの法的利益を主張しうることが裏目にでたわけだ。

現代社会の公共圏において、私的領域と公的領域の境界線の問題、『知る権利』と『プライバシーの権利』の衝突はこれからも大きな政治的議題となっていくだろう。
そして、国家と市民、国家と個人という不均衡で非対称な関係性における、私的領域への暴力的介入やシステマティックな全体主義的管理体制といったものへの警戒の目をもつ事も私たちは忘れるべきではないだろうと思う。
現代の民主主義や自由主義を採用する国家やその国家が制定する法律は、国民の権利を保護する目的でその存在やレジテマシーが確保されていると信じたいが、盲目的かつ無批判に政治状況を傍観する危険、政治的決定に対する無関心からポピュリズムファシズムへの転落、それらの歴史的事例には事欠かない。
慌ただしい日常生活や経済活動の中でも、自分達の行動や自由を公共の福祉や社会秩序の名目で抑止し禁止する法律への興味関心は絶やしてはならないと、時に社会問題への関心が薄らぐ事もある自分への自戒を込めてつくづく思う。


性的倒錯や異常性欲といった性嗜好障害の問題は、現在、社会通念として中心的価値観を形成している『性的正常性のセクシュアリティ』に大きく左右されるものですが、私は他者に危害を加えず、公共圏での猥褻物陳列などの風紀紊乱に属するような迷惑行為を行わない限りは、性的嗜好や性欲の特性、総体的な嗜癖に対して、精神医学理論などを用いて権威的に『正常・異常の区別』をする必要はないと思いますし、『異質性の排除の論理』には反対の姿勢です。
また、性(セクシュアリティ)全般を巡る種々の言説をここで展開することもあるかと思います。