ised@glocomとサイバー空間における民主主義の可能性


ised@glocom
http://ised.glocom.jp/ised/

少し前に、多くのブログで引用され、有意義な議論や興味深い評論が為されていたised@glocomの『情報社会の倫理と設計についての学際的研究』ですが、その内容の分量が膨大な事もあって、簡単に目を通しただけで終わっていました。
現在に至るも、まだ前半の討議の部分しか読めていませんが、また、気力の充実している時に、しっかりリテラシーを働かせながら読み進めていきたいですね。

仮想社会を構築するインターネット空間と現実社会の象徴としての物理的な国家システムを参照した場合に、更なる情報技術(IT)の発展と普及により前者の比重が相対的に大きくなってくるということが予測され、それはほぼ確実な事でしょう。
そして、旧来的な国民国家を前提とした管理監視システムや統制システムが時代遅れとなり効果的に機能しなくなる事で、迫り来る高度情報社会に対応可能な新たな法律・慣習・司法・警察軍事・行政システムを構築する為の総合的な社会モデルが必要となってきます。
isedでは、冒頭に『情報社会における「サイバーリバタリアニズム」と「サイバーコミュニタリアニズム」が再興しつつあることを示し、情報社会論を壮大な射程の下に照らし直すものとなっている』と書かれていますが、サイバーリバタリアニズムとサイバーコミュニタリアニズムという新しい概念を十分に読解してから、また色々思うところがあれば書き残したいと思います。

インターネットを利用する・できる人口の飛躍的な増加によって、インターネット空間における従来のコモンセンス(常識)が通用しない場面が多くなってきます。暗黙の了解的なコモンセンスが、有効に機能している間は、未開民族の人々が古くからの慣習に従って問題なく生活しているように、バーチャルでもリアルでも社会に明示的な規範(法律)は要請されません。

コモンセンスが無効化している事の背景には、インターネットへの接続に特別な専門知識や特別な技能が必要無くなり、HP作成やブログ開設がほんの数分で出来るほど簡単で分かりやすいものになり、インターネットの言論活動を行う為に越える敷居が殆どなくなった事とも密接に関係しているでしょう。
コモンセンスが機能しないカオス的様相を見せる社会では、諸個人の利害が激しく対立したり、不当に権利が侵害された場合に、客観的な地点から調停や和解をもたらすことが困難になります。
特に、匿名者同士の他愛ない言い争いや対立の次元を越えて、現実社会での名誉毀損や権利侵害にまで及ぶような対立が生じる事態になると客観的な判断を下す為の一定の規範が要請されてくる事になるでしょう。
情報社会は、歴史が浅い為に、現実社会のような長い期間を経て常識としての地位を得る慣習に期待できない事もそういった規範の要請に繋がるのかもしれませんが、出来るだけ、自分達で自分達の自由を喪失する統制の事態を招くような愚行は避けるべきだとも思います。

インターネットが導入された初期の頃は、インターネット接続までの手順が複雑で面倒だった事やネット環境整備に高い費用がかかったことなどを理由にして、年齢・技術・趣味嗜好・社会的立場など(現在のインターネットに比べれば)同質性の高い個人によって情報社会が構築されていました。
ところが、現在では、情報技術の発展・普及や常時接続のプロバイダ料金の低下などに基づくインターネット接続に関する『敷居の消滅』によって、現実社会とあまり変わらない(年齢も趣味嗜好も価値観もインターネット利用目的も全く違う)『バラバラな多様性ある個人』によって構築されるアトム的な情報社会の新しい局面を迎えました。
それまで簡単に同意できていた価値観やわざわざ相手の同意の意志を確認するまでもなかった常識が、『バラバラな多様性ある個人』の参入によって従来のように無条件で通用しなくなってしまった事により数多くの解決困難な倫理や権利の問題が浮上してきたのだとも言えます。

ised@glocomでは、数多くの新しい概念を用いて討議が行われているようですが、サイバーカスケードとスマートモブという概念もなかなか面白いですね。
サイバーカスケードとスマートモブという概念は、『社会的な動物である人間の集団行動』を両側面から眺めて評価した社会学的な説明概念です。
サイバーカスケードが、実に的を射た面白い命名だなと感じたのは*1、カスケードは化学や生化学の分野なんかで使われている概念で、『ある信号伝達を契機として、分子レベルで連鎖的に滝(cascade)のように次々に反応が起こる事』を意味しますが、それを人間の情報社会における『他者との同調や共鳴の加速度的反応(付和雷同的な同調の拡大)とアナロジーで語っているところです。

サイバーカスケードは、情報社会における集団的な意志決定の『負の側面』を象徴する言葉で、『集団分極化 group polarization』と訳され民主主義社会を脅かす衆愚政治を招来するキーワードとなっているようです。


インターネットで直接民主制が可能になるという素朴なアイデアはよくいわれるが、もし実現するとどうなるか。インターネットでは、付和雷同的に自分と同じ考えの反響を見つけ、同調しあうことがごく容易に可能となる。そして個々人がそのように振る舞うことで、もともと人々が抱いていた主義主張の極端な純化・先鋭化へと、全体的な議論の収束先は向かってしまう。一方、自分たちとは反対側の立場を無視・排除する傾向が強化され、極端な意見が幅を効かせる、ポピュリズム的事態を招いてしまうという危険がある。こうしてインターネット上には、極端化し閉鎖化してしまったグループ(「エンクレーブ ecvlave(「飛び地」の意)」と呼ぶ)が無数に散らばる、きわめて流動的で不安定な状態となってしまう可能性がある。
(中略)
しかしサスティーンは、こうしたパーソナライゼーション技術が強化され、サイバーカスケードが頻発していくことで、いままでの民主主義社会における市民が必要としてきた、「思いがけない出来事や他者との接触機会」と「社会的な共通体験(共通の準拠枠、連帯財)」を喪失していくことになるのではないかと警鐘を鳴らす。こうしたサスティーンの主張の背景に一貫しているのは、共和制には直接民主制ではなく適度の熟考と討議が必要であり、「民主主義政治と市民」の関係を「市場と消費者」のメタファーで捉えることは危険であるということである。
 

サイバーカスケードは、アメリカの憲法学者・キャス・サンスティーンの『インターネットは民主主義の敵か』で提唱された情報社会の民主主義を悲観的に捉える概念です。
確かに、ネット空間では、強力なオピニオン・リーダーや魅力的なトピック・メイカー、カリスマ性のある極端で先鋭的な持論を展開する論客へと人気(アクセス数)が集まり、その意見や考えに同調して擁護する集団がカスケード的な過程を経て作られやすいとはいえるでしょうね。

しかし、私は、仮に政治的意思決定が情報社会で行われる段階が来るとしたら、現在、盛んに行われている娯楽や気晴らしとして行うネット空間での政治的な言論行為と実際に現実社会での利害や自由・財産・安全の保障に関わってくる政治的な言論行為とは似て非なるものになるのではないかと思います。
極端に純化され先鋭化した原理主義的な政治的スタンスは、それが現実社会に適用されたらどのような事態を招くかという正常な想像力を働かせる事で回避できると信じたいです。

また、奇抜さや斬新さだけで国民生活の利益につながる内実のない言説や極端な理想主義は、実際の政治的意思決定の場面になるとそれほど圧倒的な支持や得票を得られない可能性が高いのではないかと思います。
ただ、セキュリティ意識の高まりを逆手にとって、治安維持の名目で国民をデータベース化してシステマティックに完全管理しようとする情報技術社会における統制主義には最大限の注意と防衛が必要でしょう。

更に言えば、思考実験や仮想現実と割り切って行われる激しい極論のぶつかり合いや独裁的な趣のある強い個性の持ち主の見解を現実の社会を運営する法や制度として導入する事の危険性を読み解き判断するリテラシー能力が麻痺した『愚かなる個人を前提としたサイバーカスケード』に陥る恐れがある段階では、情報社会に政治的意思決定の場を移すべきではないでしょう。
恣意的な目的の下に、大衆を一定の誤った方向へと導こうとするデマゴーグ(扇動者)としての知識人や政治家はいつの時代にも存在します。
しかし、迂闊にデマゴーグに踊らされることなく、真に豊かで安全な魅力ある社会を築いていく為には、一人一人が主権者としての自覚を持ち、自分達の自由と権利は自分達の力で守るという決意を固める事が肝要です。

積極的な政治参加をして、意味ある意志決定を為すには、混沌とするインターネット空間の無数の言説に不用意に引き込まれることのない的確なメディアリテラシーを鍛え、政治経済や社会現象の諸問題に対する興味と知識を持つ事が要請されてきます。
愚かなる個の大衆迎合であるサイバーカスケードの陥穽に陥る事無く、賢明なる個の自律的結合としてのスマートモブを志向していく事が、複雑に錯綜する情報社会を創造的に生き抜く事に繋がるのではないかと思います。

しかし、情報社会の民主主義の可能性は、あくまで無意識的で自動的な自己組織化よりも社会を構成する『個人の性質と自覚』に依拠していると考えています。
自分の判断力や思考力を発揮することなく、盲目的に自己組織化する集団に迎合したり、商業的な意図に基づく情報戦略に無批判に洗脳されるがごとく踊らされるといった事態に陥らないよう、私たち個人が自分の頭で熟慮して判断を下せるように、情報社会におけるリテラシーを高め、情報の取捨選択の処理能力を洗練させていかなければなりません。
そういった意識的に自らの能力や可能性を高め、欺瞞なき他者との共生や共感性に根ざした連帯を望む個が増加していった結果として、『部分の総和以上の全体性』がネットワーク化され創発されてくるのかもしれません。

*1:カスケードという用語は、デジタル用語としてLAN接続でハブに複数のPCをつなぐ多段接続といった意味やウェブサイトの外観のスタイルを定義するCSS(Cascading Style Sheet)といった使用例もあります。